忘れもの
「マサ!どこにいるんだい!?マサ!」
お母さんが大きな声で名前を呼んでいる。
分かっていたけど聞こえていないことにして畦道を走り抜けて土手を駆け上るとその向こうに広がるすすきの野原の中へと飛び込んだ。
緑色から白、そして銀から黄金色へと変化してきた穂がキラキラと輝いて風に揺れ、頬を擽っていく感触に自然と笑みが浮かぶ。
秋の空は高くて薄青く澄んでいる。
その空を見上げたまま、すすきを両手でかき分け進む。
秋は実りの季節で畑には金の稲穂はもちろんイモ類やダイコンやカブがなり、山には茸や木の実が落ち、村の柿の木には柿がたくさん実をつけている。
村中の人間が総出で毎日稲を刈り、野菜を土から抜き、山からおこぼれを収穫にと忙しい。
そんな中抜け出すことにちょっとくらいの罪悪感はあるけど、昨日できた自分だけの友だちにどうしても会いたかったから。
少しだけ。
少しだけだから。
一生懸命みんなに詫びながらすすきの原を抜けて、そのまま山へと入る道を選ぶ。
いつもは煩いぐらいに鳴いている鳥たちの声は聞こえない。
ただ風が木の間を通っていく時に聞こえるざわめきだけがそこにはあった。
柔らかな土の上に折り重なるようにして積む茶色い葉を踏んで息を弾ませながらただ進む。
どこ?
どこにいるの?
約束なんてしてないけど、また会える?って聞いたら「おまえがのぞむなら」って答えてくれたから。
きっと会える。
たぶん。
もしかしたら。
会える――はず。
「だいじょうぶ」
苦しくなってきた胸を押さえて大きく息を吸いこんだ。
急いできたから汗ばんで暑い。
「かみさまなんだもん。わたしが近くにいるって分かってるはず」
焦らなくても向こうから来てくれるはず。
会ってくれるつもりなら。
必ず。
見つけてくれる。
あまり奥深くへ行ったら道を間違えて帰れなくなるから、いつも茸を取りに来る場所の近くにある小川へと下りた。
シダの葉が岩の隙間から勢いよく飛び出し、緑の苔がびっしりとついている岩の間から細いけど綺麗な水が流れているここは山へ入った時にみんながお世話になっている水場だ。
目を閉じて手を合わせ感謝の気持ちを表してからそっと近づき、小指同士をぴったりとくっつけてから水にくぐらせる。
皮膚がピリッとするくらいに冷たい水をくみ上げて口をつけると土と植物の香りがした。
甘い水が喉を通り、零れた水が首を濡らす。
それすら気持ちが良くて着物の袖や襟が重く湿るのも忘れてもう一度、もう一度と飲み続けた。
「マサ」
名前を呼ばれるまで全然気づけなかったのは相手がかみさまだから仕方ない。
それでも急に現れるのはびっくりする。
向かいの岩の上にしゃがみ徳利を片手に小首を傾げているかみさまの赤い顔を見ながらゆっくりと呼吸を整えた。
顔が真っ赤なのはお酒を呑んでいるからなのか、それとも元々なのか分からない。
それでも潤んだように輝く大きな黒い瞳や微笑んでいるかのように緩んでいる口がとても愛らしくて。
こちらも笑顔になってしまう。
「こんにちは、かみさま」
「こんにちは、じゃない」
額に二本皺を寄せて。
かみさまはちょっとご機嫌斜めの声を出す。
「会いに来てはいけなかった?」
だから怒られてしまうと慌てて尋ねれば「そうではない」と首を振る。
どうやらかみさまはお母さんが呼んでいるのを無視してここへと来たことを知っていた――もしかしたら見ていたのかもしれないけど――みたい。
「おや、なかすな」
「あれくらいじゃ泣いたりしないわ」
大げさだと反論するとかみさまはふいっと横を向く。
長く赤い毛が風にそよいで綺麗でついついぼうっと眺めてしまう。
「かみさま?」
徳利が岩に当たってチャプンと鳴る。
かみさまは背を向けて一気に岩の壁を登って行った。
「かみさまっ!お願い、待って!」
ぴたりと岩の上で止まったかみさまの背中に私はほっとしながら「ごめんなさい」をした。
「今度はちゃんと済ませてから来るから」
それならいいでしょ?
「また会ってくれる?」
「……おまえが」
のぞむなら。
かみさまの声はとても尊くて聞くたびに私の心を温かくしてくれる。
チラリとこちらを見た黒い瞳が目が合うと細められた。
「きをつけてかえれ」
そう言ってひらりと岩の向こうにかみさまは消えた。
この山にかみさまがきたのは五年前の夏のこと。
群れに属していない大きな赤い毛の猿がいるって噂が大人に広まって、すぐに危険だからと子どもたちは山へ入れなくなった。
山にはたくさん食べものがあるけど、時々村にやってきて田畑を荒らす獣もいる。
特に群れから離れて生活しているなら元々いる猿たちの縄張りへは入れないかみさまは村へ下りてくるかもしれないってみんながぴりぴりしてて。
でもかみさまは一度も村へ来ることは無かった。
森でばったり会っても近づいてこないし、普通の猿みたいに牙を剥きだして威嚇もしない。
中には酒を呑んで楽しそうに踊っているのを見たことがある大人もいたし、山菜を採っている時に姿は見えないけど子どものような声で歌ったり喋ったりしているのをわたしも聞いたことがあった。
つかず離れず。
かみさまとわたしたちは上手くやっていた。
住む場所を侵すことはしないし、共有する場所ではお互いを尊重して。
かみさまが危害を加えたりしないって分かってからはみんな怖がらなくなったし、遠くに姿を見たら気軽に挨拶をするようになったりもした。
かみさまがかみさまと呼ばれるようになったのは三年前。
ひでりが続き、田畑が干上がってしまった。
初夏に植えた稲の苗は罅割れた泥の上に萎れて、畑の野菜も育たない。
このままでは収穫できず雪深い冬の間にひもじくて死んでしまう。
木の根をかじって飢えをしのがなくてはならないことをみんなが覚悟し始めた頃。
ふらりふらりと山からかみさまが下りてきた。
徳利片手になにやら楽しそうに鼻歌を歌って。
今まで一度も来たことが無いのに。
みんな驚いて急いで家の中へ逃げ、かみさまはゆうゆうと土手の上を体を揺らして歩いて行く。
見たことも無いような不思議な歩き方で。
酔っぱらって足取りが怪しいわけじゃない。
目的があるように確かな足運び。
何度も繰り返されればそれにはちゃんと意味があるのだと分かる。
聞いたことのない歌は子どものような無邪気さで。
きっと呼んでいたんだ。
幸せを。
かみさまは。
みんなの幸せを。
願って。
そういえばかみさまが来てからずっと山は豊かさを保ち続け、近隣の村や里が不作の時でもこの村だけは常に豊作であり続けていた。
地震が起きた時もこの山と麓にあるこの村だけは土砂崩れにも地割れにも飲み込まれずに済んだ。
夏の大嵐の時だって。
冬の雪崩が襲った時も。
この村は不思議なほど危機を逃れていた。
護られていたのだ。
かみさまに。
ずっと。
偶然かもしれない。
でもそれでもよかった。
かみさまがかみさまとしていてくれれば。
わたしはそれでよかったんだよ。
かみさまがずっと善いお隣さんでいてくれたから。
みんなに受け入れられたのに。
ごめんね。
ごめんね。
わたしがかみさまを友だちだなんて勝手に思ってしまったから。
いけなかったんだよね。
忘れられたままの徳利をわたしは返せなかったことだけが気がかりだった。
これがあったらかみさまはかみさまでいられた?
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ゆるして。
お願いだから。
助けて。
ねえ。
助けて。
おねえちゃん。
かみさまに伝えて。
かみさまを助けて。
お願い。
おねがい。
おねえちゃん。
かみさまを。
救って。
ああ。
わたしが。
私になっていく。
ここはどこ?
私は
だれ?
「――ぎ、――つ、――むぎ」
「――――ひっ!」
「大丈夫か?魘されておったぞ。それに妙な気配もしておったし」
覗き込んできた青い顔の小鬼の姿に私は悲鳴を上げて飛び起きた。
心臓がバクバクいってて苦しい。
「つ、露草。わ、わた、私」
今。
「夢」
じゃない。
あれは。
「記憶を、」
見てた。
「女の子、マサっていう子の」
だめだ。
頭がグルグルする。
あまりにも強すぎて。
あの子の想いが。
きつい。
「私、また無意識に力使ってた……?」
違和感の残るおでこを擦ろうと手を当てた、その指先に眼鏡のフレームが当たって「これか!」とがっくりした。
そりゃ眼鏡かけたまま寝てたら無防備だもん。
力発動するよねぇ。
「でも千秋寺って簡単に出入りできないよね?」
濡れ女さんは階段半分しか上って来れなかったし、おじいちゃんは許可をもらったから入って来られたっていってたし。
幽霊はざっくりいうと思念だけなわけだから、こうやってマサちゃんの記憶や意識を見るのもできないんじゃないかな?
「そりゃ紬が呼んで引き入れたからだね。ま、向こうもなんとかして接触したがってたみたいだし。お互いの利害が一致した結果だね」
「宗春さん」
一体いつからそこにいたんですかという疑問はもう口にするのは止めておく。
宗春さんは床の間の柱に背中をあてて座っていた。
「私が呼んだってどういうことですか?」
「言葉の通りだけど?狒々との交流があった誰か――そのマサとかいう子どものことを知りたいって思ったんじゃないの?その莫迦みたいな紬の感応力というか共感力には正直呆れるけど」
軽く肩を竦める宗春さんを眺めながら私は図星だったのでぐっと黙る。
でも知りたいと思っただけで関係のある子を呼べるって異常だ。
そんなに私の力は強くないと思う。
だから宗春さんがいうようにあの子――マサちゃんが私に伝えたいことがあったからで。
そうだよ。
「……助けてって」
かみさまを救って欲しいって。
伝えてって。
「救いたい?」
たった五音の言葉を宗春さんはゆっくりと口にした。
私は吸い込まれそうな綺麗な瞳に見つめられ動けなくなる。
ドキドキと速く、乱れて行く心臓の音を聞きながら果たして素直に答えていいのかと悩む。
どうしよう。
救うって響きはとっても温かくて前向きなものなのに怖い。
「狒々を、助けたくないの?」
「――――っ、たい」
助けたいけど。
求められているのはきっと違う。
私の思っているものと絶対に。
だから頷けなくて。
「しょうがないなぁ」
長い、長いまつ毛が降りて宗春さんの深い瞳がその向こうに隠れる。
私はやっと緊張から解放されてほうっと息を吐き出した。
だけど。
宗春さんは諦めたわけじゃなかった。
柱に預けていた背中を起こして座りなおす。
一寸の隙も無いその姿は私を逃がすつもりはないと無言で伝えてくる。
「宗春さん、私は――」
「紬、妖に捕食された人はどうなると思う?」
私だって望んでもいないことをさせられるのは嫌だから必死で抵抗するために自分の意思を発そうとしたけど、宗春さんは聞く耳を持たないどころか私の発言に被せてくる。
しかも食べられた人はどうなるか?
なんてことを平気で聞いてくる。
本当にこの人は性格が悪い。
「どうって、その妖の血となり力となるんじゃないんですか?」
それを教えてくれたのは宗春さんであり大八さんや露草――妖たちだ。
「そう。血となり肉となり力となる。覚えていてくれて良かったよ。無駄にならずにすんだ」
「無駄って……!あれだけ何度も教えて貰ったらいくら私でも忘れたりしませんっ」
わざと怒らせようとしているんだろうか。
いつだって宗春さんはこうして嫌な言い方をする。
むっとして語尾を強く言い切るとすごく嬉しそうに微笑んで。
笑顔だけ見ていれば爽やかで好青年に見えるけど、宗春さんがこういう笑い方をする時はあまりよろしくない言動をすることが多い。
「なんですか?」
一応警戒しながら問うと「じゃあ魂はどうなると思う?」なんてことを逆に聞き返してくるから戸惑ってしまって。
私はバカみたいに口を半開きにして宗春さんを見つめ返すだけしかできなかった。
「一体どこへいくんだろうね?」
まるで歌うように魂の行方を仄めかすから。
うなじから背中までの産毛がゾワゾワッと逆立った。
「て、天国……じゃ、なさそうですね」
「そうだね。仏教では天国じゃなくて極楽だけど。で、魂はどこに?」
どうしても私に答えをいわせたいみたいでしつこい。
前ふりから考えればいくところはひとつしかないでしょ。
こんなの外れっこない。
悔しい。
でも答えなくちゃ終わらない。
このやり取りは。
分かっているから私は渋々正解――であろう答え――を、声を絞って吐き出した。
「……妖の、中」
いやだ。
宗春さんは本当に意地悪だ。
「うん。ご明察。簡単な問題だったから当然だけど。つまり狒々の中にはこれまで食べ続けてきた人の魂が捕らわれているんだ」
輪廻の輪に戻れずに。
ずっと。
「妖魔を倒す必要があるのはそこにあるんだ。魂が逝くべきところへと還るのなら別に僕たちが妖魔を退治しなくても構わないんだよ。あれだって生きていることに変わらないからね。無駄な殺生はしないですむならその方がいい」
しれっと“あれ”呼ばわりしたけど、その中には妖魔だけじゃなくてひっそりと暮らしている妖ももちろん含まれていて。
まあ、宗春さんにとってみれば妖は虫と同格くらいのどうでもいいような存在なんだろうけどさ。
「でも救われたいと願う魂があるのならそれを解き放って還すのが僕たちの仕事でもあるわけだからね。そのことに対しての文句はなにもないよ」
そのために磨かれた力。
脈々と受け継がれてきたもの。
「時々お節介な妖が妖魔退治をしてくれるんだけど、解放された魂は迷わず逝けるように導く必要があって。長く魔性に触れすぎた魂は悪霊となって害をなすようになるし、恨みや妬みなんかの悪意が凝って変化して新たな妖魔を生むこともあるから慎重に事を運ぶ必要があるんだけど」
本当に迷惑だよねと言いつつも宗春さんの表情は安定の素敵な笑顔が張り付いていて本心はどっちなのか分からない。
この人は本当に分かり辛いんだよ。
なんてのんきにしていたら宗春さんは私の目の前に一枚の紙を差し出した。
流れるような筆跡と朱色の印が押された短冊形に切られた和紙。
これって。
宗明さんの。
お札?
自分が貰った分は鞄に入っているし、数枚ポケット入れている。
今更宗春さんに差し出されなくても困ってないんだけど。
「心配しなくても大丈夫。今回は兄さんも僕もいるから」
「心配って、ちょっ!え?え!?まさか!?待って!?」
え?
なにそれ。
決定事項なわけ!?
「わた、私が!?狒々を!?」
冗談でしょ!?
叫ぶ私を笑顔であしらい宗春さんは「救いたいんでしょ?」と言い放つ。
「で、でき」
ないよ!
できるわけない!
「覚悟きめなよ。往生際が悪い」
「そんなっ!」
対抗できるような力なんてないのに、宗明さんのお札だけで狒々を。
倒せだなんて。
そんなの無茶すぎる。
「狒々は極限まで弱ってる。この札を貼るだけで消失するくらいには」
「かもしれないけどっ」
私には重すぎる。
狒々の命を奪うなんて。
背負うにはあまりにも大きい。
「頼まれたんじゃないの?狒々と親しかった女の子に」
「――――!」
頼まれた。
頼まれたけど。
どうしたらいいの?
なにが正解なの?
分からない。
分かんない。
こんなの。
決められない。
迷っている私の膝の上にひらりと札を乗せて宗春さんは腰を上げる。
立ちながらも尚私を揺さぶる。
「生まれ変わって地上での修業を繰り返すなんて僕なら御免こうむるけど」
殆どの魂は還りたがるよ。
「狒々の命と捕らわれている何百という魂を秤にかけて、紬はどちらを取るの?どうせ紬が引導を渡さなくても狒々は死ぬよ。ただそのまま消えていくのと、紬に最期を看取ってもらうのと果たしてどちらが幸せかな?」
「そんなの……」
分からない。
分からないけど。
「まあ、せいぜい。失望させないでね」
そう言い置いて。
宗春さんは出て行った。
一部始終を見ていた露草が「大丈夫か?」と声をかけてくれたけど、突然任された大役に私は押しつぶされてしまって。
情けないけど震えながら首を左右に振るしかできなかった。




