私が味わったもの
血がしたたる肉を貪り食べるカニバリズム的表現があります。
苦手な方はお読みになるのをおやめになったほうがいいかもしれません。
今日も絶賛対戦中です。
というかもはや鬼ごっこになっておりますが。
そこだ!と思った時にはもうそこにはいなくてひらりひらりとかわされ続けてこっちの息の方が上がってしまう。
ヒヒヒッ!といつものように笑いながらぴょんぴょんと跳ねて挑発してくる狒々は現実ではぐったりとしているのに、この精神世界では本当に生き生きとしているので弱ったふりでもしているのかと疑いたくもなる。
でもそれが演技ではないことは地面に吸い取られた黒い染みや異臭や力の入らない手足とかで分かるから。
時間が無いのは紬も狒々も同じ――そう言ったのは宗春さんだ。
私は有給という限りある休暇の時間が。
狒々は命という永遠の時間が失われる。
本当はこんなこと考えちゃいけないんだと思う。
きっと私が想像している以上に狒々は恐怖を与えながらたくさんの命を奪っているから。
いなくなって消えてしまってもいいんだって。
当然だって。
思いたいけど。
やっぱりできない私は本当にバカで。
愚かで。
じゃあ狒々を死なせないために自分を犠牲にしてもいいと考えられるほどの度胸は無くて。
私にできること。
私にしかできないことを考えてみるけどそれは簡単には思いつかないし。
――どうしタ?集中シロよぉ
追いかけるのを止めて悶々と不毛なことを考えている私を狒々がつまらなそうに顔を顰めてゆらゆらと左右に体を揺らす。
――ドウセ、変わラない
――お前には救えナイ
――ナニもでキない!
ああ、もう。
うるさい。
そうだよね。
狒々には私の心の中なんて簡単に読めちゃうんだ。
だからこうやって悩んで、迷っているのも全部筒抜けで。
――非情にナレナキャこの先難しいゾぉ
なんてヒィヒィヒィって嗤われて。
妙に甲高くて耳障りなこの声も馴染んでしまえば全く気にならないから不思議だ。
――やっぱりバカだナ!人ガ好過ぎルにも程があるダロ。お前そんナんでよく今まで生きて来らレタな!
真っ赤な瞳を丸々とさせて驚いているというより呆れている狒々の表情に悔しくて仕方がなくなる。
こんなにバカにされて、嫌なこともいっぱいいわれてるのに目の前の狒々がもうすぐ死んじゃうんだと思ったらなんかやっぱり可哀想だって思っちゃって。
――アレ程恐ろしイ目に合せてヤッタってのに腹立ツ奴メ。いいだロォ。思い出サせてヤル……
え?なに?
なんか怖いこといってない?
ちょ、ちょっと待って!え?なんで!?大きくっ――うひゃぁあああ!?
さっきまで捕まらないようにって逃げ回ってたくせに今度は逆にこっちへと迫ってくる。
しかも上下左右に狒々の身体が大きく広がって覆いかぶさって来るみたいに。
足元に影が落ちたと思ったらあっという間に目の前が真っ暗になってなにも見えなくなった。
狒々の気配も。
音もない。
暗がりにひとり。
なんだろう。
これが狒々がいう恐ろしい目なのかな……?
確かになにも見えなくて不安だけど。
でも恐怖というほどのことじゃない。
じゃない――けど。
ここはどこなんだろう?
精神世界の中にいると自分と外との境が本当に曖昧で。
今いるところがどこなのか分からなくなる。
ここは私の中なのかそれとも外――もしかしたら狒々の中に引きずり込まれているかも知れなくて。
そんなことが頭の中に過ると少しずつ不安が恐怖に変わっていく。
どうしよう?
こういう時も遮断する時の要領でシャッターを下ろせばいいの?
近くで宗春さんが見てくれているのが分かっていても、直接アドバイスをもらえるわけじゃないしきっとギリギリまで手助けもしてくれないだろうしなぁ。
そもそも宗春さんって見えてんの?
この今の状況っていうか、精神世界で狒々と追いかけっこしているとこも。
ああもうよく分かんないけど信じるしかない。
ええっとまずは深呼吸して、それからゆっくり息を吐き出して。
いち、に、さん、し、ご。
いち、に、さん、し、ご。
うん。
落ち着いてきた。
いち、に、さん、し、ご。
閉じていてもいなくても同じだけどなんとなく瞼をおろして。
息を吐き出す時にふっと意識を集中させるとおでこの中心からなにかが外へと飛び出して行く。
それは細い糸のようなもののような、意識そのもののような。
なにかにコトコト引かれるように進んで、糸の先になにかが触れた――と思った瞬間に繋がって光が弾けた。
ゴリゴリゴリッ――。
硬いものをすり潰すような音が辺りに反響してる。
薄暗くて見えにくいけど足元がごつごつした岩肌だから洞窟のようなところなのかもしれない。
ピチャ……ピチャッ……。
水音が聞こえる。
どこから?
なんて思っていたら自分の口から漏れていて耳にも生々しく入ってくる。
顎を動かし牙を使って肉を千切り時には軟骨や筋を噛み砕き私は一生懸命食べていた。
滴る血を舌で舐めとり啜る。
白く柔らかな皮膚を切り裂いて、虚ろな瞳で横たわる小さな女の子を貪るように必死になって。
着ていた着物の残骸や履いていた草履の片方が彼女の僅かに残っている頭部や脚の傍らに転がる様子は吐き気がするほど醜悪だった。
それでも手は女の子の脚へと伸び、鼻先を腿に押し付けながら無心に口を動かす。
生肉は意外にもあっさりとしていて舌に絡まる血の甘さや骨の周りについている筋肉や血管、骨と筋肉を繋ぐ腱は食感にアクセントをつけていて――こういったらあれなんだけど――美味しかった。
悔しいけど今まで食べたことのあるものの中で一番かもしれない。
血はまるでアルコールのように香り、お肉は噛むほどに味わいが染み出てくる。
食べれば食べるほど酔ったように気分がよくなるし、場所によってお肉の弾力や味も変わってくるから手が止まらない。
でも女の子を食べているんだと分かっている私は気分が悪くて口に入れるたびに反射的に吐き出そうとするんだけど、身体は悦び心はもっともっとと欲する。
なんで!?
もう、やだ!
ほつれた髪が罅割れた唇や涙で汚れた頬にかかっていてよく顔は見えないけど、頭の小ささや髪の毛の細さからまだほんの小さな子どもだと分かって苦しい。
――ああ、うまい……うまいなぁ……サケなんかよりよっぽどうまい……
急に視界が歪んで頬を温かいものが流れていく感触がした。
女の子の美味しさを噛みしめるように呻く声は濁りが無くて感動して震えている。
――こんなにうまいんだなぁ……しってたら、もっと、はやく
食い殺していたのに。
手が伸びる。
指先に女の子の耳が触れ端を掴むようにして引っ張ると髪の毛が石に絡んでガクガク揺れて。
反動で逆側へと転がりそうになるとそのまま消えてなくなってしまうとでもいうように飛び上がって抱え上げた。
綺麗な赤い毛に包まれた胸にぎゅっと。
そして血が固まった爪と指で女の子の髪を払って見下ろす。
――どうしてかなぁ……
光の消えた女の子の瞳を覗き込むとそこには猿が途方に暮れたような顔で泣いているのが映ってた。
もうその目でなにも見ることができないのに映すことはできるなんて。
――ヒトはよわいなぁ……すぐにしんじまう
だから食べてやらないと。
――すぐ、くさる
目を離すと奪われるから。
――いそがないと
あんぐりと口を開けて牙を出す。
狙いは女の子の左目の下にある小さなほくろ。
柔らかなほっぺたの膨らみが瞼の下に向けて緩くカーブを描いている部分に。
思いきり。
ゴリッ――――。
なにこれ。
なにこれ。
なにこれ。
ほんとに無理。
もう無理。
これ以上見れない。
見たくない。
やめて。
やめて。
やめて――!
両手を上げて勢いよく振り下ろす。
容赦なく。
全てを。
拒むように。
コトコトコトコト――――ブツッ。
ああ、ほんとに。
信じられない。
これは恐怖じゃない。
これは。
嫌悪だ。
戻ってきた身体もすごく冷え切っていて私は奥歯をカチカチいわせて震えていた。
無意識のうちに二の腕を擦りながら二歩下がる。
さっき見てきた記憶とは違って地面に無残な姿で横たわっているのは狒々だったけれど、あの女の子の血や肉の味が口の中に蘇って――。
「うっ……!」
胃が裏返るんじゃないかって思うくらいの気持ち悪さに口を押さえて蹲る。
ぴゅうっと露草が飛んできて「大丈夫か!?」と心配してくれるけど、平気だなんてとてもじゃないけどいえなくてじっと耐えた。
「無理して我慢する方が辛いと思うけどここで嘔吐されても困る。しばらく休んで歩けそうなら待つけど?」
あの、それ休んでも歩けないならどうなるんですか?
聞きたいけど口を開いたらとんでもないことになるから答えられませんと言う意味で首を振った。
なのに。
「しょうがないな」という言葉の後で宗春さんの気配がすごく近くまできて、問答無用で上半身を起こされた。
その拍子に食道を一気に駆け上がってきてやばいものがすぐそばで迫ってくる。
今まで我慢しているのが無駄になっちゃうからやめて!
「ん――!?」
「こういう力仕事は大八の仕事なんだけど」
本当に嫌だというのが声にこもっていて、そんなに気が進まないなら放っておいてもらった方がいいのにとさすがにむかむかしていたら。
背中を支えられたと思ったら抱き寄せられて、そのまま苦も無く持ち上げられてしまった。
なんか似たようなことが以前にもありましたね……。
相手は宗春さんじゃなくて銀次さんだったけど。
あの時も気持ち悪くて吐きそうだったし。
情けない。
ほんとに恥ずかしい。
でも口からいけないものが噴出さないようにしっかりと両手で口を覆っていなくちゃいけないからここは黙って運んでもらおう。
今度は吐かせてもらわなくても自分で戻せるからあの時ほどのダメージは無いはず。
とにかく宗春さんの洋服や手や胸元を汚さないようにはやく目的の場所へとついて欲しいと心から願う。
宗春さんは事務所に入らず参拝者が使う外にあるお客さま用のトイレへとずんずんと足を踏み入れ、一番近い個室へ私を下ろして「後は自分でどうぞ」と言葉を残して戸を閉めて行った。
ありがたい。
私は便座にしがみつきながら我慢していたものを吐き出せることに深く安堵した。
でも気分は最悪だ。
狒々が感じ味わったものを追体験しただけだとはいえ人の肉や血を口にして美味しいと思ってしまったことがひどく私の心を乱している。
嫌悪は狒々に対してだけじゃない。
感じた“美味しい”の感情と味はしっかりと私の中に刻みつけられてしまった。
人でありながら人を美味しいと思うなんて。
今まで食べたものの中で一番だなんて――。
これこそが恐怖かもしれないと怯えて私は泣きながら嘔吐した。