まずは非日常を満喫す?
和室から出て廊下を歩いて行くと途中から外廊下へと変わった。
屋根はあるけれど風が強く吹けば床は濡れるし、常に拭き掃除していなければ土埃で汚れるんだろうけどそこは綺麗に磨き上げられていてザラザラする感触は全く無い。
緑色の苔に覆われた大きめの石と小さな池を囲うように廊下は続いていて、古いけれどどっしりとした建物へと近づいて行く。
前を歩く宗明さんは背筋を伸ばして迷いのない足取りで進んでいる。
多分、目の前に見えているあの建物が本堂なんだと思う。
でもいわゆる有名なお寺のように重厚で大きな瓦屋根とかでもないし、煌びやかな装飾とかもない。
なんだろう?
どう言ったらいいのか分からないけど、木でできた雨戸や手摺の年季の入り方とか、開けてある戸から見える畳の褪せた色だとか大きな柱が黒くて艶々しているのとか――とにかくとても古くて趣があるというか、風情があるというか。
見上げた屋根の瓦が白っぽくなっていて、隙間から野草が生えているからそんなに裕福なお寺じゃないのかもしれない。
観光客が来るような場所でもないし、お守りやおみくじを売っているような気配もないから経営は厳しいのかもしれないなぁ。
お寺さんの事情はよく知らないけど、きっと色々あるに違いない。
宗明さんが敷居を超えて本堂へと入って行く。
私も慌てて続くとそこには大八さんと宗春さんもいて、一段高くなっている場所でなにやら話していた。
そこに宗明さんも加わって私の存在なんか忘れたかのように放置される。
その隙に何気なく天井を見上げて思わず「うわぁ」と驚きの声を上げた。
格子状になった部分にそれぞれ違う草花が描かれている。
きっと昔は綺麗な色をしていたのだろうけど今は煤けていて線も良く見えない――けど。
とても綺麗だった。
丁寧にその花や草の違いを描いているのが分かるし、飾るでもなくそのままを絵にしてある。
ひとつとして同じものはなくて。
恥じるでもなく堂々とあるがまま、そこに咲き誇る野花の力強さに私は圧倒されたんだと思う。
「なに見てるの?」
畳が擦れてこっちへと近づいてくる音がしても私は痺れたように天井を見上げていた。
空気が揺れて今自分が着ているものと同じ匂い――多分洗剤か柔軟剤だと思う――がびっくりするぐらいすぐ傍でして固まった。
「……ああ、天井絵見てたのか」
面白い?と不思議そうに首を傾げながら私の顔を覗き込むようにするその視界から逃げたくて「いえ、別に……」と顔を背ける。
それと同時に二歩ほど離れて、そのままじりじりと気づかれないように後退ったのだが宗春さんは目元を緩めて笑うと手招きをした。
うぐぐ……できれば近づきたくないんですけど!
先ほど芽生えていた殺意も本人を前にするとシュワシュワと音を立てて蒸発してしまうのだから私の本気の怒りもたかが知れている。
近寄ったらなにをされるか分かったものでは無いのでじりじりと間合いを取りながら必死で大八さんへ救助要請をするのだがなかなか気づいてもらえない。
宗明さんと二人で奥まった場所に移動してなんかの準備らしきものをしている。
大八さぁああん!!気づいて!!
もうこの際、宗明さんでもいいから!
助けてくださいよぉおおお!!
「なに、その面白い反応」
「う……なにって」
あなたが怖いんです。
ただそれだけですが、なにか!?
でも怯えているのを宗春さんにバレてはまずい気がする。
すでに半泣き状態になってるから今更隠したところで遅いのかもしれないけど、私は必死で眉間に力を入れて手招きしている姿勢のまま止まっている宗春さんを睨みつけた。
「へぇ」
そう呟いた途端に笑みを深くした彼にゾクリと背筋が寒くなる。
なにか、今、私、してはいけないミスをしてしまったような……。
背中の寒気は腰を通り過ぎあっという間に膝まで到達した。
ガクガクと情けなく震えているけれど長いスカートのお蔭で彼には見えていないはず――なのに全てお見通しだと言わんばかりに視線が顔からゆっくり下がり舐めるように動いて力が入らない膝の部分で止まる。
「……なるほどね」
なによ。
なるほどってなに。
悔しいけどこれ以上強がることもできずに、じわじわと恐怖に凍りつく。
「兄さんから断られたやつ」
「……う、へ、え?」
宗春さんが笑顔のままツイッと一歩近づく。
まだ恐ろしい圧力に混乱している私は彼の言う“断られたやつ”のことについて正しく理解できない。
間の抜けた返答が気に食わなかったのか宗春さんは一瞬で表情を消した。
無表情なんてもんじゃない。
無の顔だ。
全ての感情が消えた、無の顔。
そんなの始めて見たので恐ろしさのあまり卒倒しそうだった。
でも今気を失ったら身の安全は保障されない気がする。
一気に血の気が失せて全身に震えが走り、ガクガクからガタガタに変わった。
「僕が代わりに教えてあげてもいいよ」
黒い瞳の奥からも光を消して、宗春さんは口の端だけ上げて微笑む。
赤い唇の隙間から白い歯が見えて壮絶に美しい。
――まるで人じゃないみたいに。
顔の作りは宗明さんも宗春さんも同じだし、兄弟だと言われれば疑う余地も無く納得がいくんだけど。
一見人当たりが良さそうに見える宗春さんは多分見た目通りの人じゃない。
まだ厳しくて冷たい無愛想な宗明さんの方がよほど人間らしい気がした。
宗春さんの申し出は本当に魅力的でありがたかったけれど、得体の知れない彼を頼ることに激しい抵抗がある。
それに見た目も服もお坊さんだと分かる宗明さんに比べて宗春さんは紺色のVネックセーターに黒の綿パンを穿いているから、いまいち彼が何者なのか分かりづらい。
教えてもいいというくらいなのだから、きっとそれなりに詳しくはあるんだろうけど。
「……け、結構です」
噛み合わない歯の根と思うように動かない舌を動かしてなんとかお断りすると宗春さんは軽く肩を竦めただけであっさりと引き下がった。
「そう?紬が何度通って頭を下げても兄さんはきっと曲げないと思うけどね」
しれっと悪びれもせず下の名前を呼び捨てられて緊張が解けた私はその場に座り込みたくなった。
本当にこの人は人の気も知らないで……。
でも、なんか掴み所のない宗春さんらしくもあるけど。
意識して吸ったり吐いたりをゆっくりしていると少しずつ落ち着いてきた。
「お待たせしました。小宮山さん、こちらへ」
やっと宗明さんが奥から出てきて迷いのない真っ直ぐな瞳を向けて、手のひらで上へと上がるようにと呼んでくれる。
急いで向かうと一段上がった場所は結構広くて、中央に黄色や紫や白とかの色で組まれた綺麗な紐で囲まれた四角く窪んだ場所があった。
中には灰が入っていて焚火をするように木が積み上がっているので、そこに火を着けて燃やすのかもしれない。
その手前に紫色の厚い座布団が置かれていて、金色の小さな壺や細長い棒、棒の先に幾つもの小さな輪がついているものなんかが小さな台の上に乗っている。
蝋燭や古めかしい菱形の灯篭に火が入っていてぼんやりと辺りを照らしているのを見てようやくここが薄暗いのだと気づいた。
仏壇に置かれているお鈴の大きいバージョンがどんっと存在感をアピールしている横に日本酒の一升瓶とお米、山盛りの塩が並べられていて、今から厳かな儀式が始まるのだから心しておくようにとまるで私を脅かしてでもいるようだ。
ふっと一番奥にある仏像に目がいった。
私には全然知識が無いので、その仏様がなんの仏様なのかまったく心当たりはないけれど、暗い中で蝋燭の灯りに照らされた黒々としたその像はゆったりと座って私を見下ろしている。
その両隣にも少し小さめの仏像が収められていて、片方は背中から炎を出し恐ろしい顔で剣を持っているから有名な不動明王だと分かったけど、もう一体の方は全く分からず心の中でこっそりと手を合わせて「無学なもので……すみません」と謝っておいた。
午前中だというのに今いる場所はまるで夕方のような薄暗さで現実感を曖昧にさせる。
ここがどこなのか、分からなくなるほどに。
どこからともなくお線香の匂いが強く香ってはっと我に返った。
いつの間にか紫の座布団の上に宗明さんが座っていて、宗春さんも右側の端の方に中央を向いて腰を下ろす。
大八さんが真剣な顔で身を乗り出し、組んだ木の上に軽く握った拳を移動させた後ゆっくりと掌を開くと――ポッと音を立てて乾いた木が赤い炎に包まれた。
「え……?」
驚いていると大八さんは私を見て得意気ににんまりと笑い、そのまま背を向けて下の畳へと下りて行く。
「紬、座って。始まるよ」
「え、あ。はい。すみません」
小声で宗春さんが教えてくれたけど、どこに座ったらいいのか。
宗明さんの傍では邪魔になりそうだし、宗春さんの近くはできればご遠慮したい。
かといってゆらゆらと影が躍っている仏像の前など恐れ多い上に大変失礼だろうから座れるわけもない。
なら左側に――。
宗春さんと炎を挟んで向かい合わせになるところに座ろうと足を踏み出したのだけど「小宮山さんはここへ」と抑揚のない声で宗明さんの右斜め後ろへの着席を促されてしまった。
こういう時の作法なんかなにも分からないから言うとおりするしかない。
一応宗春さんからは離れているからいいけど、畳の上に正座をして顔を上げたら丁度二人の横顔が見える位置だったのでギクリとする。
内心では慌てふためいている私のことなどお構いなしに宗明さんが手の指を複雑に動かしてぶつぶつ呟いた後で大きな鈴を鳴らしてお祓いが始まった。
咄嗟に両手を合わせたけど目を閉じていた方が良いのか、開けていた方が良いのか非常に悩む。
結局見えないことの方への恐怖が勝って、宗明さんの低いよく通る声を聞きながら彼の様子をじっと見つめた。
斜め前にある宗明さんの横顔は無駄なものを削ぎ落としたかのようにシュッとした顎や鼻と頬のラインとかが炎の揺らめきの中でくっきりと映し出されていてびっくりするほど男前だ。
伏せられた瞼の縁で濃い影を作る長いまつ毛や静かな黒い瞳があまりにも近くにあって勝手に胸がドキドキした。
黒い僧衣の襟元から長い首がなんとも美しく、お経を読んでいる途中で時々上下する喉仏すら尊いものの様に見える。
女の自分にはないものだからなのかな?
読まれているお経は聞き覚えのないものなので頭の中には留まらず音の余韻だけ残して流れていく。
ありがたいお経なのに理解できない私はまさに諺の中の馬と同じだ。
とほほと落ち込んでいる間に炎はどんどん大きくなって真っ赤な火の粉があちこちへと飛んでいく。
木の爆ぜる音。
焼ける匂い。
肌を炙る熱と白い煙。
いつしか宗春さんの声も宗明さんのものと重なるようにお経を読み始めていて、二人の声が煤けた天井へと吸い込まれていく。
私の目も心もそれに合わせてふわりと浮いて――。
ん?浮いて?
いやいや、待って!
浮いているのは私の意識じゃない!
白い帯状のなにかが天井でクルクルと舞っている。
煙に翻弄されているそれは私の後を付き纏っていたあの布のお化けではありませんか!
いなくなったと思っていたら、こんな所までついて来てたの?
でも濡れ女さんも半分までしか階段を登れなかったはずなのに……ここまで、しかも本堂まで一緒に来れたのだとしたら。
無害そうに見えてたけど実は一番力があったんじゃないの?
「嘘でしょ……?」
ぺらっぺらでいつも風に吹かれて飛ばされそうになっていたのに。
人は見かけによらないって言うけど、幽霊も同じなのかもしれない。
覚えておこう。
忘れないように心に刻んでいると、シャクシャクと金属が触れあう涼やかな鈴のような音が聞こえてきた。
それに合わせるようにお経も変わる。
リズムを取るような音は宗明さんと宗春さんの方からするので彼らがなにかをしているに違いないんだけど、それを確かめる為に顔を動かすことはできなかった。
だって、くるくると回っていた白い布のお化けが煙に包まれて形を変えようとしていたから。
煙がどんどん厚みの無いただの白布にくっついて生き物のように蠢きながら盛り上がったり、千切れたりする。
左側からなにかを手に持って大八さんが上がってきて、それを投げ入れると火柱が上がって火と煙の勢いが増す。
火に飲み込まれる瞬間に見覚えのある柄が目に入ったから、それがお気に入りだった小花柄のブラウスだと分かったけどもう惜しくはなかった。
病や厄を呼び寄せる服など二度と着たいとはさすがの私も思わない。
火事になるんじゃないかと思うくらいなのに、宗明さんも宗春さんもそのままお経を止めないからきっと大丈夫なんだろう。
次に大八さんが炎に入れたのは血で汚れた白いセーターと綿パンだったから、宗春さんの服も例外なく処分されたことで私の溜飲も下がったのは言うまでもない。
濛々と立ち上る煙とその隙間を縫って橙色の炎が走る。
その勢いを得て白い布は徐々に形を変えていく。
不思議なことに私の知っている人の姿へと。
それでもまだ遠くて、薄い。
思わず腰を上げて手を伸ばした。
それでも届かなくて立ち上がる。
「やだ、」
指先に触れた火花が落とした小さな疼きに私は堪え切れず声を上げた。
そのまま煙に飲み込まれて消えてしまうんじゃないかと怯えて。
燃え盛る炎に焼かれて苦しんでしまわないかと恐れて。
「待って」
行かないで――――。
傍にいて。
「おじいちゃんっ!」
私が叫んだのと大八さんが犬の死骸を投げたのは同時だった。
炎がぱくりと口を開けて犬の妖を丸呑みして――黒い煙と火が吹き出し、大八さんがそれを全部。
飲み込んだ。
彼の胸が大きく膨らんで、満足そうに目尻に皺を寄せて笑う。
唇と鼻から黒じゃなく白い煙が細長く出ているのを眺めて私は自分の正気を疑った。
ダメだ。
追いつかない。
理解も気持ちも。
これは現実なの――?
でも今はそんなことどうでもいい。
だって。
『紬、ようやっと会えたなぁ』
昔となにひとつ変わらない優しい声でおじいちゃんの声が私を呼んでいるんだから。
真打ヒーローおじいちゃん降臨!
(まあ、孫娘が心配で付きまとっていたから降臨とは言えないけど)
さて今回は大八さんの人間離れした部分が披露されましたが、それどころじゃない小宮山さん。
おじいちゃんはなにを語る?