父と娘の
「紬ちゃん悪いんだけどお客さまにお茶を出してもらえない?」
お水でも飲もうと台所へと向かうと緑茶をお盆に乗せた真希子さんと鉢合わせする。
良い所にと笑って差し出されて断れず「寺務所奥の客間ですか?」と聞くと「そうよ。お願いね」と頷かれる。
失礼の無いようにしなくちゃと緊張しながら歩き出した私の背中に真希子さんが「ごゆっくり」と謎の言葉をかけたけど、お茶を零さないようにと気を付けながら進むことでいっぱいいっぱいで。
ふんわりと香る緑茶の甘い匂いを嗅ぎながら、まだしばらくは水だけだからと喉が鳴るのを懸命に我慢した。
客間からは微かに話し声がするけれどなにを喋っているのか全く分からない。
お盆片手に障子を開けようと手を伸ばしたところでふと固まる。
あれ?そういえばどうするんだったっけ?
事務員として働いているからお客さまにお茶を出すことは慣れているけど、それはイスとテーブルの場合であって和室の時とはまた勝手が違う。
初めてここを訪ねて来た時は大八さんがお茶を出してくれたんだけど、普通に立ったまま障子を開けて入ってきて「ほら飲め」って感じだったからなぁ。
まさか私も同じようにするわけにはいかないので必死で思い出す。
確か座って一旦お盆を床に置いて「失礼します」と声をかけてから開けてお盆を中に入れて自分も入るんだったよね……?
後は流れでなんとかするしかない。
怖くて厳しいお客さまじゃありませんようにと祈りながら「失礼します」と障子越しに呼び掛けた。
「どうぞ」
宗明さんの声が聞こえて中からこちらへと意識が向けられるのが分かった。
開けてもいないのに部屋の中にいる人物の温かさだとか息遣い、眼差しの柔らかさと親密さが感じられて「あれ?」と首を捻る。
目を伏せたまま障子を開けた所でよく馴染んだ気配と匂いにはっと息を飲む。
「お」
入口に背を向けて座っていたからこちらを見るのにどうしても上半身を捻らざるを得ないんだけど、ベルトの上に乗っかっている柔らかいお腹には既視感を感じるし、血色のいい丸顔に丸いフレームの眼鏡をかけ目を垂らして微笑んでいるのは。
間違いない。
「お父さん、なんで」
「なんでってひどいな。娘が心配で様子を見に来たって言うのに」
仕事帰りのお父さんが困ったように頭を掻いている向こうで宗明さんが優しげに目を細めている。
それがなんだか照れくさくて私はお盆を持って中に入り、少し乱暴にお茶をお父さんの前に出した。
「大丈夫だよ。千秋寺の人たちには良くしてもらってるから」
「そりゃもちろん分かってるよ。分かってるからこそこうやって改めて挨拶しに来たんだ」
「ええ!?私が心配で来てくれたって言っておいて、本当はついでなんじゃない」
ついつい相手がお父さんだと口調が砕けてしまう。
それを宗明さんに聞かれていると思うと本当に恥ずかしいんだけど、他人行儀に話すのもなんだか違う気がするし。
「どっちも大事だからついでじゃないよ」
元気そうでよかった――と、くしゃりと笑った顔に安堵が見えて途端に申し訳なくなる。
考えてみれば狒々に襲われた夜中から姿を消して帰って来なくなった娘を心配しない親はいないはずで。
いくら怪我も無く元気にしていると説明されても直に見なくては安心できるはずがない。
「……ごめんなさい。心配かけて」
項垂れて謝る私の肩にお父さんが遠慮がちに手を乗せて軽く揺さぶった。
まるでそこに私がいるのを確かめているかのように。
「紬は親父に似たんだろうな」
霊媒体質だなんて。
「そのことに悩んで朝早くからここへ通っていたんだろ?ごめんな。気づいてやれなくて」
「そんなこと」
「父さんは親父と違ってそういう話はからっきしだから頼りにならんかっただろうけど、小さい頃から親父を見てきているから免疫がないわけじゃなし」
相談してもらいたかったなぁ――なんてぼやいて。
「なにやらたちの悪い悪霊に憑かれてたって聞いた。怖かっただろ?父さんだって紬の部屋の血だらけの窓見たら鳥肌立って恐ろしかったもんな」
悪霊じゃなくて妖だけど。
霊とかだとすんなり受け入れられるのはきっと情報が溢れているからだろうし、身近にちょっと不思議で怖い経験をしている人がいたりするからだと思う。
だから宗明さんは妖とは伝えずに霊の仕業だと説明したんだろうな。
まあ嘘でもない。
だって私の部屋にはお侍さんがいるし。
悪霊ではないけど霊が住みついているのは間違いない。
「親父がいればまた違ったんだろうけど」
自分の無力を感じてへこんでいるお父さんには悪いけど、おじいちゃんが生きていれば私は今の状況になってはいないわけで。
そのことを伝えるべきかどうか悩んでいると宗明さんと目が合ってそっと首を振られた。
唇が「今はまだ」と動いたのを読み取って小さく頷き返す。
確かに原因がおじいちゃんの眼鏡だって言えば「じゃあ外せ」となるのは目に見えているのでそれは私としても望む所じゃないし。
もうちょっと落ち着いて対処できるようになってからでも遅くないはず。
「親父は、紬のおじいちゃんは近所では千里眼を持ってるって評判だったんだ」
どうしてそう呼ばれるようになったかと言う話を聞くのは初めてだったので私は黙ってお父さんを見つめる。
「親父が小さい頃に授業で写生をしに山へ行ったことがあるらしくてな。行く前から親父は雨が降るから止めといた方が良いって先生に言っていたらしい。でも外はすごくいい天気で雨なんか降る気配なんかないから結局はクラス全員ででかけたそうだ」
おじいちゃんたちが小さい頃の一クラスって何人くらいなんだろう?
分からないけど三十人はいただろうし、きっとそれ以上いたんだと思う。
いくらおじいちゃんが言い張っても子どもの言うことを先生が取り合うわけない――しかも青空で雲ひとつ無かったら余計に。
でもおじいちゃんには見えてた。
雨が降ってずぶ濡れになる未来が。
だから止めた方が良いって言ったんだ。
「みんな広がって思い思い好きなものを描いて、先生がそろそろ帰るぞって声をかけた頃にもまだ晴天で親父を嘘つき呼ばわりしてからかう子どもも出始めたらしい」
「嘘つきなんて」
そんなひどいこと。
「子どもだから仕方がない。悪口のつもりじゃなかったんだ。そういうの分かるだろ?」
分かりたくはないけどその場のノリや空気でなんとなくそういう雰囲気になることはある。
「それでみんなで山を下りている最中に突然空が暗くなって稲光が走った。急に雨が降り始め雷がゴロゴロ鳴って。あっという間に全身が濡れるような雨だった」
画用紙が濡れて千切れ、服や髪が張り付いて。
ぬかるんだ山道を行くことを断念して先生は目についた一際大きな木の下へと子どもたちを誘導する。
――だめだ。そっちやない、こっち。
おじいちゃんが大声で止める。
その間にも雷は近づいて来て今にも近くに落ちそうなほど。
空気が痺れて肌が粟立ち恐怖が足元から這い上がってきて雨じゃなく涙で顔を汚しながら子どもたちは先生とおじいちゃんを交互に見やる。
――こっちにみんなが入れる洞窟がある。そっちに行こう!
音に負けないように叫んだおじいちゃんを先生はそれでも子どもたちを大きな木へと導こうとした。
――死にとうないやろ!?木の下おったらみんな、死ぬぞ!
雷が落ちる。
そう伝えても先生は迷いながら子どもたちを宥めて歩き出す。
木の方へ。
――だからゆうたんだ!雨が降るから行くのは止めようて!最初からゆうたやろ!?
はっとした顔でおじいちゃんを見て、先生はごくりと唾液を飲んだ。
子どもたちの怯えきった顔を眺め、ぴかぴか青く光る稲光と雷の音に戸惑いながら決断した。
――小宮山のいう通りにしよう。どこだ、洞窟は?案内してくれ。
おじいちゃんがほっとして肩の力を抜き急ぎ足でみんなを先導する。
山道を逸れて斜面を下りたそう遠くない所にぽかりと口をあけた大きな洞窟がありその中にみんなで身を寄せた頃大地が揺れて耳が破けるほどの凄い音が響いた。
まるで木が裂けるようなすごい音。
今まで聞いたことも無いような。
いつまでも耳の奥に残り他の音を塗りつぶして。
――雨が上がって元の道に戻ったら、総二郎さんが言ってた通り大きな木に雷が落ちとった。真っ二つに裂けた幹が黒くなって煙も仰山出て、離れてても分かるほどすごい温度やったわ。
おじいちゃんちのお向かいに住んでるカヨさんが興奮気味に子どものお父さんに話しかけている姿がぷかりと浮かんだ。
――それからみんなで良かったなぁって喜んで。総二郎さんは一躍ヒーローになったんよ。
おじいちゃんがみんなから特別な存在として見られるようになったのはその時かららしい。
でも大人たちは半信半疑で。
信じてくれたのも同じクラスの子たちと先生だけだったみたい。
きっとそれで良かったんだと思う。
あまり注目されると悪い人たちから利用されることもあるから。
むやみに頼られても困るだろうし。
おじいちゃんはいつでも力を使うんじゃなくて本当に必要な時――命に関わるようなこと――にしか使わなかっただろうから。
「だからな、紬」
昔話を語り終えて緑茶で喉を潤したお父さんが長いため息を吐いたあとで「お前の力は小宮山家にとってけっして異質なものじゃないんだ。怖がらなくていい。ここで色々と教えてもらって落ち着いたら」直ぐに帰って来るんだよ?なんていつもは言わないようなことを言うから。
思わず泣きそうになる。
「お父さん、ありがとう」
「なあに。父親として当然のことだろ?母さんも結も紬の帰りを待ってるから」
ゆるい笑顔を浮かべてお父さんは改めて宗明さんの方を向いた。
そして座布団から下りて畳に手を着いて上体をそっと前に倒す。
「ぼんやりして鈍臭いところのある娘ですのでなにかとご迷惑をおかけしていると思います。ですが私にとってかけがえのない大事な娘なんです。だからどうか、よろしくお願いします」
「わ、あの……よろしく、お願い――あだっ!」
父に倣って私も急いで頭を下げようとして距離感を間違えた。
テーブルの角に額を思いっきりぶつけて宗明さんには驚かれ、お父さんからは失笑を買ってしまう。
「まったく、紬らしい」
「うう……だって」
ジンジンと痛むおでこを擦って涙目になっていると宗明さんが立ち上がり無言で部屋を出て行く。
きっと冷やすなにかを取りに行ってくれているんだろうな。
申し訳ないです。
「宗明さんと言ったかな?彼は」
確認されたのでこくりと頷くとお父さんは短く息を吐いた。
さっきまで宗明さんが座っていた場所をじっと眺めて。
「真面目で信頼できる人だ。一緒に挨拶に来てくれた女性もとても親身に紬のことを思ってくれているのが分かったから、大切な娘を任せても大丈夫だと思ったんだ」
それでも娘の無事な姿を見られないのは不安で仕方が無くて。
「こうして挨拶を口実に来てしまったんだが」
「大丈夫。本当によくしてもらってるから」
「分かってる。分かってるんだ。それでも心配で。本当は最初母さんが行くって言い始めて。それを必死で止めてね」
顔を見たら泣いちゃうだろうから。
そして連れて帰ると言い出しかねないから。
「だから代わりに様子を見てくるって言って強引に通した」
いつも女ばっかりの中で肩身が狭い思いをして自分の意見なんか言わないのに。
そんなお父さんがお母さんを宥めて自分が行くって説得したなんて。
「お母さんがすんなり引くなんて信じられない」
「はは。母さんは父さんに惚れてるからな」
何故かのろける父の姿に苦笑いしつつ、夫婦が円満ならそれでいいかと思う。
まだいつ帰れるかはっきりとは言えないけど、テーブルを囲んでお母さんのご飯を食べて結と何気ない会話をしたい。
そして静かに晩酌をするお父さんに帰ったらお酌のひとつでもして、たまには付き合ってあげるのもいいかもしれないなぁ。
「帰ったらお母さんにお父さんがそう言ってたよっていっとく」
「あ、それはちょっとまずい」
余計なこと言ったなぁなんて耳の裏を掻くお父さんはおじいちゃんみたいに男前ではないけど愛嬌があってなかなか可愛いかもしれない。
「うそ。言わない。秘密にしとく」
「父さんと紬だけの秘密だな」
「うん」
なんだか久しぶりにお父さんといっぱい話した気がする。
反抗期はなかったけど思春期の微妙な時期はあったから、おじいちゃんところに遊びに行かなくなる前くらいからお父さんとはあんまり喋らなくなってたし。
“おはよう”とか“いってらっしゃい”とか挨拶や業務連絡のようなものは普通にするんだけどね。
こんなことあったよなんて子どもの時みたいに話すのはやっぱり照れくさいから。
でもこうして冗談言ったり、おじいちゃんのことを聞いたりするのは楽しくて。
だから。
「帰ったらたまには一緒にお酒飲もう」
そう誘うとお父さんは眼鏡と同じく目を丸くして「ああ、楽しみだなぁ」とくしゃりと笑顔になった。
「それじゃ紬の顔も見たし、挨拶も済んだから父さんは帰ろうかな」
「え?もう」
掛け声をかけながら立ち上がるお父さんを見上げると澄ました顔で母さんが待ってるからなんて言う。
まあデレデレしてないだけましだけど。
「帰れるようになったら連絡してな。母さんがはりきってご馳走作ってくれるから」
「うん。する。お母さんのご飯大好き」
「父さんも」
気取る必要も緊張もしないでいい相手というのは本当に貴重で。
家族というちょっと照れくさくて、でも居心地のいい存在が傍にいてくれるのといないのではとても違って。
じゃあねって別れるのがひどく辛くて。
心細い。
だめだ。
泣いちゃ。
心配させちゃう。
「おとう――」
「ごめんな。会いに来て」
こうなるって分かってたのに。
「もぉおお!違うから!これは、そう!おでこが、おでこが痛くて」
泣いてるんだから。
必死で言い訳しながら頬を押さえて俯いた。
レンズの上にぽたりぽたりと雫が落ちて。
歪んだ世界の向こうでお父さんの腕が困ったように左右に揺れている。
成人した娘を幼い頃の様に抱きしめるわけにもいかないからそりゃ困るよね。
私だってお父さんの前で泣くのはできれば遠慮したい。
「もういいから。帰るんでしょ?お母さんが待ってるよ」
「でもな」
「いいの。おでこを冷やせば涙も止まるから」
いつまでもお父さんがいたら別れが寂しくなる。
これが最後じゃないんだから。
ちゃんと終わったら帰れるんだから。
大丈夫。
「玄関までは送らないから。ここで見送る」
「分かった」
じゃあほどほどに頑張りなさい。
「なに、それ」
ほどほどって。
毎日宗春さんから真剣にやれとかもっと努力しろって言い慣れ過ぎてるから頑張りすぎるなって言われるとどうしていいやら。
「ずっと頑張ると疲れて本当に頑張らなきゃいけない時に力が出せなくなる。だからほどほどのところで力を抜いて、ここぞという時に全力を尽くす。だからほどほどになんだよ」
「…………すごい。ちゃんとした理由があった」
「ちょ、紬。父さんこれでも会社では部下に慕われるいい上司なんだぞ?」
「ごめんごめん。ありがとう」
びっくりしたけど父親らしいアドバイスをいただけたので後でノートにメモしておこう。
「じゃあまたね。気を付けて帰って」
「ああ。ありがとう」
軽く手を上げてお父さんは障子の向こうに消えた。
シルエットになったお父さんがそのまま寺務所の方へと移動しようとして足を止める。
奥の方から宗明さんが戻ってきたみたいでなにやら挨拶をしてぺこりと頭を下げてお父さんは帰って行った。
ぐぬぬ。
切ない。
お父さんが飲んでいた湯呑をお盆に回収していると背後で障子が音も無く開く。
「小宮山さん、これを」
背を向けているから宗明さんに顔は見えていないはずなのに。
そっとテーブルに置かれたのは冷えぴたとハンカチが一枚。
「……ありがとうございます」
「いいえ」
そのまま宗明さんは客間を出て行ってひとり。
手を伸ばして冷えぴたの透明のフィルムを外しておでこに貼り付け、宗明さんのものと思われるハンカチを握りしめてはらはらと涙を零した。




