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深夜の


 澄みきった空気が寒さと合わさって独特の音を響かせていた。

 温かいお布団から抜け出しひんやりとした廊下に足を乗せガラスに近づいて白く曇った部分を掌で拭う。

 クリアになったガラスの向こうに真っ白な世界が広がっていて思わず「わあっ」と歓声を上げた。


 降り積もった雪でなんだか丸く可愛くなっている石灯籠。

 真っ赤な花びらには透明の結晶が輝き枝葉を真っ白な化粧で彩る椿の木。

 夏の初めには綺麗な花を咲かせる百日紅の木も綺麗に剪定された松の木も、柊も秋にはとてもいい匂いをさせる金木犀も南天の木も全部。


 見渡す限り柔らかく白い色で包まれた世界。


 地面は特に真っ白でふわふわで。

 それだけで心躍る。


 カラリと音をさせて縁側の窓を開けると冷たい風が頬を撫で、ふと視線を動かすと誘うように小さな足跡が庭の奥へと向かって続いていた。


 お庭に出られるように石段の上にサンダルが置いてあるのは知っている。

 小さな動物が作った足跡を見失わないようにとしっかりと眺めたまま足を入れるとその中にまで雪が積もっていて指先をジンッと痺れさせた。


 右足を下ろす。


 底で雪が潰れる感触と横から雪が入ってくる冷たさにブルッと体を震わせて、それでも左足を先へと送れば段々と気にならなくなってくる。


 はやくはやく。


 少し弧を描くように足跡は軽やかに進んでいる。


 なんだろう?

 うさぎかな?

 それともねずみかな?


 頭に浮かぶ動物の種類が少なくて正解なんて分からない。

 足跡の特徴をしっかりと見て覚えて後で調べてみようとかそんなことを思うような子でもなかったから。


 もしかしたらまだそこにいるかもしれないという好奇心だけが体を動かしてた。


 まって。

 そこにいて。


 まだ。


「――――ゃん」


 家の方で誰かが呼んでる声がした。

 でも返事をするよりも目の前のことに夢中で。


 だって小さな足跡が突然乱れて雪が不自然に散っていた。

 どこから来たのか別の足跡――犬のものより少し大きいように見えた――がそれを追うように続いて。


 なんだろう?


 どきどきする胸の音が喧しかったけど更に二歩。

 雪を足先で掻き分けて進んだ先に赤い色が。


 見えた。


「おねえちゃん!」


 ずいぶんと大きな声で呼ばれてハッとなり急いで振り返ると庭の真ん中、百日紅の木の傍に結が今にも泣きそうな顔で立っていた。

 サンダルは私が履いて来ちゃったから可哀想に裸足で。

 寝癖のついた髪やパジャマの襟が左だけぴょこんと立っていて、今の今まで寝ていたのが分かる。

 なのに丸く大きな目を吊り上げて結はじっと私を強い眼差しで見つめてきた。


「結?どうしたの?こわいかおして」

「いっちゃだめ」

「結?」


 どこにもいかないよ?

 なにいってるの?


 それとも喋ったらだめってこと?


「そっちおっきいトリいる」


 小さな指が指したのは小さな足跡が向かった先。

 赤い色が見えた場所。


「だめ。いっちゃ」

「おおきな鳥?そんなの――」

「だめ!みちゃ」


 確かめるために首を回そうとすると結が悲鳴のような声を上げる。

 そして突然大きな声で泣き始めたのでびっくりした。


「ゆ、結」

「うわあぁああああん!」


 顔を真っ赤にして大粒の涙を零して泣く結を放っては置けずに私は慌てて駆け寄る。

 雪と大きなサンダルが邪魔して上手くいかなかったけどなんとか辿り着き、頭を撫でて涙を袖で拭い「だいじょうぶだから」となんとか慰めようとした。

 それなのに結は全然だいじょうぶじゃないとばかりに更に高い声を出して泣きじゃくる。


「結、ゆい」


 震える背中を撫でて腕の中に抱きしめると泣いて高くなった結の体温が心地よかった。

 わんわん泣く妹をどうやって泣き止ませたらいいのか。

 私はお姉ちゃんなのに分からなくて途方に暮れた。


 そもそも結は賢い子で親や私を泣いて困らせるようなことはそれまで無かったから。

 いつもぼんやりとしている私の方が妹に世話を焼かれているような所があって。


「どうした」


 泣き声を聞きつけてやってきたのはおじいちゃんだった。

 サクサクと雪や氷を踏む音をさせて。


「結おいで」

「……うん」


 おじいちゃんが腕を差し出すと結が身じろぎして手を伸ばしたので私はそっと離れた。

 まだぐずぐずと泣いている結の背中をポンポンと二回叩いてから頭に手を添えて。


「怖かったなぁ。もう大丈夫や」

「うん」


 すりすりとおじいちゃんの肩に頬を摺り寄せる結を羨ましいなぁと思いながら、やっと落ち着いて泣き止んでくれたことにほっとする。


「結が、あっち。おおきな鳥がいるっていって」

「紬」


 もう一度そっちの方を見ようとした私の頬を包むようにしておじいちゃんは抱き寄せて首を振った。


「いかん。今日は外に出るのは禁止だ。寒いから中で遊んだほうがええ」

「でも」

「そうせんと結がまた泣く。お姉ちゃんをとられたくないんだよ。分かってあげなさい」


 “とられる”という表現に首を傾げながら少し強く手を引かれて家の中へと戻った。



  ★  ★  ★


 異常な飢餓感と寒さに目を覚まし、掛け布団を引き上げて包まった。

 部屋の中はまだ暗くてしんっと静まり返っているからきっと夜中だと思う。

 断食中は体力を奪われるからお風呂は入らないそうで、他にすることも無いし疲れていたから直ぐに寝たんだけど。


 まさかこんな時間に目が覚めるとは思わなかった。


 もぞもぞと温もりを引き寄せながらもう一回寝ようと目を瞑るけどお腹が空きすぎて簡単には眠れそうにない。


「うう、ひもじい」


 痛みさえ感じる空腹という初めての経験はできれば二度と味わいたくない。

 そうだ。

 味わうなら真希子さんやお母さんの美味しいご飯の方が断然いい。


 しかも今回の断食。


 私だけでなく宗春さんと宗明さん、それから真希子さんや大八さんまで一緒になってやってくれていて。


 なんだか本当に申し訳ない。


 食を断つことに慣れている宗春さんや宗明さん、断食中の夫や息子に付き合ったこともある真希子さん、食べ物がなくても生きられる大八さんというメンバーの中で一番意志が弱くて未経験者の私だけが断食するという選択肢はここ千秋寺の中では無かったらしいので空腹の中美味しい匂いだけを嗅ぐという拷問を免れたことは本当に良かったと思う。


「だめだ、水。水飲んでこよう」


 ふらふらとお布団から抜け出して眼鏡を装着、パーカーを羽織っていると座布団の上で丸くなっていた露草が目を擦りながら顔を上げる。

「厠か?」と聞かれたので「お水を飲んでくる」と返すとそのまま頷きながら眠りに落ちるのを見届けて廊下に出た。

 白いうさぎのスリッパのもふもふを足裏に感じながら足音を立てないように台所へと向かう。

 薄暗い廊下を二度曲がった先に久世家のお台所はある。

 さすがに灯りを点けて水屋の前に立ち綺麗に並んでいるグラスの中から一番手前のコップを取り出して冷蔵庫を見た後で流しに進む。

 いくらお世話になっているからと言って冷蔵庫を勝手に開けるのは気が引けるし、お腹がぺこぺこの状態で美味しそうな食材を前に魔が差さないとは言い切れないから。


 ここまで我慢したのに一瞬で全てを台無しになんてできない。

 一番信じられないのは自分の弱く黒い心。


 目にしなければ惑わされることも無いから。


 私は蛇口の下にコップを差し出して水を出そうと右手を動かした所で声をかけられた。


「真希子さん」

「お腹が空いて眠れない?」


 ざっくり編みのクリーム色のカーディガンをパジャマの上に着た真希子さんは自分の分のコップを取り出して躊躇いも無く冷蔵庫を開けた。

 中からペットボトルを取り出して私の横に並び銀色の台の上にコップと一緒に置く。


「初めてだと辛いわよね。わたしたちは慣れてるから平気だけど」


 私の手からコップを取り上げてその中にペットボトルの冷えた水を注いだ。

 これは朝私が奥の院で汲んできたお水。


「家は井戸水だけど紬ちゃんが汲んできた水の方が疲労回復には効果あるし滋養があるから」


 こっちにしなさいと差し出してくれた。


「ありがとうございます」

「いいえ」


 コップの表面が直ぐに曇ってしまうほどに良く冷えた水をごくごくは飲めない。

 掌で包んで温めるようにしながらゆっくりと一口飲む。

 舌の先が冷たさでジンッと痺れたけどすぐに温くなって飲み込むとほんのりと甘く香った。


「辛いだろうけど頑張っただけ効果はあるから。突然言い出したみたいに感じるだろうけど宗春あのこなりに考えて必要だと決めたことだから」


 恨まないでやって欲しいと真希子さんに頼まれて思わず苦笑いを浮かべる。


「……そんなに辛そうに見えますかね」


 お腹が空きすぎて断食を言い渡した宗春さんに恨み言のひとつでもいいそうなほど追い込まれているように周りから見えるんだろうかと頬を抑えると、真希子さんがくすりと笑って小首を傾げた。


「お腹が空くとまともな思考を保つのが難しいのよ。食べ物のことが頭から離れなくなるし、そのことばっかり考えるようになっちゃうから」

「たしかに外に意識を向ける練習中ずっとお腹鳴りっぱなしで、集中できなかったです」


 わなわなして身体に力入らないし、だるくて重いし。

 何度も「ちゃんと集中して」とお叱りを受けたけど、必死になって意識を集めても保てるのは一分くらいで。


「それは集中できなくて当然よ」


 でもね、大丈夫。


「断食の前と後では全然違うの分かるから。水以外のものを断つことで身体の中の毒素を排出し心と肉体の浄化を促すことで精神は安定するし身体の不調もなくなるしいいことづくめよ」


 五感も鋭くなるし、身体も軽くなるしね。


「さあ、水を飲んで」


 こくりともう一口飲み下すと胃がきゅっと縮み上がるような心地がした。

 なのですぐに二口目を口に含んで喉を鳴らす。


 空っぽの胃だからそう感じるのか、とても水の味が濃い気がする。


「……甘い」

「でしょう?龍神池の水はとっても甘いのよ。どこの名水にも負けないくらいに美味しいと思うわ」


 真希子さんもコップに口をつけてコクコクと飲んだ。

 はぁっと息を吐き出して濡れた唇を親指で拭き「紬ちゃん」と私の名を呼ぶ。


 とても小さな声で。


「なんですか?」

「この水が飲めなくなったら悲しいわね」


 まつ毛の向こうで真希子さんの茶色の瞳がゆらゆらと揺れている。

 ペットボトルに浮いている水滴が流れて台の上に水だまりがじわりと広がっていくのを不安そうな顔でぼんやりと見つめて。


 自信に溢れ美しい龍姫さまが住む龍神池が枯れるということなんか考えられないけど、宗春さんは近い将来そうなると決まってるみたいに言っていたし、その上真希子さんまで“いつか”を語るから。


 それはきっと起こるんだろう。


 私はどちらかとういと龍神池がどうというより、商店街を覆っていた紫色のベールのようなものが気にかかる。


 理由なんて分からないけど。


「悲しいです」


 龍神池が無くなったら龍姫さまはどうなるのかな。

 そして対になる天音さまはどうなっちゃうんだろう。


 無事では済まないのか、それとも新しい住まいに引越せばいいだけなのか全然分からない。


 真希子さんの様子からきっと楽観できないことなんだと思うけど。


「神社やお寺に行ってみんなお願い事をするじゃない?」

「え?あ、はい。しますね」


 そりゃそのために参拝するんだからみんなお賽銭を入れて手を合わせそれぞれに願い事をするはずだし私もする。


 それが普通で。


 だから真希子さんの聞き方に少し違和感を抱く。


「しちゃ……いけないんですか?」

「ああ、違うのよ。そうじゃないの。たくさん来てもらって慕われることは神さまも仏さまも喜ぶし、それが力にもなるからいいのよ。でもね。お願い事をした後みんな知らんぷりでしょ?昔の人はかえりもうしと言ってちゃんと願いが叶いましたという報告と感謝をしに願解きをしに詣でたものなんだけど」


 知らないのもあるけど、知っていてもわざわざ足を運ぶ人は少ないかもしれない。

 困った時に簡単に神さまや仏さまに縋るからいちいち自分がなにをお願いしたか覚えていないのもあると思う。


「願解きをしないと神さまはずっとその願いを叶えようとするし、願いが叶うまで自分の足を剣で突き刺したまま耐える仏さまもいる。してもらったら感謝するのが普通の心の在り方でしょ?それが相手が神や仏になったら当然だと思うのはちょっと違う気がしない?」


 こちらを見た真希子さんの目はちょっと怒っていて、つんっと尖らせた唇からも不満に思っていることが伝わってくる。

 人と人との間で親切にしてもらったら「ありがとう」って伝えるのは挨拶みたいによく使われているのに、神さまや仏さまにはお願いするばかりで感謝することは少ない気がしたから真希子さんのお怒りはごもっともで。


「信じているからお願いしますと頼まれた時に働きかける力は恐るべきものだって天音さまが言ってました」


 もちろん心からの言葉という限定がしてあったけど、手を合わせて熱心に頼まれれば見て見ぬふりなんてできないんだろうし。


 天音さまはうんざりしているような言い方をしていたけど、とっても優しいから最後まで力になろうとするんだろうな。

 私のことだって全力で導いてくれるって約束してくれたし。


「信じて頼るばかりじゃなくて自分でも頑張らないと……」


 温くなった水を全部飲み干すと胃の中でちゃぷんと揺れて、ほんの少しだけ空腹を紛らせてくれた。

 龍姫さまの力が溶け込んだ聖なる水だと思えばなおさらありがたみもある。


「そうね。そう」


 シンクの縁をぐっと握って真希子さんはなぜか体に力を入れて声を振り絞った。


「頑張らなくちゃいけないのはわたしたちもだわ。龍神池を守るためにも龍の姫さまには本来の力を取り戻してもらわないといけないから」

「真希子さん、それって」


 どういう意味だろう?


 今のままでもじゅうぶん強いと思うんだけど、龍姫さまはあれでも力を抑えている――抑えられている?


 誰に?

 どうして?


 でもきっとそれが宗春さんや真希子さんが“いつか”を心配している原因なんだろう。


「大丈夫。紬ちゃんはおじいさまから譲っていただいた眼鏡の力を自分のものにすることを優先してちょうだい」


 首を振られてしまえばそれ以上聞くことはできなくなる。

 真希子さんはふんわりと優しく微笑んで「そろそろ寝ましょう」と私の背中を押す。

 おとなしく台所を出ると真希子さんが明かりを消して一瞬なにも見えなくなる。


 怖いことなんかなにもないのにすごく不安になって無意識に真希子さんのカーディガンを掴んだ。

 その手の甲を包んでくる手の温かさにほっと息を吐く。


「いつか」


 暗闇を裂くように声がぽつりと降ってきた。


「その時が来たら紬ちゃんにも――」


 後に続く言葉を私は待っていたのに、だんだんと薄闇に慣れてきた目が真希子さんを縋るように見つめても与えられることはなくて。


 悔しくて。

 悲しくて。


 でもそれは真希子さんの優しさで。


 温もりが離れていく寒さに耐えきれず必死でそれを追った。


「いつか、その時に」


 細い指に触れ。

 強く握ったら折れてしまいそうなそれにきゅっと指を絡めて。


「私が必要なら呼んでください。私も千秋寺の一員に」


 加えてください。


 ここまで深く関わったのに今更部外者扱いはいやだ。

 だから。

 お願い。


「みんなが好きなんです。大事だから」


 守りたい。


「私ができることなんて少ししかないけど」

「紬ちゃん」


 絡んだ指に力が籠る。

 真希子さんが眉を跳ね上げて頬を膨らませていた。


「だめよ」

「でも!」

「また言った。“なんて”って」


 約束したでしょ。


「すみません」


 卑下したわけじゃなくて今の私じゃ本当に足手纏いでしかないし、なんにもできないのは事実だから。


「ちゃんと力を使えるようになったら龍姫さまのこと教えてください。それから私にできることがあればそれも」


 なにができるかなんて全然分からないけど。


「天音さまは私にしかできないこともあるって言ってくれたから」


 だから。


「うん。そうよ。紬ちゃんにしかできないことはたくさんある。だからその時はお願いするわね。ありがとう……紬ちゃん」

「私こそ、いつもありがとうございます」

「いいのよ」


 するりと指が解けて真希子さんは笑って「おやすみなさい」と手を振って。

 自室のある方へと去って行く。

 私も「おやすみなさい」と返して露草の眠る部屋へと戻った。




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