綺麗で素っ気なく純粋で初心な人
外へ意識を向けるトレーニングは最初に自分の身体と外との境を確かめるところから始まった。
これは濡れたお姉さんの意識の中に入った時と力が暴走した時に体験した輪郭が曖昧になる感覚が逆に役立ったので案外簡単にクリアできた。
でも自分の身体の外と内を確認することはできても意識を外へと向けるという未知の作業はとっても困難で、焦りと疲れと空腹であんなに寒いと感じていたのに今ではすっかり汗だくだ。
肉体を鍛えるようにはいかないのは、全てが感覚とイメージが物をいう精神修行の難しさが原因だと思う。
なかなか要領を掴めない私を相手に宗春さんもどう説明したらいいのか分からない模様。
「……ちょっと休憩しようか」
珍しく気を利かせてくれたのか、そう申し出てくれたので飛びついた。
立ち上がり本堂を出て行く宗春さんを見送って私は掌で汗を拭うとゴロリと畳の上に横たわると美しい天井絵が目の前に広がって自然にため息が零れる。
「はあぁ……疲れた」
これなら筋トレとかランニングとかの方がまだマシな気がする。
運動も得意な方じゃないけど、意識なんてどうやって外へと向ければいいのか全く分からない。
そもそも自分が外への関心が薄いなんて指摘されるまで自覚なかったし。
「どうやったら上手くできるかなぁ」
「通常ならば五感に頼った“外の世界”の方が意識を向けやすいのだが」
「……そうなの?」
身体を反転してうつ伏せになり重ねた腕の上に顎を乗せると座っている露草と丁度視線が合う。
青い小鬼は渋面のまま口を開く。
「周囲と自分とを比べられるくらいには意識できているのだからけして外を見ていないというわけではなかろう。自己否定や自虐が過ぎて過剰に内に籠るようになったのだろうが、それが逆に危険を察知できぬようにしておる」
つまり私の後ろ向きな感情が問題ということか。
自分のこと――しかも悪い所ばっかり見ている――せいで、近づいてくる危険に気づかないのって良いことひとつも無いのに簡単には抜け出せないから厄介だ。
ずっとそれが体に染みついているからなぁ。
「表面だけの情報が全てだと思い込んでいると足元を掬われる。詐欺師は愛想も調子も良いものと相場は決まっているし強面の平和主義者もいる」
特に前者は虫も殺せないような顔で近づき大切なものを根こそぎ持って行くから気をつけろと力説されんだけど。
脳内で詐欺師が宗春さん、平和主義者が大八さんで再生されてなんだか妙に納得するやらおかしいやらで肩を揺らして笑っていると頭から湯気でも出るんじゃないかって勢いで怒られた。
ごめんごめん。
「完璧な存在などおらん。妖も人も然り」
自信を持って胸を張れと言われてもそれはなかなか難しい。
だってまだなにもできてない。
これだけは一生懸命やったよって自信を持てるほどの成果を出せてない。
だから胸なんか張れない。
でも。
宗春さんと約束した通り命を賭けるくらいの気持ちで取り組んだ後になら。
きっと。
「あ、だめだ……」
お腹がぐうっと鳴って畳に頬を着ける。
そうすると眼鏡がズレて視界もあやふやになった。
「ねえ、そういえば」
眼鏡の位置をなおしながらのろのろと顔を上げると露草が片眉を上げて「なんだ」と返す。
「毛むくじゃらの小人さんにお礼がしたいだけど、なにをあげたら喜ぶのか知ってる?」
「そんなこと」
か、と軽く頷いて口を開いたはずの唇が途中で止まり露草の視線が外へと向けられたことに気づいた時だった。
「あれは家付き妖精の一種だからミルクやパン、クッキーなどが喜ばれる」
聞いたことのない声に私は上半身を捩じって振り返り、本堂の入口から顔を覗かせている美しい女性の姿を見て固まった。
長い黒髪が色の白さを強調し項でひとつに結んでいるだけなのにすごく上品に見える。
すっきりとした面差しに輝く二つの青い宝石。
シンプルなシャツとズボンを着て細い身体を更に華奢に見せる黒いエプロンを身に着けている美女。
えっと、どこかで会ったような――と既視感を覚えて思い出そうとする間もなくお姉さんは外廊下を歩いて移動してきた。
「あなたは見えるのに声が聞こえないのか」
美しい人は落ち着いた平坦な声で不思議そうに首を傾げる。
そこでやっとこのお姉さんが小人さんについて教えてくれているのだと気づき、私の能力の欠陥を指摘されても「はあ」と間抜けな声しかでない。
「それでも傍から離れないのだとしたら余程あなたの近くは居心地がいいのか」
ちらりとお姉さんの視線が露草に向いたけど、私には小鬼の姿が普通の人には見えるのか見えないのか分からない。
だからどう対応するのが一番なのか判断できないから口を噤んで足を引き寄せ座りなおした後改めて女性を正面から真っ直ぐ見つめた。
黒いエプロンの胸元にflower shop鈴花という縫い取りを見つけて「あ!」とどこで見たのかを思い出す。
「亜紗美さんのお店のお隣にあったお花屋さんの」
すごく綺麗な人だったからあのたった一瞬の出会いが頭の中に鮮烈に残っていたらしい。
私は本尊さまを振り返り、そこにたくさんのお花が飾ってあるのを見て知る。
千秋寺はこのお花屋さんからお花を配達してもらっているのだと。
「あの、えっと。誰か呼んできます」
「ああ、必要ない。支払いはまとめて月末に支払ってもらっているし、花はいつもの場所に置いて帰れば問題ないから」
「え?」
それはどういうことでしょうか?
お姉さんはキリッとした目を光らせてじっくりと私を観察する。
なんだろう。
怖いんだけど?
助けを求めるように露草を窺うけどなにやら難しい顔をしてお姉さんを見ているだけだ。
「下であなたが出てくるのを待っている家付き妖精を見てちょっと話してみたかっただけだ」
ああ。
やっぱり小人さんたち待っててくれてるんだ!
小さな体で寄り添って階段の下でじっと山門を見上げている様子を想像すると泣けてきた。
今から走って行って抱きしめたいくらいだ。
いやいや、違う。
そこじゃない。
お姉さんの言ったことをもう一度頭の中で繰り返してみる。
“下で家付き妖精を見た”って言った!
ということは。
「お姉さんも、見えるんですか?」
「物心つく頃には普通に」
平然と認めてお姉さんは口元を緩めて笑顔を浮かべた。
美しい人の笑みは儚くて直ぐに消えてしまい残念な思いばかりが後を引く。
お姉さんの尋常じゃない容姿はそれこそ妖精や精霊のようで、ふっと目を離した隙に消えてしまいそうな感じがした。
「あなたは違うのか」
「え?私ですか?私はそのぉ……このおじいちゃんの形見の眼鏡が無ければなにも見えないので」
「ああ、魔法の眼鏡なわけか」
見た目はすごく気品があって女性的なのに、このお姉さんは声が低くて抑揚が少なく飾り気のない喋り方をするせいかちょっと違和感があったんだけど。
そんな女性が“魔法の眼鏡”というフレーズを口にしたのでとっても驚いたのと可愛いと胸が弾んだのは同時だった。
「うわあぁああ……」
ひとり悶えていると露草は呆れ、お姉さんはパチパチと青い瞳を瞬かせているけど全然気にならない。
だって魔法だよ?
魔法!
きっとお姉さんは色の白さや目が青いから異国の人かその血が入っているんだと思う。
だからこの眼鏡の不思議な力のことを魔法って表現したんだろうなぁ。
じゃあ妖はなんだろう?
モンスターとかかな?
「いい加減にせんか!空け」
にやにやしているのが気持ち悪いのか露草が少し距離を取りながら注意してくれたので、頬を抑えつつお姉さんを放ったままで自分だけが楽しんでいたことを反省する。
「すみません……」
「いや」
「お姉さんの目は、そんなに澄んで綺麗だから人には見えないものが見えるんですか?」
しかもこの綺麗な人は真っ直ぐに人を見る。
こっちがちょっと戸惑うくらいに。
空の色では無くて海の色のように深く、熱いほどの視線を注いでくるのに瞳の中は静かに凪いでいて。
お姉さんはその目で見つめる人の心の奥底までを覗いているような。
そんなちょっと怖くなる瞳をしている。
きっとなにも誤魔化せない。
お姉さんには。
「この目は祖母からの贈り物だ。遺伝としての色素も力も」
あなたと同じだ――そう、呟いて。
お姉さんはほんのりと視線を下ろして目元を赤らめた。
「か」
可愛いんですけどぉ!?
見た目は美女で喋り方は素っ気なく、中身は純粋で青い瞳の前では嘘がつけなくなるとか――なにそれ!反則!
こんな人がいるの?
信じられない。
ん?ていうか。
「お姉さん、人間……ですよね?」
恐る恐る尋ねると横で顔を覆った露草が視界にチラリと映るけど、だってしょうがないじゃない。
とても同じ人種だとは思えないんだから。
「変なことを。あなたにはどう見える?その眼鏡越しにどのように見えているのか正直聞いてみたいと思っていた」
「どうって……少し」
言っていいものかどうか悩んだけど正直に「怖いです」と答えた。
するとお姉さんは驚いたように目を丸くして、それから小さく頷き微笑んだ。
「もちろんすごく綺麗で真っ直ぐで、魅力的な素敵な女性だなぁっていうのが一番強いんですけど。お姉さんの目は、ちょっと」
「怖い?」
「はい。すみません。なんか人間離れしているというか、妖精や精霊って言われても素直に信じてしまいそうというか、あの、えっと」
大丈夫かな?
お姉さん気を悪くしてなきゃいいけど。
畳の上に目線を彷徨わせているとお姉さんはなぜか身を乗り出すようにして「もっと聞かせて欲しい」と懇願してきた。
怒っているような雰囲気もないし、どちらかというと必死さすら感じられるので求められるままに口を開く。
「見つめられると隠していることや悪い部分を全て覗かれているような気がして落ち着かなくなります。正直に話さないといけないと思わせるような力があるというか」
「なるほど。他には?」
「じっと見る視線の揺るがなさに自信と言いますか、お姉さんの中にある一本通った芯のようなものが、あの、すごく羨ましいというか」
あ、しまった。
本音が。
慌てて口を押えてあははと声を上げるとお姉さんは真剣な顔でなにやら何度も頷いている。
「えっと、なにが」
というよりなにをさせられたのか。
よく分からないままお姉さんを見つめると「すまない」とまるで男の人のような言い方で謝罪してきた。
むむ、格好いい。
「実は小さな子どもに怯えられることが多くて悩んでいたんだが、どうやらこの目とそれに頼っている所に原因があったのかと驚いている」
「そうだったんですね」
子どもの方がそういうの敏感に感じ取るだろうから、怖がったりするんだろうなぁ。
ん?待って。
私ってやっぱり幼稚ってこと?
もういいや。
そこは認めよう。
「でも、お姉さんみたいな人にそんな風に見つめられたら誤解する男の人多いんじゃないですか?」
「ああ。見た目に寄ってくるような男には端から興味が無い。変に期待させるのも互いの為にならないからはっきりとお断りしている」
こんなに美人なら一回や二回断られたぐらいでは引き下がらないだろうけどきっとその度にぴしゃりとお断りするんだろう。
笑わない美人は相当怖いしお姉さんの喋り方だったら隙もないから大丈夫なのかもしれない。
私も見習ってはっきりぴっしりと言えるようになって、自分の力に自信を持って近づく隙を与えないようにならなくちゃ……って、あれ?
そうだよ。
同じような力を持っているんだからお姉さんを見本にしたらいいんだ。
きっと相談もしやすい。
「あの、お姉さん。良かったら色々と教えていただけると助かります。私まだまだ修行中で分からないことばかりで」
お姉さんは青い瞳でまたじっと私を見つめてくる。
ドキリとするほど美しくて、でも背筋がそわそわするくらいには恐ろしい。
「自分で良ければ」
「ほんとですか!やった!良かった。あ、そうだ。連絡先交換しませんか?私携帯取ってきます!」
了承して貰えたことが嬉しくて私は廊下を走って部屋へと向かった。
きっと新記録が出たんじゃないかと言うくらいの速さで辿り着く。
鞄から携帯を掴んで戻り、まだ待っていてくれたことにほっとして今度はお姉さんの目の前に立ちぺこりと頭を下げた。
「私、小宮山紬です。あ、お姉さんもガラケーなんですね」
細く白い手に握られているのが最近流行りのスマホではなく携帯だったので同志だと喜ぶ。
「替えるのが面倒で」
「分かります。スマホを覚えるのも大変ですもんね。えっと番号教えますね」
お姉さんは頷きながら私の番号を押し終えて通話ボタンを押した。
マナーモードになっているので音はならない。
振動で着信を確認してから「来ました」と笑って登録するために操作している途中でお隣さんなんだし、お姉さん亜紗美さんと仲良くしてないかな?とふと過る。
会いに行けないのならせめて電話で説明くらいはしたい。
亜紗美さんの番号を教えてもらうのは難しいだろうから私の番号を亜紗美さんに教えてもらって向こうからかけて貰えばいいよね。
「あの。亜紗美さんと連絡取りたいんですが、お姉さん、亜紗美さんと親しいですか?」
「亜紗美……なら、一緒に昼ご飯を食べるくらい親しくさせてもらっている」
良かった。
なら大丈夫だろう。
「実はちょっとコン汰さんのことで……誤解させてしまって。謝りたいし、お洋服を頂いたお礼もしたいのでできればお姉さんに教えた番号を亜紗美さんに伝えて都合がいい時にかけて貰えればと思ったんですけど……。あ!もちろん後でちゃんと顔を合わせて謝らせてもらうつもりでいるんですよ!でも誤解ははやく解きたいというか……」
「それは、できないわけではないが」
「なら」
お願いしますと言い終わる前にしっかりと持っていたはずの携帯が私の手の中から消え失せた。
お姉さんがきゅっと唇を引き結び一歩退いたのを見て「え?」と首を傾げると私の携帯を持った宗春さんがその間にぐっと入り込んでくる。
え?なに?
「語り部代理がなんの権利があって紬に近づいてきているのかな?」
「誰と親しくしようとあなたに文句をいわれる筋合いはないはずだ」
笑顔だけど笑ってない宗春さんと微笑みを消した美人さんの睨み合いが突然始まり怖かったけど私は必死で食らいついた。
「ちょ、待って!お姉さんと仲良くなりたいってお願いしたのは私の方だから!」
しかもとっても迷惑で面倒なことをお願いしてたのはこっちで。
お姉さんは全く悪くない。
「ふ~ん。別に紬が誰と仲良くしようが後で後悔しようが全然かまわないけど、今がどんな状況でなにを優先しなくちゃならない時か分かってる?」
「う、えっと……はい。まずは意識を外に向ける練習が最優先です」
「よろしい。というわけだから、語り部代理は余計なことはせずに速やかなお帰りをお願いするけど」
「…………紬さん、亜紗美には誤解があったということはちゃんと伝えておく。だから今は気にせずに目の前のことに集中して欲しい」
「お姉さん、ありがとうございます」
うう、優しい!
それだけでも十分ありがたい。
両手を合わせて拝むとお姉さんは苦笑した後で会釈し、階段を下りて帰って行った。
ああ、素敵なお姉さんだった。
あんな風に落ち着いた女性になりたいけど、それはちょっと無理なのでせめてもう少し余裕のある人間になろう。
「じゃあ、始めるよ」
何事も無かったかのように再開を告げ中へと入って行く宗春さんの背中に慌てて「携帯!返して下さいよ」と声をかけた。
そこで自分の手にしている携帯をチラリと一瞥した後「没収」ってポケットに仕舞っちゃうのはなんでですか!
「没収!?どうして、横暴です!」
「横暴ね……。確かに携帯は便利だけど危険もある」
聞きたい?と笑う顔が怖いので首を横に振りそうになるけどそこはぐっと堪えて納得のいく答えを求めることにする。
「誰にもなににも邪魔されずに憎い相手の耳に直接呪詛を流し込めるんだからこれ以上の効果的な道具は無いと思うよ。言葉には力が宿る。それは思いが強ければ強いほど強烈に魂を蝕む」
聞いているのはかけている人間と受けた人間のみ。
つい思いを口にしてしまうということは有り得るかもしれない。
「たとえば妖狐に懸想した女が横から現れた新しい女に奪われそうだと知り思いを拗らせ、憎しみを育てて生霊を飛ばすほどの激情を抱えている時に相手の女の電話番号を知らされたらどうなると思う?」
「……亜紗美さんは、そんな人じゃない」
たとえ話としてでも出して欲しくないのに。
宗春さんは楽しそうに笑って彼女のなにを知っているの?と問われれば亜紗美さんと交わした言葉も重ねた時間も驚くほど少なくて。
悔しいけど。
絶対にないとは言い切れなかった。
誰の中にでも人には見せられない暗い部分はあるし、羨んだり妬んだりする気持ちは私にはとっても馴染みのある感情だから。
「全ては力を制御できるようになってからだね。その後ならいくらでもお好きにどうぞ」
「……分かった」
スタートを切ったばっかりの私のゴールはまだ見えないけど、今はがむしゃらに走るしかない。
露草が心配そうな顔で見ている。
大丈夫だという思いを込めて私はしっかりと頷いて見せた。
それから宗春さんがお姉さんを“語り部代理”って呼んだ意味を今度じっくり聞きだしてやると心に決めて畳の上に正座した。