こんなに深く関わったのは初めてです
お腹がぐうぅっとなって初めて結構な時間が経っていたことに気づいた。
ノートを閉じ「そろそろ戻ろうか」と露草を促して電気を消して廊下へと出る。
渡り廊下と外廊下を辿って本堂の前まで来た時だった。
そこから宗春さんが出てきて丁度良かったと中へと招き入れられる。
足元も見ずに歩いているのに畳の縁を踏まずに進めるのは慣れなのか、それともなんでも簡単にできる宗春さんには息をするかのようにできて当然のことなのか。
意識すればするほどできなくなる私はやっぱりもたもたバタバタしながら後に続く。
「その辺に座って」
「あ、はい」
本尊さまがいらっしゃる一段高くなっている場所ではなく手前側の広い畳部分の右端の方へと移動して適当に座るようにと指示される。
宗春さんが板戸を左右に開けていくと目の前に赤く色づく櫨の木と伸ばした枝の先に茶色くなっている数枚の葉を揺らして地面にどんぐりを落としている楢の木が徐々に姿を見せていく。
日差しはあっても吹く風は冷たくて思わず身を震わせるけど、宗春さんは薄手のキャメル色のニットと黒い綿パン姿なのに全く涼しい顔。
暑いも寒いも感じないと言われても私はきっと素直に納得してしまうだろう。
ある意味凄い。
「ちゃんと水汲みができたからね。約束通り少し進むよ」
「よろしくお願いします!」
正座をした状態で頭を下げて顔を上げると宗春さんは板戸に寄り掛かって腕を組んだまま楽しそうに微笑んで尋ねてきた。
「お腹空いてる?」って。
真希子さんの美味しいご飯にすっかり骨抜きになっている私の胃は素直にぐうっと返事をして思わず右手で押さえると露草が呆れたような目で見上げてくる。
「それは良かった」
今まで見た中でも極上の美しい笑顔を浮かべられると嫌な予感しかしない。
私の中の怯えを瞬時に覚って宗春さんはなんでもないことのように言い放った。
「丁度いいからとりあえず明日まで断食するよ」
「ちょ、丁度いいって……!?」
どういうことでしょうか。
しかもとりあえずってことは宗春さんの中でなんらかの手ごたえが無い場合はそれ以降も伸ばされる可能性があるってこと?
朝食べた美味しいパンやハムエッグ、クラムチャウダーやサラダにカットフルーツの味を思い出して切なくなる。
「狒々の空腹を心配するくらいだから、紬にも疑似体験してもらおうかなと。妖の飢餓感には遠く及ばないけど大丈夫。二、三日食事を抜いたところで死にはしないから」
平然とおっしゃいますが、体調が悪い時以外に食事を抜いたこと無いんですけど。
しかも一食抜くならまだしも三食抜くなんて――ん?待って。
宗春さんは明日までって言ったよね?
それって明日の夜までってこと!?
つまり今日のお昼から明日の夜までの五食!?
――マジですか……。
「ちゃんとした修行の一環としても断食は行われるし、粗食の方がより精神が研ぎ澄まされ身体は動くと言われているから無駄にはならないと思うけど」
うう。
その修行を経て今の力を手に入れた宗春さんから言われると文句のひとつも言えないのが悔しいけど。
「ああ、水は飲んでもいいから安心して」
「……ありがとうございます」
「じゃあ始めよう」
足音も立てずに宗春さんが歩いて来て畳一枚分隔てた所に腰を下ろす。
なにが始まるのか分からないまま「目を閉じて」と言われたので恐る恐る目を閉じた。
肌の表面を風が撫で薄い瞼の向こうでオレンジ色の光と影が踊るのをじっと眺めていたらまたお腹が鳴って気まずい思いをする。
でも目を閉じているから宗春さんや露草の様子が分からないし、もしかしたら私だけが目を閉じていて二人は顔を見合わせて笑っているんじゃないかとか考え始めたらそわそわしてしまう。
そうなると足の位置が悪くてこれじゃ長く座っていられないなとか、背中や顔が痒いとかやっぱり寒いなとかくしゃみがでそうとか余計なことばっかりぽこぽこと湧き出てくる。
そしてお腹すいたなぁという欲求に最終的には行きつき、煩悩まみれを自覚する羽目になった。
エネルギー不足でなんかクラクラする。
身体に力が入らないし、集中できない。
これを乗り越えた先に得られるものはきっと大きいんだろうとは思う。
分かるけど。
――ぐうぅうう!
お坊さんすごい。
それからストイックなアスリートの人たちも本当にすごいよ。
ふと高橋先輩の「人は食べたものでできている」という持論が頭に過り、それなら私の身体はお母さんと真希子さんが作ってくれる美味しいご飯でできているということになるから妖の方々から“良い匂い”とか“美味そう”という評価を得られるのもあながち間違ってはいないのかもしれない。
もちろんそういう意味で先輩が言ったわけじゃないのは分かってる。
愛情いっぱいの手料理。
健康を願って作られる料理の数々を食べられる贅沢。
つまり私は恵まれているってことで。
それを考えるとふくふくしたお尻やお腹回り、太腿のむちむちとかの身体の全てをコンプレックスに思うことはなんだか失礼な気もしないでもないけど、そうやって自分をとことん甘やかせば坂を転がり落ちるようにぽっちゃりから太い子になってしまうわけで。
昨日天音さまが私にふさわしい肉体だと誉めてくれたんだから、敵視するだけじゃなくちゃんと認めて手入れしていけばもしかしたら理想に近づくことも夢ではないかもしれないとかとか考えるとなんだかよく分からなくなってきて。
ああ。
そんなことより。
お腹すいた……。
何度目かのお腹からの訴えに嘆息したのは宗春さんだ。
私はもう恥ずかしいとか思う余裕すらない。
「全く堪え性が無いというか、忙しないというか、落ち着きが無いというか」
呆れた声に項垂れつつ申し訳ありませんと謝れば名前を呼ばれたのでそっと目を開けた。
板戸に背を向けているので昼下がりの陽光と綺麗な紅葉が宗春さんをまるで一枚の絵画のように映し出し一瞬見惚れる。
整っているのは顔立ちだけでなく力が入っているわけでもないのに隙のない身のこなしや、線が細い身体つきから漂う美しさとかが全部一緒になって同じ人間なのだろうかと疑問にさえ感じるくらいだ。
頭も良くてなんでも簡単にできちゃう天才。
でも天は二物を与えずとはよくいったもので。
宗春さんは性格に難ありだし、物騒なことを言うばかりか刃物を突き付けてくる危険人物だ。
もちろん強烈な短所を持ち合わせてもそれを相殺する能力や容姿という時点で天が平等だったかどうかのコメントはちょっと差し控えさせてもらうけど。
「ほら。もう違うことを考えてる」
「はっ!そうだった。堪え性も忙しいも落ち着きも全部ないです」
「そう堂々と言い切っては身も蓋も無い。空しくはないのか」
指摘されてようやく現実の世界に戻ってこられた私は慌てて自分の欠点を認めたが、露草に憐れむような視線を注がれてしまったと首を竦める。
「それ全部ミスにつながる要因だから改めるべきだね。まあ今までこれだけは誰にも負けないように頑張ろうとかそういう努力を一切してきてないから自分に自信を持てないんだろうし、小さな子どもの様に思考があちこち散らばって定まらないのも集中力が持続しないのも全部幼稚さと経験不足から来るものだしね」
うう、グサグサきた。
事実だけに非常に抉ってくるんですけど。
誰かと競い合うとか一番苦手で事なかれ主義で生きてきたから、自信を持てない原因がそこにあると言われればそうなのかもしれないと納得はできる。
「自己肯定できないのも、成功経験が少ないのも自分からなにもしようとしないんだから当然だよ。やる前から失敗することを怖がったり恥かしいと思ってるから一生懸命になれない。
大体理想が高いからコンプレックスを持つ。自信が無いくせに完璧を求めて、絶対に敵わない相手と比べるとかどれだけ自虐が過ぎるのか。そういう性癖だと思われても仕方がないから大八みたいな頭悪い筋肉バカの妖に懐かれるんだよ」
最後の引き合いに大八さんを持ち出され私はひぃっと悲鳴を喉の奥で上げた。
虐められるのが好きだとか思われてたら困る!
「ちがっ……違うから。そういう性癖とか、全然ないです」
「あ、そう。別にどっちでも構わないし気にしないけどね。
やっとこれだけは叶えたいって物ができたんだからもうちょっと真剣に取り組んだほうがいいよ。もっと必死に。悩むよりやるべきことがあるんじゃない?」
「……ごもっともです」
私の返答を聞いてよろしいと言わんばかりに頷いて宗春さんは静かに「じゃあ本題に入るよ」と言い渡す。
慌てて背筋を正して聞く体勢を整えた。
「瞑想や座禅は外界を切り離して己と向き合うためにやるものでもあるから紬のやり方が全て間違っているってわけじゃない」
あ、今さっきの目閉じてじっとしてたの座禅だったのか。
なんの説明もしてくれないからなにかと思ってたけど。
「紬の場合は力を制御しなくちゃいけないのと妖に舐められないためにも内側じゃなくて外側に意識を向ける必要がある」
「内じゃなくて、外ですか?」
「どう説明したら紬にも理解できるのか分からないけど……そうだなぁ」
微かに眉と目を顰めて専門外である私にも解り易い表現を探そうとしてくれている。
そういうのを見ると宗春さんもちゃんと人のことを思いやれる部分があるんだなと確かに感じられてなんだか嬉しくなるんだけど絶対嫌がられるだろうから口にはしないでおく。
「誰もが外に向けて見えない電波みたいなものを発しているような感じなんだけど、紬は殆どが内側に向かっていて外へ向いている分が少ない」
つまり外――他人を含む――に興味が無いってことになるらしい。
「外に対する警戒心が薄い分そこに付け込もうとして邪なものが寄ってきてるんだ」
裏を返せば内側に向けている分を外側に向けられれば回避できるってこと。
「付け入る隙を見せないのが一番重要だね。油断なく構えられるとこいつは一見弱そうだがなにか隠し玉を持っているかもしれないと勝手に思ってくれる。この余裕はなにか根拠があるに違いないと判断してくれるからちょっかいかけてくる相手が格段に減る」
実際はなんの力も無い私みたいな人間でもそうしていることで随分と危険なことから回避できるらしい。
だからそれを身に着けることが防衛策として有効なんだっていうのは理解できる。
問題はそれを私ができるようになるかどうかなんだけど。
弱音を吐きそうになるのを察したのか宗春さんに「やる以外に方法はないよ」と先回りして逃げ道を塞がれた。
「それが力を制御することにも繋がるから命を賭けるくらいの思いでやること」
「は、はい」
改めて覚悟を求められてついどもってしまう。
「紬の眼鏡には相手の過去や現在を見る能力があるけど、それを使うには相手の意識と繋がる必要がある。それがさっき言った殆どの人は外へ向けて見えない電波みたいなものを出しているというのに戻るんだけど、それを糸口に接触して相手の記憶を受信するテレビやラジオみたいな感じ――っていったら分かりやすいかと思ったんだけど」
理解しているかと聞かれて私は何度も頷いた。
確かに映像を見ているように相手の記憶をぶつ切りで眺めている感じだったから、受信するってすごく分かりやすい。
霊力という私には見えなかったり感じ取れないものに対して、日常使っている電波を喩として使うのはとってもピッタリな気がした。
「じゃあ続けるよ。
能力が発現した時は紬の中いっぱいに溜められた霊力が一気に放出されて一番近くにいた人の意識と感応し繋がることで過去を見ることになったわけだけど、制御できていない状態は自力で接触を断つことができず霊力はどんどん流れ出していく。これは本当に怖いことなんだ。眼鏡を外したことで戻ってこられたからよかったけど、身体には相当無理がいくし最悪心臓が止まることもあるから」
毛むくじゃらに感謝するんだね――なんてにこりと笑われたけど、また命の危険に知らない間に合っていたと知り背筋を凍らせた。
そんな中で心配する真希子さんを振り切って私は帰ったのかと思うと本当に知らないとはいえ、なんてことをしたんだろうと慄く。
確かに耳鳴りから始まったあの時の状態は普通じゃなかった。
鋭く射すような激痛の後から割れるように痛む頭、冷や汗と貧血、外側からの刺激は消えて全部内側へと引き攣れていく感覚や苦痛はよくよく考えたら死んでもおかしくないほどのもので。
小人さんたちが眼鏡を外してくれてなかったらあのまま意識を失って病院に搬送されていたと思う。
本当に私は恵まれている。
小人さんたちに感謝して、彼らのためになにか喜んでもらえるようななにかをしてあげたい。
そういえば小人さんたちってなにが好きで、なにを幸せだと感じるんだろう。
一番身近にいる小人さんの生体のことも知らないでいた私は相当外への興味が薄いんだなとしょんぼりする。
「制御するには相手の周波数と簡単に同調しないようにすることと、自分の霊力を自在に扱えるようになる必要がある。千秋寺に通う以上紬の中の霊力は増える一方で減りはしないから同時に上手く発散する必要もあるんだけど」
「それってどうやって?」
「まあ最初は練習していれば勝手に消費するから問題はないし、力が制御できるようになればその辺歩いている人の記憶を覗き見したり天気を予想したりしたらいいんじゃない?」
「いや、ちょっとお坊さんである宗春さんがそんなこと言っていいんですか!?人の記憶をこっそり覗くって!」
そんなのめちゃくちゃ罪悪感があるんですけど!
「千秋寺に来なくても良くなれば霊力もそれ以上は上がらないし、その時はもう自分の力の制御も能力の把握もできるようになってるだろうから今だけだって割り切れば?」
「――――っ!でも」
「どうせ相手は気づかないし。ああ、一応言っとくけど妖相手にそれやったら本気で怒られると思うからやらない方が良いよ」
いくらなんでも通りすがりの妖に力を使えばすぐに勘付かれるんだからそんな危ないことしないよ。
「まあ中には霊力高い人間や勘の鋭い人間がいるから気を付けて」
「人相手でも妖相手でも必要ないなら記憶は覗きたくないです。他に方法あるんですよね?ほら自分の霊力を上手く扱えるようになったら少しずつ外に排出するとか?」
「うん。できるだろうけど、それ外でやったら確実に魑魅魍魎共に群がられるけど」
「じゃ、じゃあここで!」
「少しずつだとすぐに補充されるからその時は大量に消費してから帰ってね」
うう、注意事項が多い。
知らない世界を知っていくって本当に大変なんだなぁ。
「大事な説明が少ないって母さんからの要望があったから後回しせずに先に言ってみたけど紬の小さな頭には入りきれなかったんじゃない?」
クスリと揶揄されて咄嗟に赤くなる。
「後でメモっておきます」
「ふうん。兄さんのノートにね」
細められた瞳がチラリと右横に置いてある宗明さんからいただいたノートへと向けられる。
もうそこに昨日までの激しい感情は無いけど。
「……嫉妬」
「違うから」
「ひねくれ者」
「なんとでも」
面白いからちょっとからかってみると平然とした顔で否定してきた。
こういう軽いやり取りも宗春さんとできるようになって少しずつ楽しくなってきていたけど、さっき出された「千秋寺に来なくても良くなる」という言葉が胸にしこりを残す。
確かに不思議との共存の仕方と眼鏡の力を私が学んでしまえばここへ通ってくる必要は無くなる。
真希子さんのご飯と温かい笑顔や元気をくれる大八さん、思いやり深い宗明さん、なんだかんだ根気強く付き合ってくれる宗春さん、親切な天音さまともう会えないと思ったら。
「ねえ、宗春さん。私がもうここへ来なくても良くなったとしても遊びに来るのって許されますよね?」
すごく寂しくなった。
こんなに深く関わったことも、みっともない所とかダメな所をいっぱい見せた人たちは初めてで。
今までの私だったら昨日の夜みたいに宗春さんに食って掛かったりしなかった。
宗明さんにだって自分の意見を伝える前に諦めていただろう。
大八さんの過去を聞く勇気も持てなかったし、真希子さんと膝詰め状態かつかなりの緊張感の中で話すことなんてできたかったはずで。
ここで私は色んなことを知り、できるようになった。
これからもっともっとできるようにならなくちゃいけない。
教え導いてもらって、笑って泣いて怒って――そんな人たちとお別れする日のことなんて考えるなんて。
できない。
「そんな先の話してどうするの?紬のことだから一年先か二年先か、それとも一生かけても身につかないかもしれないのに」
「だって、宗春さんがっ」
言ったから。
「何度も言ってるけど頭の容量が少ないんだから余計なこと考えない方が良い」
悔しい。
本当にこの人は感情に疎いんだから。
「まあ普通寺っていうものは頼ってくる相手を無下にはしないからね。来る分には拒まないけど」
えっと。
それはどういう?
「好きにすればってこと」
「……好きにします」
「どうぞ」
肩を竦めて「まずは外に意識を向ける練習からはじめるよ」と告げた宗春さんの顔がちょっと照れくさそうに見えたのはきっと気のせいじゃない。
だから。
私は笑って大きな声で「はい!」と答えて。
お腹がグウッと低く鳴いたのはちょっと情けなかったけど笑顔を苦笑に変えてなんとか誤魔化した。