初の友だち
結局洗濯機を二回回すことになり、干し終えたのは十時前だった。
洋服類は久世家の物干しの端っこをお借りして、下着はお部屋に干してからノートとペンを持って書庫へと向かう。
露草が興味深そうに和綴じの書物を引っ張り出しては読み耽っているので私も負けられないと勉強に勤しんだ。
静かな中に紙を捲る音と微かな息遣い、そして時々聞こえるどちらかが身じろぎする音以外にはなにもなくて。
時が止まっているんじゃないかと思えるくらいにここだけが現実から切り離されているような感じがした。
ここには無駄なものはなにも無くて、窓も無いから外で雨が降っていても気づかないし風が吹いても揺れもしない。
書庫は奥まっている所にあるから人の気配も無いしね。
確かめる術もないから今何時だろう?とか考えなくてもいいからすごく集中できる。
これなら試験前の勉強がはかどって中の下の私でも、もう少しいい点が取れてたかもしれない。
成績が伸びないことにちょっとだけ悩んでいた頃の私にそっといい勉強場所があるよと教えてあげたいくらいだ。
ノートが一ページと半分ほど埋まった頃だろうか。
「空け」
「……なに?」
手元の書物に目を落としたまま返事をするともう一度呼ばれたのでペンを置いて振り返る。
露草は床に本を広げその前に胡坐をかいて腕組みしていた。
すごく難しい顔。
「どうしたの?」
言うべきかどうか悩んでいるような素振りの露草がちっとも続きを口にしないから私は座りなおして促した。
そうするとやっと吹っ切れたのかこちらを睨むようにして見る。
「今更遅きに失するのは承知しているが、お前は良かったのか?これで」
後悔はしていないかと問われて同じように腕を組んで「う~ん」と唸ってみる。
その間に注がれる露草の不安そうな視線をなんとか頑張って堪えたけど、やっぱり我慢できずに吹き出してしまった。
「おいっ!こちらは真剣にっ」
「ごめんごめん。分かってる。ちゃんと」
眉を跳ね上げ髪を逆立て解り易く怒りを露わにするのは本当に珍しい。
露草は普段感情を荒げないから。
いつも一緒にいる茜の方が喜怒哀楽はっきりしている分どうしても彼は一歩退いているように見える。
「いや、ほんと今更だなぁって思ってさ」
ここまで来てやっぱりや~めた!ってできないことはいくら鈍くてバカな私でも分かる。
眼鏡を外しても千秋寺に通うことで高められた霊力は弱くはなってもきっと無くならない。
大きくなってしまった器が元の大きさに戻るかどうかは分からないし、そんな簡単に小さくなるとも思えないし。
そもそも私はやめようなんてこれっぽっちも思ってはいなかった。
「こんな大ごとになるとは正直想像もしてなかったけど、おじいちゃんの眼鏡をかけることを選んだこと後悔してないし、不思議との共存だって諦めたくない」
事態は私が思っていたよりもすごく複雑で困難な状態になっているけど、知れば知るほど妖に対しての興味は強くなる。
付き合えば付き合うほど情も深くなって。
「茜、大丈夫かなぁ……」
慌ただしく帰ってしまった赤い小鬼の最後の表情は怒っているようでもあり、激しく動揺しているようでもあった。
私の不勉強さと不注意さが元で彼に変化を与えてしまったということがどうしても引っ掛かって心が痛い。
「ねえ、茜は今どうなってるの?痛いとか苦しいとかあるの?」
血がついた腕がびくりと跳ねて茜が驚いたから、きっとあれは無意識に腕が動いたんだろうと思う。
それがどういうことなのか分からないけど、自分の意思とは関係なく体の一部が動くのはやっぱり気持ち悪いし怖い。
「自力で帰ったくらいだ。心配ない。血も少量だったゆえ恐らくそれほど侵されてはおらん。ただ触れられた箇所は暫く疼くだろうが縁ある者の血は強く影響を与えるもの。そう案ずる必要はない」
真面目くさった顔でたいしたことはないと露草は言うけど“暫く疼く”ってことは血を拭っても意味が無いってこと。
右の掌を見下ろすとそこには赤い筋だけが薄らと残っているだけで、数時間前には擦り傷があったのだとは分からない。
「強い弱いに関わらず人の血肉は妖の魔性を強く刺激する。即ち神性を著しく脅かす。神聖な場所で血を流すことが禁忌なのはそのため。神性には穢れでも魔性には甘美な毒となる」
強い酒のようにどろどろに酩酊させ元々危うい理性を吹き飛ばす。
血に酔った妖は本能に突き動かされるように獣のように人を襲い、喰らい、歪んだ強烈な力に驕り、猛り、暴れ喰らって――最後は狂う。
「魔性に染まり外道に堕ちた妖を我々は妖魔と呼んでおる。妖魔を放っておけば面倒なことになる。静かで穏やかな暮らしを脅かされるならばそれと戦い排除するのはやぶさかではない」
元々が荒ぶることを好む生き物なのだと小さな声で告げたのは、できれば知らないでいて欲しいという露草の願いからかもしれない。
「だが千秋寺のような僧侶たちや妖が妖魔を退治しても道を踏み外す妖は後を絶たん。そもそも妖に対抗できる人間がどんどん減っておるのが問題なのだ」
そっと首を振る露草の黒い髪が揺れた。
憂いを帯びた表情のまま漏れる溜息。
「科学の進歩とやらで人間たちは妖や神や仏を畏れぬようになった。脅威ではなくなったものに対する知識は急速に失われ、知らぬ内に数々の禁忌を侵してゆく。そうすることで神性は病み魔性が成長したとしても、それを感知できる力は最早人には残されておらん」
悲しいことだと呟いて。
露草はまた小さく頭を振った。
少し喋りつかれたように長く息を吐き出して。
こうして妖と人の現実を改めて聞かされると身につまされる物がある。
昔の人だったら知っているような昔からの決め事や約束事を現代人である私たちはなにも知らない。
関係ないと思っていたから知る必要も無いと勝手に思い込んで。
知らない間に妖や神さまや仏さまの暮らしを乱していたんだ。
見えなくても彼らは同じ世界で暮らしていて――ううん、違う。
見えないんじゃない。
見せないようにしてくれていたんだ。
私たちを怖がらせないようにとひっそり息を潜め、狭い世界を譲り合いながら隣人として接してくれていた優しい妖たちがいたから妖魔という脅威にも気づかないままでいられて。
溢れてくるのは純粋な感謝と後悔。
そしてやっぱり彼らと繋がっていくことの大切さを確信する。
やっぱりおじいちゃんは正しかったんだ。
「もっと色々とおじいちゃんに聞いておけばよかった」
おじいちゃんは子どもだった私に疑問も違和感も与えないように上手に不思議は常に隣にあるよと教えてくれていたけど肝心なことについてはなにひとつ聞けないままだった。
きっと生きている間に眼鏡を譲り受けることがあったならその時はひとつひとつ丁寧に教えてくれたはずなのに。
「あやつは――総二郎は、他の誰にも同じ道を歩ませる気などなかった」
彼の口からおじいちゃんの名前が出たことは初めてだったけど、露草と茜が誰に頼まれて時々様子を見に来てくれていたのかとずっと疑問に思っていただけにすんなりと納得できた。
そういうことか。
「やっぱり露草と茜はおじいちゃんを知ってたんだね」
だとしたら小鬼たちの住んでいる場所はおじいちゃんの故郷にあるはずで。
その遠い距離を足繁く通ってきてくれていたのかと思うと胸の奥が自然ときゅんと高鳴った。
露草はカクンと頭を落とすようにして頷く。
「自分が死んだら棺桶に入れて共に焼いてもらうのだと言っておった」
「それなのに私が勝手に持って行っちゃったからおじいちゃんは焦っちゃって、露草と茜にお願いしに?」
もちろん黙って持って帰ったわけじゃない。
ちゃんとおばあちゃんに確認を取って「紬なら大切にしてくれるだろうから」と手渡しで受け取った。
きっとおばあちゃんはこの眼鏡がおじいちゃんの不思議な力を引き出していたことは知らなかったんだと思う。
知っていたら今私の元にはなかっただろう。
「あやつは脇目もふらず真っ直ぐ孫の元に飛んでいくような男だ。寄り道なんぞ凡そ思いつかん。だからこれは昔交わした約束を違えん為に我々が勝手にやっておること」
てっきりおじいちゃんから頼まれたのだと思ってたんだけど、どうやら露草や茜が私の所へとはるばるやって来てくれるのは昔の約束が原因らしい。
「一体なにを約束したの?」
問えば露草は眉を寄せて口を噤む。
青い肌だから分かりにくいけどほんのりと赤らんでいる耳を見るとどうやら照れくさい様子。
「露草?教えて」
掌を着いてにじり寄り彼の顔を覗き込むと、緑の光彩を持つ瞳を左に向けて次に右へと移動させて狼狽えている。
「教えてくれないならもう来てくれなくていい。露草や茜が心配しなくても千秋寺のみんながちゃんと力になってくれてるから」
きっと長い休みのたびに遊びにやって来る孫たちが危険な目に合わないように見ていて欲しいとかそんな感じの約束――というかお願いをしたんだと思う。
私や結が育った町と違いおじいちゃんの住んでいる所は自然が多くて、死角や危ない場所が意外と近くにあったから。
浮かれてはしゃいで羽目を外して怪我したら困る。
そんなおじいちゃんの孫を思う優しい願いを彼らは快く引き受けてくれたんだろう。
「約束したおじいちゃんはもういないんだから、露草や茜が律儀に守る必要ないんだよ?しかも二人が住んでいる所から遠いのに」
私が暮らすここからおじいちゃんの住んでいたとこまで新幹線で二時間くらいかかる。
妖がどんな移動手段を使うのか分からないけど、結構な距離だし簡単に移動できるとはとても思えない。
「紬は」
ぽつりと。
露草が空ろな目を上げて呟いた。
なにか答えなくちゃと焦ったけど明確に次の言葉があると分かっていて口にできる答えは私の中には見つからない。
迷っているうちに露草は小さく細い息を吐き出した後で、
「我々が来ぬ方がいいのか」
と微かに震える声が続いた。
ぐりぐりと丸い瞳はなにかを畏れるように揺れ、青い顔は更に青ざめ牙が唇に食い込んでいる。
小さな両手はなんども握っては緩みを繰り返して露草の動揺を伝えてきた。
だから反射で「まさか」と返した後、私は必死で首を横に振る。
「まさか!そんなこと、そんなはずない」
感情的な茜が来れば賑やかで楽しいし――まあ小人さんを虐めるのはちょっと困るけど――、静かに話す露草が来ればなんとなく空気は穏やかになるから。
神出鬼没な彼らが来るのをちょっと心待ちにしている自分がいるのは確かだ。
「ただ無理はしてもらいたくないだけ」
「無理など」
していないと俯いて開いていた書物を閉じて立ち上がる。
そして元あった場所へと押し込むその背中がいつもと違って丸まっているのを見ると切なくなった。
よくよく考えれば。
おじいちゃんと露草たちの中には重ねてきた思い出や言葉があって、長い年月をかけて積み上げてきた信頼や絆が根底にあるわけで。
死んでしまったおじいちゃんの約束や願いを叶えていくことは永遠の命を持つ彼らにとって細くてもおじいちゃんと繋がって行ける最後の手段なのかもしれない。
その約束や願いを断ち切ってしまうことは露草たちにとって身を切られるようなことなのかもしれないと思ったら。
「分かった。じゃあさ。私とも約束しない?」
やっぱり無下にはできないよね。
「紬と約束」
弾かれたようにこちらを振り返った露草の顔は喜びと戸惑いが同居していて可愛い。
「うん、そう。茜がいない時に露草とだけ約束するのはもしかして止めた方が良い?」
妖についての知識がまだ殆どないから露草に問題が無いかどうかの確認をする。
首肯した露草が「あやつが後で悔しがるかもしれんが」とどこか優越感を漂わせて笑っていたので、ちゃんと元気になって戻ってきた茜と同じ約束を結ぶことだけは言っておく。
それでもにこにこ上機嫌で「問題無い」としているのを見れば早まったかなとちょっと後悔したけど言ってしまった言葉は返らない。
あとで喧嘩しませんようにと祈りつつ私は小指を立てて露草の前に差し出したら見たことも無いような渋面で手を叩き落とされた。
「そんな物騒な誓いなどいらぬ」
「う、えっと……じゃあどうすれば?」
「元より言葉には言霊が宿っておる。破る気が無ければそもそも指切りなどする必要は無い!」
軽い気持ちで約束などするものではないとすごく怒られた。
それこそ鬼の様に。
うん、まあ露草は鬼なんだけどさ。
「では改めて」
「うむ」
お互いに神妙な顔で見つめ合う。
口にするだけでそれが約束になるのだと思うとなんだか言いづらいけど。
そんなに難しいことをお願いするわけじゃないし。
ま、いっか。
「義務とか守らなくちゃとかそんな重い気持ちじゃなくて、もっと軽く遊びに来る感じで来てもらいたいんだ。顔を見たいな、声が聞きたいなとかそれくらい気軽に」
「そんなもの」
「いいの。えっとその代わり露草や茜に会いたいときには呼べるような連絡方法とかあれば教えてもらいたいんだけど」
さすがに携帯とか持ってないだろうから。
「私ね。友達になりたいの。露草と」
もちろん茜とも。
ダメかな?と笑いかければ露草は途端に呆れたような表情でがっくりと肩を落とす。
どうやら彼が思っていた約束とは違ったようだけど、そんな無茶な約束事なんかできるわけないよ。
まだ私たちはおじいちゃんと彼らの間ほどの強い繋がりはないんだから。
「……総二郎も自分のことを願いはしなかった。どんな時でも周りの者たちのことばかりで。そんな所まで似おってからに」
悔しげに顔の片側だけを顰めて。
でも直ぐにいつものように冷静を身に纏い「承知した」と受け入れてくれた。
連絡する方法については準備するから待てといわれて今度は私が「分かった」と頷く。
「ではこちらからも紬への約束事を所望するが」
「うん、いいよ。なに?」
難しいことだろうか。
眉尻を上げ眉間に皺を刻んで恐ろしげな顔を作るから余計にドキドキする。
「余り軽々しく妖や妖魔に近づくでない。今回茜が逸ったことによって思わぬ騒ぎとなったが、本来ならあのような反応が正しいのだ。顔を見に来るたびにあのような場面を見せられては困る」
「だって宗春さんが拘束を解かなかったら危なくないって言ってたし、ここは天音さまの守護の力があるから大丈夫かと思ってたから……でも露草の心配も茜のお小言も深く胸に刻んでおく」
一応ポケットには宗明さんのお守りとお札が入ってたという安心感もあったから狒々が近寄って来ても問題ないってなんとなく考えてたしなぁ。
そういうところがやっぱりみんなをハラハラさせちゃうんだろう。
「安全な場所にも落とし穴はあるということを忘れるでない。綻びは至る所にあるもの。特に相手は狒々。心の弱き所を突くのはあやつの得意とする所。惑わし誘導して綱を解き、血を奪われるということも無きしもあらず」
「……はい」
「いつまでもそんなんだから空けだというのだ」
「はい……」
ああ。
最近はお説教を頂くことが多い。
落ち込むけどそんなに嫌じゃないのは、そこに私を思う気持ちがあるって分かるから。
ありがたいと思う。
「がんばります」
「精々精進しろ」
また新しい書物を抜き出してストンと腰を下ろすと露草はページを捲って字を追い始める。
私も茜が元気になって戻ってきてくれたら謝らなくちゃなと思いながら机に向き直りペンを走らせた。
露草ちょっとした優越感に浸っておりますが茜は疼く腕を押さえて棲家でゴロゴロ転げまわってます。
いつまでたってものんきな紬ですが、見知らぬ世界の常識や知識の前では誰しもみな無力。
「私なんであんなバカなことを!?」と青くなるのは未知なる世界を理解できてからなので、まだしばらくは周囲をハラハラさせるのです……すみません。




