初めての相手
「水汲んできましたよ」とドヤ顔で差し出すと宗春さんは鼻で笑って受け取り、床に置いていた雑巾とバケツをなにも言わずに突きつけてきた。
くそう。
少しくらいは認めてくれてもいいだろうに。
悔しがりながら雑巾入りのバケツを掴むと本堂と自宅を繋ぐ外廊下の掃除を言いつけられた。
宗春さんは寺務所の机に座ってなにやら書類や届いている郵便物の確認をし始めたので、こっそりと舌を出して心のささくれを宥めてから廊下を進んだ。
お客さんが来たら通される和室を通り過ぎて少し行けば久世家の領域に近くなる。
その辺りから今日もいい匂いがしてきて真希子さんが張り切って朝食を作ってくれているのが分かって嬉しくなった。
「よし!美味しいものを食べる前にもっと頑張らないと――って」
縁側から外廊下へと出ると朝靄に包まれている境内に優しい陽光がゆっくりと差し込んでくる景色が広がり、はっとするようなその美しさに痺れたように立ち竦む。
「ああ」と言う間の抜けた感嘆が半開きの口から零れて見惚れていると、赤く色づいた楓や黄色く染まった葉の上についた露がキラキラと輝いて。
「きれい……」
そんな単純な感想しか出てこない情けなさを感じるより、自然の美しさを讃える言葉は目の前の景色にはなにひとつ敵わないんだと痛感するばかりで。
お寺の朝は早いしやることも多いんだけど、やっぱり流れている時間はゆっくりで穏やかだ。
本堂の方から流れてくる蝋燭とお線香の匂いも朝の空気と共に夜の名残を浄化している気がした。
そういえば。
狒々はどうしているんだろう?
縛られたままあそこで一夜を過ごしたんだろうけどご飯は食べたんだろうか?
好きな時に好きなだけ向き合っていいと言われていたけど、昨日は書庫に籠っていたしその後は水汲みに行く途中で龍姫さまのお宅を強引に訪問することになったりで忙しくて忘れてたけど。
後で様子を見に行ってこよう。
「その前にお掃除をして、あと洗濯機を借りなくちゃ」
はっと現実に立ち戻り柘植さんの濡れタオルを欄干に引っかけ、靴下を脱いでパーカーのポケット捻じ込んだ。
それから腕まくりをしてバケツの中から雑巾を取り出して絞ると板の上に置いて両手で押すようにして勢いよく床を蹴って走り出した。
ピカピカになった外廊下を満足気に眺め汗を拭っていると大八さんが呼びに来てくれたので真希子さんと三人で朝食を頂くことになる。
朝は忙しくて宗明さんや宗春さんは各自手が空いた時にいつも食べるらしいし、お昼は兄弟のどちらかが買い出しや用事で出ることが多いのでやっぱり全員一緒にということは殆どないんだって。
二人とも揃ってお寺を留守にすることはないらしいんだけど、そういうスケジュール的な確認はどうやってるんだろう?
絶望的に会話と交流不足の宗明さんと宗春さんだけに不安はあるけど、その辺りは仕事だと割り切って伝え合っているのかもしれない。
この時間帯はニュースをつけるのが日課である真希子さんはご飯を食べながらも真剣に昨日起こったことや最近流行りの情報を観ている。
小宮山家では見ない光景だけに苦笑いしながら作ってもらった朝食に集中した。
本日の朝食はベーコンエッグにレタスとトマト、こんがりと焼いたトーストにクラムチャウダー、スパゲティサラダとシリアルたっぷりのヨーグルト。
更にテーブルの真ん中にこんもりと盛られたバターロール――しかも軽く焼いてある――ハム二種類とウィンナーとチーズがお皿に綺麗に飾られているし、リンゴやオレンジなどのカットフルーツまであるんだから本当にもうすごいとしか言いようがない。
色んな味のジャムや蜂蜜の瓶まで用意されているここはやっぱりどこかの旅館かホテルなんじゃないかとため息すら出る。
ただひたすらお腹をいっぱいにすることだけを考えて口を動かして醤油が欲しいと手を伸ばすと、私の正面に座っている大八さんと不意に目が合ってどちらからともなく笑みが零れた。
「紬は醤油派か?」
「大八さんはソース派ですか?」
他にもケチャップやマヨネーズも塩も置いてあるけど目玉焼きには家はずっと醤油だったからそれだけは譲れない。
でも長い時を生きてきている妖の大八さんが醤油ではなくソースを選んだのはちょっと意外だった。
「おれはその時の気分だな。宗明は醤油で宗春は塩、真希子さんはなにもつけない」
「あのね、隆宗さんはケチャップとソースなの」
「じゃあ大変ですね。調味料全部用意しなきゃいけなくて」
「でしょう?」
テレビを観ていたはずの真希子さんも会話が始まったのに気づいて入ってくる。
旦那さんである隆宗さんの名前を口にするときにほんのりと頬を染める姿に今でもラブラブな夫婦なんだなこっちもくすぐったくなった。
でも愛している旦那さんがなかなか帰ってこないとか、危険な仕事をしているというのはとっても不安なはずだしすごく寂しいはずで。
兄弟の仲も良好とはとても言えないことも含めて真希子さんの悩みや苦労も相当なものなんだろうな。
「私、真希子さんの旦那さんにお会いしてみたいです」
「ええ?どうしようかしら……隆宗さんイケメンだから紬ちゃんが惚れちゃうと困るわぁ」
頬に手を添えて眉を下げて夫自慢をする真希子さんは本当に可愛らしい。
「宗明さんも宗春さんも格好いいですから、そりゃ男前なんでしょうね」
「え!?やだっ。宗明は愛想も無いし宗春は空気読まない子だけど、隆宗さんは違うのよ?優しくて情が深くて、強くて頼りがいがあって。なにより素敵なのよ!息子たちと一緒にしないでっ」
両拳をぶんぶんっと上下に振って、自分が産んで育てた二人の息子よりも隆宗さんの方が良い男なのだと力説された。
それではあんまりにも可哀想だと思って私は明るい口調で宗明さんと宗春さんの擁護をする。
「宗明さんも十分優しいし笑顔も素敵じゃないですか。それに宗春さんちょっとなに考えてるか分かり辛いですけど、よくよく付き合ってみたら意外と可愛い所もあるし――って、なにか私おかしなこと言いました?」
だけど途中で真希子さんが目を丸くして固まり、大八さんに関しては持っていたお箸をポロリと下に落とす驚き様。
え?え?っと戸惑っているとまずは真希子さんが我に返って「宗明の笑った顔なんてもう何年も見てないわ」と呟く。
「宗明はおれからすれば冗談も通じない堅物としか思えんし、宗春なんかは頭イカれたやばい奴って認識しかないが」
それを優しいとか可愛いとか。
ぶつぶつと言いながら大八さんは箸を拾ってがつがつと食事を再開したけど、もうちょっとゆっくり食べないと消化に悪いよと声をかけたくなる。
「本当に紬は悪い奴に付け込まれてそのうち痛い目にあうぞ」
「あはは……気を付けます」
でも自分では初対面の人に心を簡単に開くほど人懐こくもないと思ってるんだけど、どうも周りの認識はそうじゃないみたい。
確かにちょっとぼんやりしすぎていつの間にか近くに入り込まれている時はあるけど、そんな強引な人にはちゃんと警戒くらいはするし。
そんなちょっとした不満が出ていたのか。
「紬ちゃんはおとなしくて怖がりだから初対面の人には警戒心を持つけど、言葉を交わして行くうちに少しずつ情が移って流されてしまうところがあるでしょ?だから心配なのよ?」
真希子さんがお母さんの顔になって注意する。
それに同調した大八さんも向かいから身を乗り出して口を挟んできた。
「そうだ。そうだ。宗明ならまだしもあのぶっ飛んだ宗春を師に選んで、頼って、懐いてよぉ。あいつは危険な奴なんだ。分かってるだろ?」
分かってるかと聞かれればその通りだけど、宗春さんを先生に選んだことについて後悔はしてない。
そう伝えようと息を吸った瞬間に真希子さんが聞き捨てならないと眉を跳ね上げた。
「ちょっと大八さん、わたしの息子なのよ。まあ色々と問題はあるけど宗春が宗明より劣るみたいな言い方止めてくれるかしら?」
「う!あ、いや……」
「宗明も宗春も普通の家庭や常識から見たらズレているかもしれないけど、千秋寺に生まれてしまったことでたくさんのことを諦めざるを得なかったし、非常識な相手である妖と付き合っていくにはどうしても世間一般の育ち方や考え方をすることが許されないんだから、」
その後に続く言葉を真希子さんは奥歯を噛みしめて必死で飲み込んだみたいだった。
どうしても否定的なものや諦念や同情のような響きや意味を持つ言葉になってしまうから。
それを母である真希子さんが口にできない――したくないというのはすごく分かる。
「悪かった。申し訳ない」
華奢な身体を震わせながら自分の中で葛藤している真希子さんに向かって大八さんは座ったまま一歩下がって深く頭を下げた。
「――――いいの。悪いのはあの子たちじゃないの……それだけは分かっていて欲しい」
「でも、真希子さん」
それでは自分が悪いのだと言っているようなもの。
どこの親にも少なからずあると思う“これで良かったんだろうか?”という子育てへの不安や後悔。
普通の家業と環境ではないということが余計に真希子さんを悩ませ苦しめている気がする。
仕方がないじゃないですか――なんてことは言えない。
それはさっき真希子さんが苦労して抑え込んだものだから。
「隆宗さんは誰からも受け入れられ愛される人としてこのお寺で立派に成長した人。彼が同じ環境で普通の人たちと変わらない感覚と感情を育めたのだからそれができなかったということは」
分かるでしょ?
そう目だけで訴えて真希子さんは微笑みとも苦笑とも取れる微妙な笑みを湛えて。
「大丈夫よ。わたしは諦めてないの。宗春はここに戻ってきたばかりだし、これからしっかり手綱を締めて愛情を注ごうと思ってるし」
私や大八さんがなにか言うより先にいつもの明るい口調に戻って愛らしいウィンクを披露してくれたけど。
え?ちょっと待って。
宗春さんが戻ってきたばっかりって。
「どういうことですか?宗春さんどこか、大学とか就職とかで余所に行ってたんですか?」
なんか普通にお寺の仕事してるからずっとここにいたのかと思ってたけど。
違うの?
「ああ、ちょっとね。二年前まで余所のお寺でお世話になってたから」
「余所の……?えっと、そういうの一般的なんですか?」
「う~ん。そこそこの事情とかがあるから色々ね。千秋寺は基本的に一旦外に出すのが昔からの習わしらしくて。宗明も仏教の高校に行くのに出たしね。まあ宗明は卒業したら直ぐに戻されて引退した先代と共に厳しい修行に入ったんだけど」
先代ってことは宗明さんと宗春さんのおじいさんに当たる人なのかな?
「宗明が戻ってきたのと入れ違いで宗春も高校に入学するために外に出て、そのまま別の同じ妖専用のお寺に行っちゃって全然帰省すらしないからわたし我慢できずに乗り込んじゃったわ」
肩を竦めたあとで悪戯が成功した小さな子どもみたいに破顔して更に「そのまま捕まえて連れ帰ってきたの」と告白した。
それが二年前らしい。
でも不思議だ。
あんなに宗明さん大好きな宗春さんが千秋寺を出た後一度も帰ろうとしなかったなんて。
もしかしたら真希子さんが強引に連れ戻さなかったら帰ってこなかったかもしれない。
なにを考えて戻らなかったのか。
想像もできないけど。
「宗春が帰ってきてしばらくして大八さんも来てくれたし、最近では紬ちゃんが来てくれて。ここも随分と賑やかになったわ。二人ともありがとう」
改めてお礼を言われて私は慌てて背筋を伸ばして「こちらこそ」とぺこりと頭を下げる。
お世話になりっぱなしだけど私が来ることで真希子さんの寂しさが少しでも和らぐならそれだけで嬉しい。
「どうやら紬ちゃんの前では宗明も笑えるようになってきたみたいだし、宗春だって少し人間味が出て来たみたいだしね」
「え!?いや、私の前だけでは……ないと思いますけど」
私だって二回くらいしかないし。
「うふふ。絶対間違いないわ。相手が紬ちゃんだからよ」
「そんな。私なにも」
「紬ちゃんを見てるとなんだろう?和むのよねぇ。もうこのまま宗明か宗春のお嫁さんになってうちの子にならない?」
「いぎっ!そんな、それはちょっと」
どうしてそうなるかな!
勘弁してくださいと頭と手を振って断ろうとすると「あら?だめ?……そうよねぇ。夫としても人としても未熟だものね」なんてしゅんっと項垂れる真希子さん。
ああ、そんな顔されると弱い。
「そういうわけでは!ほら、あの、選ぶ権利はあちらにもあるし」
それにそんな相手には思えないってだけで、二人が嫌いと言うわけではないし。
そもそも今まで私がやらかしたことを思えば宗明さんも宗春さんも随分呆れているに違いないわけで。
「ということは宗明と宗春が良いって言ったら紬ちゃんはOKってこと?」
「え!?いや、ちが」
ああ、やめて。
そんなに目をキラキラさせて見つめられても困ります。
「おっと!待て待て!おれも紬の旦那候補に入れてくれ!」
「やっ!?大八さんはちょっと、黙ってて!」
まさかの“ちょっと待った”に私は絶叫を上げる。
お願いだからこれ以上ややこしくしないで!
「なんだよ。おれは紬を大事にする。紬なら嫁に貰いたい」
「その前に戸籍ないんでしょ!?なら、結婚は」
「戸籍があればいいんだな?じゃあちょっと手配してくる」
また危うい所で言質を取られそうになって冷や汗をかく。
なんなの今日は一体!
普通妖が戸籍なんて簡単に取得できるものじゃないんじゃないの!?
腰を上げて今にも戸籍をゲットしに行きそうな大八さんに向かって手を伸ばして叫ぶ。
「待って待って!なにそれ!そんな簡単に用意できるもんなんですか!?戸籍って!」
「できる、できる。妖のネットワークバカにしちゃ困る。頼めば簡単に準備してくれる。もちろん金はかかるけど」
「妖は死なないんでしょ!?ならお金大事です!そんな理由で戸籍を手に入れるくらいならちゃんと貯蓄しておいてください!」
「なんでだよ?それで紬を嫁にできるならおれにとっては“そんな理由”ではない」
「――――!」
なんでだはこっちのセリフだ――!
冷静になって聞けば大八さんはこっちが赤面して悶絶するほどの熱烈なプロポーズで。
この人なんでこんなに、えっと、こういうこと言うのは本当にあれなんだけど。
どうして、こんなに好意を寄せてくれるのか。
分からなくて口を噤んで俯いた。
「ほら、もう。大八さん困らせないの!紬ちゃんもご飯食べましょう?」
「……はい」
困らせるような発言を最初に口にした人がこの場の微妙な雰囲気を元に戻そうとしてくれているんだけど、ここはおとなしく従った方が良い。
箸を持ち直すと大八さんも苦笑いしながら座りなおした。
でもさっきまでのお喋りでの楽しい雰囲気は消えてしまい互いに黙って食事をする。
そうなると自然に真希子さんはテレビの方へと意識が向く。
その隙を狙ってだと思う。
「困らせて悪かったな」
私にしか届かない小さな声で大八さんが謝罪してきた。
向かいから見つめてくる茶色がかった黒い瞳があまりにも不安そうに揺れていて目が離せない。
そっと首を横に振るといつものようにニッと笑って「でも偽りない本心だ」と続けられれば返す言葉を私は持っていなかった。
そう。
こんなこと初めてだから。
結婚と言う大げさな装飾を取り払ってしまえば、あなたが好きですというシンプルなものになるわけで。
家族や友だちの親愛という意味以外で好きだと言われたことは二十三年間一度も経験がない。
こんな時どう答えるべきかも、どう対応すしたらいいのかも全く分からないから。
ただ小さく頷いて。
理解しましたとだけ示した。
初めて意思疎通した妖であり、初めて好きだと言ってくれた異性である大八さん。
危ない所にも駆けつけてくれた彼がどれだけ紬の初めてを持っていくのか。
楽しみでもあり、怖くもありますね。




