まずは上手な付き合い方を
「実は最近、普通では見えないものが見えるんです。例えば毛玉みたいな小人だったり、ずぶ濡れの可哀想な女の人だったり、ぺらっぺらの白い布のお化けだったり、さ、侍だったり」
本当はもっと色んなものが見えてたけど、現在進行形で付き纏われている不思議なものについてだけ具体的に伝えてみる。
毛むくじゃらの小人や布のお化けなんかは見た感じで既に異常な存在だって分かるけど、びしょびしょのお姉さんも部屋の隅でじっと座っている侍も触れられそうなぐらいすごいリアルだから状況や恰好が普通だったらもしかしたら幽霊だって気づかないかもしれない。
だからこそ、私は怖い。
人間とそうじゃない存在の違いが分からなくて。
いつか幽霊を生身の人だと勘違いして声をかけたり、対応したりしそうで恐ろしい。
確実に頭がおかしいと思われる。
他の人には見えないんだから、誰もいない方へ向かって話したりしている人間なんて気持ちが悪いに違いない。
私だってそんな人見かけたら避けて歩く。
下手したら変質者だって思われてお巡りさんに連れて行かれちゃうかもしれない。
更にお母さんやお父さんに心配されて、精神的な病院に入れられちゃうかもしれない。
そんなの、いやだ。
絶対にいや。
そりゃ私は熱中できるだけの趣味やこれだけは譲れないっていうほどの好きなものなんかないけど、それでも買い物した時にレジでぴったりお金を払えた時は嬉しいし、頑張ったねって褒められたら一日それだけで幸せだし、近所のあんまり懐かない黒猫が艶々した毛を触らせてくれた時にはスキップしちゃうくらいには日常を謳歌している。
土木会社の事務員として三年にもなれば仕事は覚えて順調だし、もう一人の女性事務員である高橋先輩とも仲良くさせてもらっているから、給料とボーナスが少ないのとセクハラ紛いの発言がちょっと多いのは不満だけど現状に満足はしている方だ。
有給をとっても嫌な顔されないし、朝から高熱が出て欠勤のお伺いを立てれば「休め、休め」って電話口で心配してくれるし、職場で体調が悪くなったら「さっさと帰れ」って許してくれるんだから多分ブラック会社ではない。
だから。
「困るんです」
「…………見えるのが、ですか」
宗明さんの声はそんなに大きくはない。
どちらかというと普通よりも少し小さいんだけど声がよく通るからかすうっと胸に真っ直ぐ届くような感じがする。
視線だってまるで刺すような鋭さで私の顔を見ているから、逃げ出したいのに動けなくて。
でもちゃんと言わなくちゃいけない。
私の望みを。
私の願いを。
「いいえ」
自分の相槌のような発言を否定されたことに宗明さんは口の端を下げた。
不機嫌そうというわけではなく、どこか困惑しているかのように見えたので私は恐れずに続ける。
「見えるのはもう、しょうがないと諦めてます。なので見極め方と接し方を教えていただきたいんです。共存していくには私には人と彼らとの区別がつかないから……お互いに無理のない暮らしができたらと思って」
「―――――」
微かに宗明さんの唇が動いたようだけどなにを言ったのか、それとも言おうとして止めたのかも私には分からなかった。
残念なことに周囲には霊感の強い人やオカルト関係に詳しい人もいなかったから、他に頼る場所も教えてくれそうな人も目の前に座る無愛想な彼以外にいない。
まあ今まで皆無だったかと言われればそうでないんだけど。
私の近しい人でそういったことを知っていただろう人がただ一人いた。
二年前に亡くなったおじいちゃん。
そっと眼鏡の蔓を撫でて目を伏せた。
『よう来たな、紬』
そう言って夏休みやお正月に遊びに行くと必ず優しく頭を撫でてくれた。
背の高いおじいちゃんの細面の顔にはいつもこの眼鏡があって、レンズの向こうで笑いジワを刻み細められる瞳の温かさが大好きで。
腰が痛いって言いながら抱き上げてくれた腕も、おじいちゃんから香るメンソールみたいな匂いも、せがめば低い声で色んなお話をしてくれたことも全部。
大好きだったよ。
じわりと浮かんできた涙を慌てて必死に瞬きで散らす。
潤んで滲んだ視界の向こうで宗明さんがほんの少しだけ身じろいだのか、白檀の仄かな香りが鼻先を通り抜けた。
「祖父はとても不思議な人で、とても晴れているのに今から大雨が降るとか近所で行方不明になったお年寄りの居場所とか何故か分かる人でした」
勘が鋭いというのとはちょっと違う気がした。
おじいちゃんにははっきりと大雨が降る様子や、迷子のお年寄りの姿が映っていたんだと思う。
「お墓参りに行く時には必ず『惑わされんようにな』って手を引いてくれて、夜に眠れないって泣いて起きてきた私を布団に戻して『悪さするやつらは出て行ってもらおうな』って襖を開けて手を叩いたり」
お墓までの細くて薄暗い道は雑木林の間を通っていて、うっそうと茂る雑草の下や大きな木の幹の陰になんだか恐ろしいものが隠れていてもおかしくない感じがした。
おじいちゃん家の古い和室は布団の中で目を閉じていると家自体がミシミシと音を立てているのがしょっちゅう聞こえたし、寝返りを打とうとした時に限って枕がすっと誰かに引っ張られたように動いて驚き泣いて眠れないことが多かったけど。
どんな時でもおじいちゃんは私の味方でとても頼りになるヒーローだった。
怖い時や不安な時、寂しい時、嬉しい時も楽しい時も。
子どもの頃の思い出の中には必ずお祖父ちゃんがいた。
私が高校生になってからはお盆や年末年始くらいしか行かなくなったし、なにを話したらいいのか悩むくらいに共通の話題を見つけられなくて段々と疎遠になって。
短大に入ってからはお盆もお正月も行かなくなってそのまま――おじいちゃんとは永遠のお別れになってしまった。
だから。
私は。
鼻の上や頬の前で主張する鼈甲の眼鏡へと意識を向けた。
「庭先で水を捲きながら眼鏡越しに見えない何かを愛おしむようにしてたのも、きっと」
今の私と同じように色んなものを見て感じていたからだ。
なら、私も。
おじいちゃんのように彼らと共に生きることを選びたい。
怖いからとか、気持ちが悪いからとか排除するんじゃなくて。
いや、もちろん怖いんだけど。
「方法を、教えてください」
きっとある。
だって、おじいちゃんはできていたんだから。
なのに今までよりも眼光鋭く宗明さんが私を睨みつけてきた。
そんなに簡単に教えられるか!ってことなのか。
それもそうかもしれない。
お坊さんって厳しい修行をして技術を習得するんだろうし、私みたいな素人が軽い気持ちで――いやね、もちろん軽い気持ちではないんだけど宗明さんからしたらそう感じたのかもしれないって話――口にする内容ではないのかも。
でも。
諦めたくない。
だから座布団から下りて畳に指先を合わせるようにして手をついた。
そのままゆっくりと頭を下げて手の甲に額を着ける。
「――――お願いします」
畳の目を見つめて、どうかと念じたのに。
冷凍庫の冷気よりも低く硬く冷たい声が座卓の向こうの斜め上から降り注いだ。
容赦なく。
痛いほどの視線も一緒に。
「お断りさせていただきます。小宮山さんにはその眼鏡をお取りすることをお勧めします」
「――――っ!」
勢いよく顔を上げて彼を見るが全く動じない無表情にぶつかり言葉が出ない。
私が変なものを見るのがこのおじいちゃんの眼鏡のせいだと宗明さんは簡単に言い当てた。
そしてさっさとそんなもの外してしまえばいいのだという。
そうすれば見えなくなる。
そうすれば前と同じ生活を送れる。
「人でない者と慣れ合うことなど愚かなことです。貴女も見たでしょう?」
宗春が手にしていた犬のなれの果てを。
そう言われて背中が薄ら寒くなる。
無残に切り裂かれたお腹とそこから零れる腸と血液。
だらりと垂れ下がった黒い舌と黄ばんだ牙。
固い毛皮は所々剥げていてそこからも少なくはない血液で濡れていた。
「あれは送り犬と呼ばれる妖。貴女の周りをうろつく力の弱い霊や妖精などとは一線を画すものです」
「え、ちょっと待って。あやかしって、」
あまり聞きなれない言葉に狼狽えていると宗明さんは少し言葉を選ぶようにして説明してくれた。
「……解り易く言えば、妖怪やら物の怪と呼ばれるもの。あれらは力が強く邪なものが多い、故に切り伏せ悪事を働かぬよう対処する必要があるのです」
そうか。
だからあの犬――送り犬――は宗春さんに成敗されたのか。
悪い妖怪なのだと知らされても、私の目にはちょっと大きな野犬にしか見えなかったらほんの少し可哀想だと思ってしまう。
そんな私の甘い考えを見抜いたのか、宗明さんが眼差しに力を込める。
……怖い。
「力ある妖の姿は常人には映りませんが、今の貴女には弱っていたり骸であれば感知できるでしょう。
ただし相手が見えるということはそれだけで危険なのです。妖は正体を見破られるのを好まず、少しでも害になると思えば一欠けらの情けも無く命を奪います」
一時の感情に流されてはいけないと宗明さんは言う。
私の近くにはほぼ無害な幽霊だったり、小人だったりしか今の所いないからいまいち危機感が無いのは認めるけど。
でもおじいちゃんだって普通の人間だったはずだ。
特別な修行をしたとか、お寺さんと深い付き合いをしていたとか聞いたこと無いのに――教えてくれなかっただけかもしれないけど――上手に接する方法を知っていたようだったし、不思議なことを受け入れて大切にしていたように思えた。
そんなに危険だなんて思えないんだけどなぁ。
「そもそも霊や妖精の類も無害とは言いがたい。性質の悪い悪戯や人間の心の隙をついてあちら側へと引き込もうとする。悪いことは言わない、眼鏡を外した方が良い」
確かに怖い話で地縛霊とか怨霊とかよく聞くけど。
「外したからって前みたいに居ないものだってもう思えないです」
逆に認識してしまったからこそ、見えなくなる方が怖い。
自分からは見えていないからといって彼らが存在しなくなるわけじゃないんだし、もし気づかないうちに恐ろしい悪霊が寄ってきていたとしたら――?
そっちの方が怖い気がする!
見えてればなんらかの手が打てるというなら見えていた方が良い気がした。
でも宗明さんが言うには見えているからこそ彼らが寄ってくるらしいし、彼は私にその対処法を教えるつもりもないみたいだし……。
うん。
だめだ。
出口が見えない。
一生懸命に考えてみてもいいアイディアなんかなにひとつ浮かばなかった。
なんか、もう、疲れた……。
「すみませんが今日はこれで、失礼させていただきます」
のろのろと頭を下げてそれを切り上げる挨拶にしようとしたら、宗明さんは「その前に本堂へ参りましょう」と誘ってきた。
なんのつもりだろうか?
もしかしたら私の熱意に負けてとっておきの秘術を授けてくれるのかと期待に胸を弾ませたらば。
「妖の血や肉は穢れています。触れれば病を得たり厄を引き寄せる」
という衝撃発言を繰り出した!
「ちょ、っと待って!宗春さん血まみれの手で私に触れたんですけど!?」
「だから祓うと申し上げているんです」
悲鳴じみた声に顔を顰めた宗明さんは流れるような動作で立ち上がると、私の正面にある障子――宗明さんの背後にある方――を開けて廊下へと出て行く。
なんか頭が痛い。
千秋寺へ来てから本当になにもいいことが無い気がするんだけど……。
しかしこのまま帰ったら有り得ないような病気になったり、望んでもいない疫病神に憑りつかれても困る。
ここはおとなしくお祓いのひとつでもしてもらわないと。
宗春さん、後で会ったら覚えときなさいよ!
なんて生まれて初めて抱く殺意を胸に私は鞄を掴んで宗明さんの後に続いた。
実は一番のヒーローはおじいちゃんじゃなかろうか……と今さら気づく。