最初の一歩
眠りが浅くなった時になのか。
夢現の状態で犬の鳴き声が聞こえ、それが鼻にかかった甘えたような鳴き方だったから小さい頃結と一緒に捨てられていた仔犬を連れて帰った時のことを思い出す。
雪のように白くてふわふわの毛をしたあの仔は生まれて初めての冬の寒さを越えられずに死んでしまった……。
そんなことを途切れ途切れに浮いたり沈んだりしながら眠っていた所を容赦なく宗春さんに起こされて洗顔とトイレを済ませた後、直ぐに本堂へと連れて行かれる。
寒さに震えながら蝋燭の明かりだけで照らされたお堂の中、既に準備万端で紫色の座布団に座っている宗明さんの凛とした後ろ姿を見ながら斜め後ろに腰を下ろして朝のお勤めに参加した。
半分眠っている状態で一応渡されたお経本を手に字を眺めてみても揺れる蝋燭の明かりだけでは良く見えなくてしっかりと目で追っていてもどこを読んでいるのか分からなくなって途中で諦めて手を合わせて宗明さんと宗春さんの声に耳を澄ませるだけにする。
蝋燭の溶ける甘い匂いやお線香の良い香りに包まれながら読経を聞いているだけで心が澄み渡り、頭の中にかかっている薄い霧のようなものが晴れていくような気がした。
二人の声はお堂の中に染み渡り、独特の抑揚が重なり合いゆっくりと膨れ上がりながら空気を、空間を満たしていく。
――全身でお経を浴びてる。
そのことに打ち震えながら見えない力に導かれて身体の内や外にびっしりとこびり付いている狡さとか、弱さとか、罪悪感とか――そういったものがボロボロと剥がれ落ちて行く初めての感覚に私はひどく安堵した。
どんなありがたい言葉が書かれているのかも全く分からないし、二人から発されるお経も意味ではなくただ音としてしか認識できていないのに。
これ、すごい。
考えるな、感じろ!の世界を今まさに体験しているんだと思うとなんだか涙が出そうだ。
たっぷりと時間をかけてお経が読まれたはずなのに不思議なことに私の足は痺れひとつ無く、その最中にいつもは浮かんでくるどうでもいいようなことはなにひとつ邪魔をしなかった。
「ああ……すごい」
これがきっと無心というものに近い状態だったんだろうなぁ。
感動している私をまたしても急かしたのは宗春さんで、腕を掴んで立たせると本堂の正面から外に出て数段ある階段を下ろされた。
いつの間に持ってきてあったのか愛用のスニーカーが並んで置かれていて促されるままに足を入れる。
「はい」
「……えっと、行って来いと?」
「他になにがある?まずはそれができないとなにも教えられないと言っておいたはずだけど?」
無造作に差し出されたのは空のペットボトルが入った袋。
勿論それを渡されれば次に私がやるべきことは決まってる。
「……ですよね」
「ま、頑張って」
まるで他人事のように――まあ、他人事なんだけど――軽い口調で手を振られ、手にしたペットボトルを見下ろして私はちょっとだけ気分が落ち込んだ。
早く次のステップに進みたいから今度こそ水汲みを成功させたい。
「あの宗春さん、できればコツとか……教えてもらえたらうれしいな~なんて」
ダメもとで聞いてみたんだけど、宗春さんは「そんなのない」と怪訝そうな顔で言い放つ。
とほほ。
やっぱり無理だったか。
「大体水を汲むたかが数分の間集中できない紬の神経というか頭の構造がどうなってるのか知りたいくらいだよ」
「そうですよね……すみません」
確かに宗春さんの言うとおりたかが数分なんだけど。
「意識すればするほどなんか色々と考えてしまって」
水汲みに集中するということが疎かになってしまうんだよね。
また失敗するかもとか考え出すとそこから抜け出せなくなって、ぐだぐだしている間に不合格とばかりに弾きだされてしまう。
「じゃあ意識しなきゃいい」
「う、それができれば」
苦労はしないんですよ~?
なんでも器用にこなせる天才さんには分からないでしょうけど。
「いいです。とりあえず行ってきます」
大きく息を吸って気合を入れながら、今日はいける!今日こそはできる!と自分に言い聞かせるとちょっとだけ上手くいきそうな気がしてくる。
さっきの“考えるな、感じろ”の感覚をおぼろげながら思い出せばなおさら。
「気負わずにどうぞ」
そう言って背中を向けて階段を上がり始めた宗春さんにふと思い立ってもう一個だけ聞いてみた。
「千秋寺って犬飼ってます?」
夢と言い切るにはリアルな鳴き声だったし、何度か聖域で犬らしき姿を見たこともあったからもしかしてと思ったんだけど。
「は?なに言ってんの?飼うわけないよ。ただでさえ大八っていう大飯食らいの居候がいるのに、これ以上養う余裕は家にはないけど?」
「ああ……そうですか」
じゃああれはやっぱり夢なのか。
家族と離れて過ごしている寂しさが昔の悲しい記憶を知らない間に掘り起こしちゃったのかもしれない。
「……そっか」
昨日真希子さんとマンゴープリンを食べた後、部屋に戻ったら家に電話しようと思ってたのに疲れてて眠ってしまったから余計に罪の意識が働いたんだろうな。
でも仔犬を拾ったことすっかり忘れてた。
あんなに可愛くて結と二人で競うようにして一生懸命お世話したのに。
黒く濡れた真ん丸の瞳と真っ黒の鼻。
ぺろりと垂れたピンク色の舌。
ああ、そうだ。
右の耳先だけ折れていて尻尾はくるんっと丸まってたっけ。
次から次へと忘れていた仔犬の姿を思いだして胸がちくりと痛んだ。
どうして忘れていたんだろう。
短い足で転ぶように走っていたこと、寝ている時にぴくぴく動く耳や口元、小豆のような指先が並ぶ柔らかな肉球、顔を舐めてきた舌のくすぐったさ、抱きしめた時に鼻に感じる太陽のような温かな香りを。
「行ってきます!」
もうそこに宗春さんはいなかったかもしれないけど、鼻の奥が痛くて俯いていた私にはそれを確認することができなかったから大きな声でそれだけを言い残して奥の院へと急ぎ足で向かった。
ああ、こんなに心が乱れていたらまた失敗する。
緩やかな登り道を前のめりになりながら進み、辿り着く前に少しでも落ち着かなくちゃと思えば思うほど頭の中はぐちゃぐちゃになっていって。
断片的に蘇ってくる思い出に飲み込まれ――。
「――――うぇええ」
堪え切れなくなった声が息をするために開いた口から漏れだしたら止まらなくなった。
ボロボロと零れ落ちる涙が頬を伝って顎の先から落ちる。
昨日見っともないって宗春さんから言われたばっかりなのに、またこうして声を上げて泣いている私は本当に恥ずかしい。
でも忘れていたくらいだったから癒えていたはずなのに、目を向けたらまだかさぶたが被っていて。
それに気づかずに爪の先で引っ掻いた考えなしの私はそこから溢れてきた液体をこうして両目から零すことでしか心を慰められなかった。
「っ、ひぃいうぅ……!」
気づいたら足は止まっていて見上げた空に夜の名残の星がキラキラと輝いていてそれすら切なくてまた息を吸う。
冷たい風が気管を通って肺を刺激し体が震えたけど、顔は熱を持っていてジンジンと痛んだ。
ただじっとその場に留まりその感触を味わう。
足の裏には踏みしめている柔らかな土、耳にはカサカサと揺れる落ち葉の音、唇から入ってくる涙の味、漆黒に近い青い空がじっくりと薄くなっていく空、全ての生き物が生み出す複雑な香り。
どこまでも深い山の中にたった独りで立っているのに、あちこちから小さな生き物や植物たちの息遣いが感じられて不思議と孤独は感じない。
空や大地は遠く誰かと繋がっているし、止むことなく吹く風もみんなで共有している大切な息吹で。
目を閉じれば濡れた頬が渇いて引きつっている感触や勢いよく流れる血液の力強い音がした。
徐々に落ち着いていく鼓動やゆっくりと呼吸する肺の動き。
静かなのにうるさくて。
生きているってこういうことか――なんて思う。
生きているからこそもう会えない大切な存在を愛おしく思い出せるし、失った悲しみを泣くことで癒すこともできるのかもしれない。
「うん……よし」
大丈夫そうだ。
泣いてすっきりしたら頭が軽くなった気がする。
右足を前に出すと意外なほど簡単に次の足が先へと出た。
そのまま歩くことだけに集中して奥の院へと辿り着き、洞窟の奥へと入って手を合わせ冷たい水へとペットボトルを沈める。
こぽりとペットボトルの中の空気が上がりゆっくりと澄んだ青い水が入って行く。
息を詰めて満たされるのを待ちながら水底に眠る龍の姿をじっと見つめた。
常に清水が湧いていて水面が揺れているから分かり辛いけれどこうして見てみると、威嚇するかのように龍の口がぱっくりと開いていているのが分かる。
奥の院に祀られている天音さまの姿のはずなのに、奥ノ院にある天音さまを模した仏像に絡んでいる龍の口は閉じていたはず。
そういえばこの湧水の甘い匂いをここではないどこかで嗅いだような気がする。
ぐるぐる回る景色の先に苔に覆われた石の鳥居を潜って――ああ、そっか。
ここは龍神池と繋がっているんだ。
だから。
同じ匂い。
だから。
この底にいらっしゃるのは天音さまではなく龍姫さまなんだろう。
ご自分で仰っていた通り猛々しいお姿。
――そうであろう?
ほほほっと笑う声さえ聞こえてきそうで私は大きく息を吸って惑わされないようにぐいっと更に奥まで腕を突っ込んだ。
今日は押し返してくる力は感じない。
それどころかどこまでも引き込まれそうなほど水が絡みついてくる。
大丈夫。
もし水中に落ちたとしても危険はない。
だってここは天音さまの守護が強く働いている場所。
そして龍姫さまは水を意のままに操ることができるから。
怖くない。
気がつけば二リットルのペットボトルはいっぱいになっていて、引き上げる時に随分と腕の力が必要だった。
あんなに苦しんだ水汲みも終わってしまえば呆気なく。
でも漸くスタートラインに立つ権利を得ることができたと安堵した途端、靴に染みる水の冷たさと濡れた靴下の気持ち悪さが襲ってきてなんだか笑えてきた。
二リットルのペットボトルは空の時は軽くていいんだけど、満タンに入っているとそれはそれは大変重い。
山は上りより下りの方が危なくて、片手が荷物で自由を奪われているというハンデもあって慎重に足元を選ぶ必要があった。
それでも課題であった水汲みを無事に終えて帰る山道は苦労よりも達成感の方が強い。
誉めてはもらえないだろうけど意外と早く成功できたって驚いてはもらえるかも。
なんて浮き浮きして境内へ戻り、そのまま寺務所の方へと向かおうとした途中で大きな人影が山門からゆっくりと歩いて来たのに気づいて「おはようございます!」と声をかけた。
「あれ……?」
聞こえていないわけではないと思う。
こっちへ顔を向けて――薄暗くて表情はよく分からないけど――右腕を上げて首の後ろ辺りを掻いたから。
「なんだろう?なにかあったのかな?」
いつもなら挨拶には笑顔で返してくれる大八さんなのにその様子に段々不安になってくる。
袋をぶら下げているのが辛くなって両腕で抱えるようにしながら話を聞くために近寄って行くうちに気づく。
カラコロと参道の上を軽やかな音がして、視線を下げると紺色の鼻緒がついた下駄が目に入った。
何度も洗っては穿きを繰り返して色あせたジーンズは膝の辺りが破れていて、黒いTシャツの上に羽織っている濃い紫のチェックのシャツは袖が捲られがっしりとした腕が剥き出しになっている。
太い首から辿れば無精ひげを生やしている顎、通っているけど主張している鼻、鋭い眼光に真っ直ぐな眉。
頭にはタオルを巻いていて大きな体を少し屈めるようにして私の顔を覗き込んでいるから自然と目は合うわけで――。
あれ?
大八さんじゃ、ない。
「うわああぁあ!すみません、人違いでしたっ」
身長だけで言えば大八さんより目の前の男の人の方が大きいかもしれない。
全身鍛えてますって感じの格闘家みたいな体つきの大八さんとは違って、実用的な筋肉がバランスよくついてるという感じ。
大八さんは体が大きくてもにこにこ笑って明るいから威圧感がないけど、この男の人はちょっと雰囲気が――。
「あ、あのあの……お客さま、でしょうか?」
怖くても今は千秋寺にお世話になっている身なので、もしお寺を尋ねてきたお客様だったら中へと案内しなきゃいけない。
こんな朝早くにやって来なきゃいけないということは緊急の用かもしれないわけだし。
「あの、あのぉおおお!?」
「ちょっと来い」
「や、ちょっと待っ!おち、落ちる!落とす!」
ジロジロと眺められていたと思ったら急に右の二の腕をぐいっと引っ張られてその拍子に抱えていたペットボトルを落としそうになった。
せっかく汲んできたのに落として割れたら全部流れて水の泡になっちゃうから!
勘弁してください。
「あの、痛い、痛いです!ちょ、ちょぉお!」
必死になってペットボトルを抱え上げながらなんとかついて行こうとはするんだけど私と彼の間には越えられない身長差というものがあるんです。
足を前に出そうとすると自分が思っていた以上先に運ばなきゃいけないから何度も転びそうになるし、その度に引っ張り上げられて掴んでいる男の人の手が腕に食い込むし!
少しは足の長さ考えて欲しい。
くたくたになりながら辿り着いたのは手水舎でやっと解放された私は大きく肩で息をしながらボトルの底をしっかりと右手で固定した後、左の掌で痺れたように痛む二の腕を擦ってやり過ごす。
なんなんだろう。
この人は。
眼鏡越しに軽く睨めば、彼は頭に巻いていたタオルを外して手でも洗うのだろうと思ってたらいきなり水が溜められている中に突っ込んだ。
水が溜められている大きな石の器は中も外も大八さんによって綺麗に清掃されているのになんてことを――!?
「ちょっと、止めてくださ」
左手で男性の腕にしがみついてなんとか止めさせようとしたんだけど、伸び放題の長い前髪の向こうからジロリと見られて簡単に腕は振り払われた。
それだけじゃなくてぎゅっと絞られたタオルを雑に折りたたんでずいっと突き出してくる。
「これで冷やしとけ」
「って、人の話を――って、なにを?」
冷やせと?
きょとんとして固まっている私の顔から眼鏡をするりと奪う手つきは無駄が無くて、やり手の掏摸だと言われても信じてしまうだろう。
「うわっ」
そのまま目を覆うようにして濡れたタオルを押し付けられた上に、抱えていたペットボトルまで掻っ攫われてしまった。
「ホームシックで泣くようなガキが千秋寺に預けられるつったらよっぽどなんだろう」
「ホームシック?ガキ……?」
なにやら勘違い――家族が恋しいという点では当たってるけど――されているみたい。
「私は子どもじゃないですし、無理やりここに連れて来られたわけじゃないんですけど」
「いや、どう見てもガキだろ。目ぇ腫らすほど泣いたあとを隠しもせずに人前に出てくんだから」
「うっ、でも年齢的には子どもではないです」
言動が子どもっぽいという評価はこの際言い訳ができないので受け止めるけど、ちゃんと成人しているし社会人として働いているんだからそこははっきりと伝えておきたい。
私の中の小さなプライドがせめてそれくらいはとお願いしますと訴えている。
「ああ、お前もしかしたらあれか。あきが言ってた」
「……あき?」
誰のことだろう?
私の知らない千秋寺の関係者から聞いたのかな?
「あいつLINE既読がついても滅多に返事よこさねぇからな」
冷やしているタオルの隙間から盗み見ると男の人はぼさぼさの髪が鬱陶しいのか手で後ろへと流しながら文句というよりも愚痴のようなものを零す。
「小せぇ頃からの付き合いだってのに冷てぇよな?」
「ええっと、な?って言われましても」
同意を求められても困る。
彼が誰についての話をしているのか全然見えないんだから。
「あのぉ……お兄さんは、どちらさまなんでしょうか?」
「んあ?俺か?俺は柘植だ。あきの――宗明の数少ねぇオトモダチってやつな」
「柘植、さん……宗明さんの、おともだち」
こんなガラの悪そうな人が宗明さんのお友達だということがちょっと信じられない。
小さい頃からの付き合いみたいだからきっと仕方なく仲良くしているのかも。
あの真面目な宗明さんが柘植さんからのLINE見ても返さないくらいだからなぁ。
もしかしたらそれくらい気の置けない仲なのかもしれないけど。
「ん?つげ……柘植?どこかで聞いた気が」
確か下の名前は修一とかなんとか言ってたな。
露草が。
戻ってきた記憶にタオルを外して思わず叫んだ。
「あ――!?コン汰さんを宗明さんの札で扱き使ってるっていう、あの、ほのかの!?」
「おい。誰からの情報だそれは。この俺が頭下げて頼んでやってんのに「里がどうの」とか「決まりがどうの」とかごちゃごちゃぬかすから、四の五の言わずに見分広めるつもりで着いて来いって引き抜いただけだ」
「それって、無理やりなんじゃ……?」
「今じゃ里のさの字も出ねぇほど楽しんでやがるから問題なし」
いやいや。
言えないんじゃないんですか?
もしかして……。
「コン汰さん、かわいそう」
「あいつも居心地良くなって抜けられなくなってるみてぇだから俺だけを責められても困るが……ほらよ」
「あ、すみません。あの、これはどうしたら」
ペットボトルが入った袋と眼鏡を渡されて慌てて受け取ったけど、濡れたタオルを還すべきかどうか悩んでいると「洗濯して店に持って来い」と言い置いて慣れた様子で本堂の方へと歩いて行く。
今の時間なら宗明さんはそこにいるんだと知っているんだろう。
洗濯して店まで返しにこいなんて。
「横暴」
でもそれを口実にすればコン汰さんに会うのも難しくはないか。
目を冷やしながら寺務所へと向かい、もしかしたら柘植さんなりの思いやりだったのかもしれないと思ったら不満に思う気持ちも薄らいでいく。
我ながら単純だなと引き戸を開けて入り「ただいま戻りました」と声をかけた。
紬の五感が千秋寺の霊気で少し敏感になっているため少々感情の振れ幅が広く不安定。