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天才とは程遠い凡人ですから



「いったん手を止めて休憩しませんか」


 その声にはっとして振り返れば入口の引き戸を開けて床に座っている宗明さんがいた。

 どれくらいの時間が経ったのかも分からないくらいに集中していたから、戸が開く音も人の気配にも全く気付かなかった。


「あ、はい。すみません――って、いたたっ」


 慌てて本を閉じて両手を座布団に着けて宗明さんの方を向こうとした所で足が痺れて感覚が無くなっていることや、肩から首にかけて重たい石を乗せたように痛んでいるのを自覚する。


 眉と眉の間に違和感があり、目の奥もずぅ~んと辛い。


 一度友達に借りて読んだミステリーを犯人が分かるまでと必死で追いかけて朝を迎えた時の症状とよく似ていた。


 その日いつも以上に鈍くて動けなかったことから懲りて読書もしなくなったんだけど。


「ああ……久しぶりに夢中になった」


 思わず呟くと宗明さんはほんの少しだけ目元を緩めて丸いお盆を手に立ち上がる。

 そのまま机までやって来るとお盆をそっと乗せてくれた。


「簡単なものですが」

「いえいえ!そんな。わざわざありがとうございます」


 お盆の上にはとろろ昆布とごましおと普通に海苔が巻かれたおにぎりが並んでいて、一緒にお漬物が添えられたお皿が用意されていた。

 更に具沢山の豚汁がほかほかと湯気を立てていて美味しそうだ。

 おしぼりとほうじ茶まで用意されている気の使いように正直頭が下がる。


「いただきます」


 おしぼりで綺麗にしてから手を合わせ軽く頭を下げる。

 箸とお碗を持ちそっと温かな汁を口に含む。


 うう~!美味しい!


 鰹節と昆布で丁寧に出汁がとられたのが分かる豚汁はあっさりとしていながら豚肉の油や根菜類の香りが楽しめるコクのある一品だった。

 味噌の風味もじゃがいもや里芋のほくほくした触感も美味しい。


「いつも思うんですけど、真希子さんの作る料理って丁寧で愛情たっぷりで食べていると幸せだなぁって感じます」

「そうですか。それは良かった。……ですがそれは母に直接伝えてください」


 その方が喜びますからと苦笑され、それもそうかと納得して頷いた。


 お碗を置いてからごましおおにぎりに箸を入れて一口大にしてから頬張る。

 お米の甘さと程よい塩分がたまらなく美味しくてあっという間に一個分を平らげてしまった。

 三角のおにぎりは大きすぎず小さすぎず丁度いいサイズだったし、握り過ぎて固いとか逆に握りが甘すぎて崩れやすいというのもない。


 たかがおにぎりというけれど握り方や塩の着け方やご飯の量で随分と違う。

 三つとも同じ大きさで握るということも実は慣れないうちは難しいくらいだから。


「真希子さん……すごいなぁ」


 普通は便利な調味料だったり材料を使うんだろうけど真希子さんは決して手を抜かない。

 きっと料理が好きなんだろうし、それを食べる人のことを大切に思っているからだろう。


 私は顆粒だしとか白だしを使うことに抵抗はないし、今の冷凍食品は味も美味しいからお弁当に入れたり食卓に並んでも全然気にはならない。

 レトルト食品だって平気だけど――やっぱりこうして誰かを想って作られる料理には敵わないんだなと実感する。


「母は専業主婦ですから。共働きのご家庭に比べれば時間的にも精神的にも余裕もあります。元々凝り性なところもあるので、小宮山さんのように喜んで召し上がってくださる方がいると歯止めが効かず少々作り過ぎて困ります」

「いやいや!専業主婦も大変なんですよ?今日はなに作ろうかな?とかこの後はお掃除してとかゴミだしとか洗濯とか買い出しとか地域のコミュニケーションとか!」


 決して働いていないのだから暇だろうとは思ってはいけないのだと力説すると宗明さんは目を伏せて小さく首肯した。


「勿論小宮山さんのおっしゃる通りです。我々が小さい頃ならいざしらず。今は大方の掃除は大八も含め我々が行っていますし、ゴミも大八が出してます。洗濯と料理はしてもらっていますが、買い出しは主に宗春と交互に車を出してますし地域の方とのやり取りも最近ではこちらでやってますから」


 あれ?

 でもそうなると真希子さん。


「ほとんどお寺にいる……?」

「はい。基本的にテレビの前から動かないでいたいと常々言っているほどですから」

「あははは」


 そうなんですねぇと相槌を打って意外とインドア派――というか引きこもり?――気質なんだなと真希子さんのイメージをほんの少し修正する。


 ほんわかと笑っているから人と接することが好きなんだろうと思ってたけど、愛想がいい分人の中にいると疲れることも多いのかもしれない。


「最近では小宮山さんが毎日来て下さるのでかなり浮かれてますが」


 浮かれている、というのは楽しみにしてくれていると考えていいんだろうか?

 そうだったらいいな。


 もぐもぐとおにぎりを平らげて豚汁を飲み干し、漬物を食べながらほうじ茶を飲んでいると「そうだ。これを」と言って白い紙袋に入ったものを渡された。

 触ってみると物自体は薄くて表面は厚紙のような手触りがする。

 サイズ的にはA4のコピー用紙と同じくらい。

 その他にも細長い物体と小さな長方形の弾力のあるものが入っている。


「えっと……なんですか?」

「ノートと筆記用具です。必要かと思って」

「え!?わざわざ!?」


 もしかして買ってきてくれた!?


「あ、開けても、いいですか?」

「……どうぞ」


 嬉しい気持ちを押し殺して口を止めているセロテープの端を爪で剥がしてから指先でゆっくりと外した。

 白くて薄い紙をカサカサ言わせながら中へと手を入れてまずはノートを取り出すと。


「か、可愛い!」


 白地に小さな赤い円が重なって続いていて中央がダイヤ柄になってまるでお花のようにも幾何学模様にも見える柄の中央から上寄りに濃紺色で四角く切り取られた場所に文字が書けるようになっている。

 背も同じ濃紺色で糊付けされていて可愛いのに落ち着いている感じがとても好みだった。


 更にシャーペンと消しゴムも同じ柄で揃えられていて可愛さ二倍、いや十倍増しだ。


「しゅ、宗明さん!ありがとうございます!」


 お守りをもらった時もそうだけど、宗明さんってセンスがいい。

 いつも着ているのが僧衣か作務衣なので私物や私服を見たことがないので分かり辛いけど。


「えっと、お金!お金払います!いくら、いくら払えばいいですか!?わ、財布!財布無かった!?取りに、取りに行ってきますッ」

「小宮山さん、落ち着いてください」


 慌てて財布を探したけどバッグは今朝起きた部屋に置いてきたままだったと立ち上がれば、痺れきった足が役立つはずも無く。

 前に出したはずの足は座布団にへにゃりと崩れ落ちているのに、上半身だけはやる気満々で先へと向かおうとするから。


「うひょぉっ!?」

「小宮山さん!」


 黒く光る板の間に全力スライディングをかますことを覚悟した私は眼鏡だけは守らなきゃと顔を反らして腕で庇った。


 だけど固い板に全身を打ちつける衝撃も、加速と自分の体重と引力による痛みも感じずに済んだのは宗明さんが咄嗟に腕を出して腰を支えてくれたからだ。


 ぷよぷよのお腹に食い込む逞しい腕を感じながら目を開けた私は、まるでわかめが船の上に引き上げられる途中のような情けない格好を晒していて泣きたくなった。


「すみ、すみません……」


 力の入らない下半身は伸びきり、簡単には感覚は戻ってこない。

 血が巡りきるまではしばらく立ち上がることは不可能だな、こりゃ。


「あなたは本当に落ち着きが無い」

「うう、面目次第もありません」


 ため息交じりのお叱りを受けて私は宗明さんの腕に縋りながら横座りへとなんとか体勢を整えて、できるだけ平常心を取り戻そうと苦心する。


「…………まあ、それほど喜んでいただけたのだと思えば」

「そりゃもう!こんなに素敵なものを用意して貰ったら喜ばないわけがないですっ」

「ならばお代は結構です。喜んでもらえた気持ちで十分ですので」

「でもっ」


 なんだか宗明さんからは頂き物ばかりをしている気がして申し訳ない。

 お札しかり、お守りしかりで今度はノートと筆記具まで。


 なんとか今回だけは固辞して代金を受け取ってもらえないと私の気が済まないんだけど、宗明さんが眉根を寄せてそっと頭を下げてきて「ちょっ!宗明さん!?」と再び忙しなく脆い平常心が暴れ出す。


「こういうことに関しては宗春には期待できないのです。なのでどうかあれの兄として弟の至らぬ箇所を補わせてください」

「あた、頭を上げてください!そんなことしないで――する必要ないですからっ」


 兄として弟のフォローをしたいという気持ちは分かるけど。

でもこれはちょっと困る。


 宗明さんの後頭部へと続く美しい曲線の先になんともセクシーな項があって目のやりどころに悩む。


「宗春は」


 どこか苦渋の滲む声を振り絞って宗明さんが宗春さんの名を口にした後でゆっくりと顔だけを上げて視線を合わせてきた。


 男の人の上目遣いにクラリとしながらもそんな場合じゃないからと言い聞かせて顎を小さく上下させてなんとか頷いて見せる。

 そうすると少し安心したかのように目力を緩めて薄い唇を開いた。


「昔からなんでもよくできた子でした。いえ、なんでもというのは語弊があるか……。大抵のことは人より簡単に成し遂げられる才の持ち主で、一度読み聞きすれば苦も無く覚えることができるので普通の人間には書き記す物を必要とすると理解することができない」

「あ、だから」


 宗明さんが用意をしてくれたんだ。

 人より物覚えの悪い私にはなにより必要なもの。


 一度覚えたと思っても直ぐに忘れる――きっとそれは覚えたとは言わないんだろうけど――から、こうして書いて残すのが一番確実。


「一度読んだり聞いたりするだけで覚えられるって羨ましいですね。普通じゃないと思ってたら本当に普通じゃない人でした」


 あははと笑っている途中で宗明さんの顔が翳ったのが分かる。

 そしてそのままの暗い声音で告げられた言葉に私の笑顔が凍った。


「ですが、感情を読むことも人の痛みも分からない――己にも他人にも淡白な人間です」


 あれがなにを考えているのか分からない。

 そしてあれがなにを望み、成そうとしているのかも。


「俺は怖いんです。あれだけの才能がある宗春が倫理や常識を理解していないわけがないのに、簡単にそこを飛び越えて悍ましいような決断を下す弟が」


 心底恐ろしいのだと。


「あの、えっと……宗明さん」


 そんなことを私に話してもいいのだろうか。


 私が聞いてもいいんだろうかという戸惑いのまま、これは警告でもあるのかもしれないと受け止めることにした。


 これからなにかが起きて、宗春さんの理屈でそれが最善であると判断されれば私の命や感情など関係なく傷つけられることがあるという。


 じゃないと宗明さんが心に秘めてきた宗春さんに対する不安や恐怖を、知りあって一月も満たない私に明かすわけがない。


「色々とお気遣いいただき本当にありがとうございます。宗春さんの行動が凡人には理解できないのも今までのことからも分かってたつもりでしたが、今のお話を聞いてもうちょっと気を引き締める必要があるなと思いました」


 でも。

 私はもう疑わない。


 確かに宗春さんの中には人に測りがたい物騒な感情がある。

 簡単に刃物を持ち出す人だけど、最近では笑顔だけじゃなくて色んな表情を少しずつ見せてくれるようになったから。


「なにがあっても私は宗春さんを怒りはしてもきっと恨んだりしないです。人の感情を読むことができなくても、痛みが分からなくても宗春さんにだって感情はあるし――なにより真希子さんの息子さんですし、宗明さんの弟ですから」


 信じられる。


「なんて、ちょっと恥ずかしいこと言いました」


 話している間に血流が戻り足の痺れは無くなっていた。


 もぞもぞと座りなおして正座すると照れ隠しにへへっと笑って床ダイブをかました時に落ちてしまっていたノートとペンと消しゴムに手を伸ばす。


 そして宗明さんの中の用意しなくちゃいけないという責任感と選んでくれるために足を運んでくれた真面目さも一緒に拾い上げて。


 厚かましいかもしれないけど。

 なんとなく宗明さんの厚意を受け取ろうと思った。


「宗明さん、やっぱりいただいてもいいですか?」


 ノートと一緒に右の親指でシャーペンと消しゴムが落ちないように押さえて抱えると胸の奥がじわじわと暖かくなっていく心地がした。

 それはきっと宗明さんそのものの温もりのようでくすぐったく感じる。


「ええ、それはもちろん。もとよりそのつもりでしたので」

「ありがとうございます。大事に使います。お気に入りのノートやペンがあったら勉強も楽しくできそう」


 ぺこりと頭を下げてから目線を上げて笑うと宗明さんもどこか困ったような顔で微笑んでくれた。

 そして手早くお盆を掴むとすっと立ち上がって「ではごゆっくり」と無表情に戻って出て行く。


「あ!また忘れるところだった!」


 慌ててノートを机に置き腰を上げると軋む膝を宥めながら戸に駆け寄り引き開けた。

 名を呼ぶと立ち止まるだけじゃなく戻って来てくれる。


「なにか?」


 そう改めて問われるとちょっと言い辛い。

 だけどこれを逃したらお礼を言うタイミングは二度と来ない気がする。


「あの、昨日――じゃなかった。今朝のことなんですけど」

「小宮山さんを助けたのは俺ではなく宗春と大八です。俺はなにも」


 最後まで言わせてもらえず「お礼を言われるようなことはしていない」と首を振られて心の中でこの兄弟はと毒づく。


 似ていないのか、似ているのか。


「宗明さんのお札が無かったら私死んでましたよ!それにお守りだって危険を知らせてくれたし、真希子さんと一緒に家まで行って説明してくれたんでしょ?部屋の浄化もしてくれたって聞いたし」


 それでなにもしていないとは言わせない。


「直接来てくれたのは宗春さんと大八さんだったけど、近くで守ってくれたのは宗明さんのお札でお守りなんです。それは宗明さんに守ってもらったことと同じだと思うんですけど私なにか間違ったこと言ってますか?」


 間接か直接かの違いなだけで、どちらが偉いとか決められるわけないから。

 お寺にいた真希子さんや宗明さんが私のことを心配して待っていたこと分かってる。


「お礼ちゃんと言わせてください」

「…………分かりました」


 渋々という感じだったけど宗明さんは了承してくれたので私はぴっと背筋を正し指先を腿の外側につけてから気をつけの姿勢をした。

 それから「このたびは本当にありがとうございました」と言い切ってから頭を勢いよく下げる。

 今日は作務衣姿の宗明さんの足は裸足で男らしい指と綺麗なピンク色の爪が並んでいるのをたっぷりと堪能してから顔を上げた。


「宗明さんのお札があったから狒々に立ち向かえる勇気をもらえました」

「……そうですか」


 目を伏せている宗明さんとは視線は合わないけど、きっと望んでもいないお礼を受け入れさせられて戸惑っているのは伝わってきた。

 これ以上引き留めるのも気の毒だと思い「じゃあ、いっぱい頑張って勉強します」と宣言して宗明さんを解放することにした。


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