似ているのに神とは程遠い存在
山を下りて本堂の横から出てきたところで宗春さんが寺務所の前から手の先だけを動かしてこっちに来いと呼ばれた。
私よりも寝ていない――もしかしたら徹夜だったかもしれないのに――宗春さんの様子はいつもと変わらずリラックスしている風でもある。
お礼を言うチャンスだ!なんて力んでいるうえに急がないといけないと、出した手と足が同じ右側だったりで不自然さは隠しようがない。
身体がぎくしゃくしてしまったから余計に宗春さんの前に辿り着くのに時間がかかったけど、バカにするでもなくただその場で待っていてくれたのはちょっと意外だった。
挙動不審なのは今更だからツッコむ必要ないとスルーされていたという可能性も十分あるんだけど。
「あ、あのっ!あの、ですね!」
勢いのまま言ってしまおうとしたのにつまってしまい、語尾だけがみっともなく高く跳ね上がってしまった私を見下ろしていた宗春さんがにっこりと微笑んで「言いたくないことや心にもないことを無理に口にする必要は無いよ。時間の無駄」と感謝を伝えようとする前に言外に拒絶されてしまう。
しかし、なんだそれは。
勝手に誤解して先回りし、いらないと拒否するなんて。
「宗春さん!私は今回の件は本当に反省してて、危ない所を助けに来てくれたことを本気で感謝しているんです!それを」
聞きたくない、受け取りたくないなんてあんまりだと思う。
ぐいっと詰め寄って下から睨み上げると珍しいくらいに宗春さんは涼やかな目を丸くして固まった。
いい気味だ。
「宗春さんはなにを考えているのか分からないし、時々怖いこと言って脅してくるし、無茶ぶりも多いけど――私、嫌いじゃないです」
「――は?」
「呑み込みも聞き分けも悪い生徒の私にいつも根気強く付き合ってくれてありがとうございます。しかも今回は命の危機を救ってもらっちゃったわけですし。これからも色々とご迷惑かけることも多いとは思いますが変わらずよろしくお願いしますよ?先生」
ぽかんとしたままの宗春さんが面白くて笑っていると「どうした?」と奥の方から大八さんがやって来た。
これまたチャンス到来。
「大八さん、昨日はありがとうございました。格好良かったです!」
「おう?そうかぁ?でも昨日じゃなくて今日だけどな」
豪快に笑って大八さんは私の頭をポンポンっと優しく撫でてくれた。
この温もりや安心感は抜群で思わず目を閉じて味わってしまう。
「まあ、紬が無事で良かったわ」
「すみません……ご迷惑おかけして」
「迷惑じゃなくて心配な?」
「あ、はい。ご心配おかけしました」
「いいってことよ」
迷惑だなんて思っていないと言ってもらえたようでほっとしつつ、じんわりとそのありがたさを胸に広げていると宗春さんがショックから立ち直ったのか「こっち」と言って歩き始める。
遅れないように続くと大八さんも着いてきたので三人で寺務所の脇から奥の方にある倉庫の前まで歩いて行く。
倉庫の中には掃除道具が置いてあるので私も入ったことがあるけど、中にはパイプ椅子や餅つき用の杵や臼、蒸し器やポリバケツの大きなもの、それから紫や五色の垂れ幕やらもう雑多なものがそれでも整然と片付けられてしまわれている。
だけど宗春さんは倉庫に用事があるわけでは無いようで、そのまま通り過ぎて倉庫の裏へと回り込んだ。
「えっ?」
落ち葉の上に無造作に転がっている赤茶色の塊を目にして思わず前に出しかけていた足を後ろへと下げて身体が勝手に逃げ道を探す。
血や獣の臭いとはまた別の鼻に突くような臭いが辺りに漂い、人の気配に気づいて唸り声を上げながら頭を擡げたのは忘れもしない――夜が明けきらぬ中、襲ってきた猿の妖だった。
あの場で手を下すのは血や恨みで災厄を招くのを避けるためだというのは分かっていたので、荒縄で縛り上げた妖をなんだかすごく格好いい車のトランクに放り込んで一緒に千秋寺まで帰ってきたんだけど。
すでに宗春さんか大八さんに処分されていたのだと思っていたので再びこうして顔を合わせることになるとは予想外だった。
「あの……」
まさか意味も無く引き合わせるわけはないので、なんらかの意図があるんだろうけど。
分かるはずが無くて困惑しながら猿の妖の直ぐ傍に立っている宗春さんを窺った。
「良い機会だからさ。これを使わない手はないかと思って生かしておいた」
「えっと、良い機会って……なにがなんだかなんですけど?」
物のように冷たい一瞥で“これ”と猿の妖をさしながら宗春さんは私のために生かしておいたのだと言う。
改めてよく見ればそんなに太い縄でもないし腕が動かないように胴体にぐるぐると巻いているだけだから力任せに引きちぎるのも難しくないようなんだけど、荒縄に白い紙で作られた紙の飾り――神社とかのしめ縄に飾られている白いひらひらとした紙みたいなやつ――がついているから動けないようで。
弱っているようには見えないし、戦意を喪失しているようにはとてもじゃないけど見えなかった。
「えっと……まさか私に……?」
そんな妖を相手に私がどうこうできるとは思えないけど、常々無茶を強いてくる宗春さんだから恐ろしい目にあっただけでなく実際に手を汚してみるのもいい経験になるとか考えていないともいえなくて。
青ざめて下がる私を後ろから大八さんが肩を掴んで留まらせる。
まさかそのために着いてきたのかと振り返れば神妙な顔で大丈夫だと頷いてくれた。
そうだ。
信じなくちゃ。
宗春さんが私のためにならないことをさせるわけがないし、大八さんだって危険なことを私にさせるわけがない。
大きく息を吸って気持ちを落ち着かせてからもう一度、宗春さんをしっかりと見つめた。
「私はなにをしたらいいんですか?」
与えられる試練がどんなに厳しくても。
求められる成果がどんなに難しくても。
逃げられない――逃げたくない。
「うん。やっと良い質問になった」
宗春さんは無造作に左足を上げて動けない猿の妖の背中を蹴ってうつ伏せにさせると、そのままぐっと体重を乗せて艶やかに笑う。
「ちょっと、宗春さん」
「……ぐっ……ヒィ、コロ……せ……コロセ」
「まさかそんなに簡単には殺さないよ」
いくらなんでも目の前で抵抗できない妖を足蹴にして喜ぶ姿を見るのは良い気持ちがしない。
止めようと口を開いた瞬間、宗春さんの足元からくぐもった怨嗟を込めた声が聞こえてきた。
ふふっと笑み崩れながら上半身を前に倒して妖の顔を覗き込み「紬の練習相手になってもらうから」とまるで歌うかのように呟く。
「練習相手……ですか?」
「そう。眼鏡の力を使いこなせるようになるには犠牲になってくれる相手が必要だからね」
「……確かに」
誰も自分の中に隠している思いや記憶を見られたくはない。
それを力が暴走した不可抗力とはいえ相手のことも考えずに覗いてしまった前科があるだけに私の心は深く沈んでしまう。
できれば親しい人に向かってこの力は使いたくはない。
せめて練習と鍛錬を重ねて制御できるまでは。
「この縄を解かなければ安全だから紬は好きな時に好きなだけこれと向き合って訓練したらいい」
足を退けて宗春さんはまた猿の妖を“これ”と呼んだ後でもう興味もないというようにさっさと立ち去ろうとする。
「こ、ロセ……ヒィヒィ、ころせ」
赤く血走った目をその背中に向けて何度も繰り返す妖がなんだか無性に憐れに見えたが、相手は自分を殺そうとしてきたのだと思い直して首を振る。
簡単には割り切れないけれど、上達するためには仕方がない。
ただ練習のためとはいえ知性も感情も無い相手ではない妖を利用することになることに対する申し訳なさは拭えず、そのまま立ち去ることも気が引けて「お付き合い、よろしくお願いします」と軽く会釈をして宗春さんの後を追った。
軽やかな足取りの宗春さんは寺務所の入り口を通り過ぎ、千秋寺の山門へと向かう石畳みを歩いて行く。
なんとなくそのままついて行こうとした私の腕を後ろから大八さんが掴んで「紬はこっちな」と寺務所を左手の親指を立てて指す。
「あ、はい」
会社を休んでまでここにいるのだから少しでもたくさんのことを学んで励まなければならないんだけど。
宗春さんは基本あんまり説明してくれない。
一応真希子さんや大八さんが代わりに色々とフォローしてくれるからなんとかなっているようなもので。
臨機応変にその場で対応できるようにしているのかもしれないし、今後の予定を教えてしまうと私が焦ってしまうと考えて敢えてそうしてくれているのかもしれない。
「これから書庫で妖のお勉強だ」
「書庫ですか。千秋寺にある本ってすごく貴重なもののような気がします」
妖専門のお寺なのだから日本にいる全ての妖を網羅しているような素晴らしい書庫なのだろう。
ちょっとワクワクする。
寺務所から靴を脱いで上がり、まっすぐ伸びた廊下を大八さんと共に進む。
途中で折れたり、渡り廊下で別棟に移動してどんどん奥へと入って行く。
こうして少しずつ千秋寺の建物内を知っていくたびに、ここがとても広くそして複雑に入り組んでいることのだと実感する。
今まで出入りしていた場所は千秋寺のほんの一部だった。
聖域に住む天音さまのお堂に足を踏み入れることを許されたり、千秋寺の秘められた奥深くの場所への出入りを認められたということは少なくとも私はここの人たちに特別であると認められたんだとじわじわと自覚してきて――ちょっと怖くなる。
裏切れない。
千秋寺の人たちの思いや期待を。
それと同時にその気持ちに応えたいと思うから。
「気合入れないとっ」
ひっそりと拳を握って奮起していると大八さんが笑って立ち止まる。
木の引き戸を引き開けて壁につけられている電気のスイッチをパチリと点けた。
「ま、気合入れねぇと紬には読めないかもしれないからな」
「それって――うわぁあ」
何度かの点滅の後に灯った電気の白い光の下で和綴じの書物がずらりと両壁に並んでいるのが見えた。
背中を押されて入ると古びた紙と墨の匂いが狭く閉じられた書庫の中に漂っていて、戸が開いた拍子に舞った埃が空気の中で浮かんでキラリと光る。
背表紙が無いので圧迫感は少ない。
和紙と表紙を閉じるために使われている紐で分類でもされているのか、同じ色の紐で括られた書物が固まっておかれてるみたいだ。
「えっと確かこの辺り……お、これだこれ」
大八さんはここの本を読んだことがあるのか、慣れた様子で本棚に寄り緋色の紐で綴じられた書物を取り出してパラパラと中を確認して頷いた。
「え!?ちょっと、待って!」
その瞬間に見えた恐ろしげなイラストはまだいい。
問題は。
達筆な文字が流れるように綴られた文章の方!
「気合でどうこうできるレベルじゃないんですけど!?」
「慣れりゃ大丈夫だって」
「大丈夫なわけないです!ああ……妖の勉強より先に文字の勉強が先になりそう」
差し出された本を受け取って前途多難な現状を憂うよりも努力が先だと自分に言い聞かせた。
見も知らぬ外国語ではなく、日頃慣れ親しんでいる日本語なんだからと慰めても今は使われていない漢字もちらほらと見えていて眩暈がするけど。
「こんなチャンスなかなかないですからね。頑張ります」
「おう。その意気だ。まずは狒々について調べること。紬がこれからしょっちゅう顔を合わせる妖になるわけだし、なんで練習相手に与えられたかもそれで分かる」
「え?たまたま捕まえたからじゃないんですか?」
「たまたまだったけど、都合も良かったんだろ」
大八さんは肩を軽く竦めた後で部屋の奥にある机を指差し「そこ使っていいからごゆっくり」と言い残してさっさと戸を閉めて行ってしまった。
これだけ広いと掃除も大変だし、維持するのも大変だから毎日忙しいんだろう。
私が仕事を代わりにできればいいんだろうけど、本来の仕事を休んでここにいるのは千秋寺で働くためではない。
「よっし!いっちょやりますか」
使いこまれて飴色になっている文机の前に行き、藍色のカバーをかけられた座布団に膝を埋めて座りページを開いた。
狒々の説明が載っている場所を探して捲っているとなんと様々な妖がいるのかと驚く。
この書物には猿の妖を纏めてあるようで、名前だけでなく生息する場所やどういう能力があるのか詳しく書かれている――ようなんだけど読めない――上に、イラストもたくさん描かれてあってそれを眺めているだけでも楽しめる。
「ほんとにたくさんの妖がいるんだなぁ」
視線を上げて両脇にある本棚に詰まった妖の知識の書物を眺めて改めて溜息を吐く。
ひとつひとつに妖の秘密や歴史が書き込まれていて、ここにこれがある限り大半の妖はきっと消えたりせずに生きていられることができるんだなと思うと記録を残すという作業に別の意義が生まれている気がする。
「おっと“ひひ”だった……“ひひ”ってどんな漢字書くんだろう?」
慌てて目を戻して紙を繰りながら少し大きな文字で段落を開けて書かれている名前を追いかける。
猿神、玃猿、黒ん坊、山子――どれも聞き馴染みのない名前ばかり。
それでもありがたいことに読み方がひらがなで書かれているから読めなくない。
まあひらがなも流麗な文字なので読み解くのにちょっと時間がかかるけど。
「あ!あった……“ひひ”って狒々って書くんだ……」
美しすぎて難解な文字をゆっくりゆっくりなぞりながら貧困な想像力を総動員して集中する。
じれったいほどの時間を使って分らない文字は飛ばしつつ理解した部分を読み上げてみた。
「えっと山中に住み猛獣を喰らい、怪力を有し……人間の女を攫う猿の妖。人を、見ると口唇をめくり上げてヒヒと大笑いすることから、その名がつく」
知能も高く人と会話することもできる上に――。
「人の心を読み取るとされている!?」
いやいや、ちょっと待って。
そんなやばい妖を練習相手にして大丈夫なの!?
いや。
でも私は狒々の記憶を覗くことになるんだし公平でも……ある?
いやいやいや。
「うう、これは慎重に対応しないと私の方も無事では済まないかも……」
心を読まれるという恐怖を感じながらの修業とは。
これはなかなか。
「スリリングじゃないですか」
狒々がイノシシを捻じ伏せているイラストを眺めながら乾いた笑い声を出し、他にも色々な情報――狒々の血を飲むと鬼を見る能力を得られるとも言われているとか、年を経て猿が妖となったとか、元々は中国からやってきたという説もあるとか――を随分と時間をかけて読み解いて。
「あれ?猩々……って書いてある」
狒々の説明なのだろうと思って熱心に読んでいたら次の妖の項目にうつっていることに気づく。
すぐに気づけなかったのはきっと似たような妖だったからかもしれない。
だけど狒々とは違って猩々は酒を好む猿の妖で七福神の寿老人として祀られていたこともあると書かれていた。
「赤い顔に赤い髪の人に似た猿の妖って見た目だけだったら狒々とそう変わらない気がするんだけど」
かたや人を喰らう恐ろしい化け物、かたや神さまとして愛される妖。
まあ文字だけの情報だと同じように感じられるけど徳利を手に朗らかに笑う猩々のイラストと狒々がイノシシを襲っている姿を見比べてみると明らかに別物だった。
「うう……狒々じゃなく猩々だったらよかったのに」
しかし猩々なら真夜中に恐怖のお宅訪問などしてこなかったわけで。
うむむと唸った後、せっかくだからと他のページにも触手を伸ばして猿の妖について見識を深めてみるかと思い立つ。
いずれは学ばなければならないんだから――と書庫の壁を埋める書物を振り仰いで、私は腕まくりをして再び難解な字を追うことにした。




