まさか 泣くなんて
「さてどうだった?あなたの望む通り家に帰ってまんまと命の危機に陥った気分は?」
大八さんに四畳半の和室へと案内され、中へと入ると床の間を背にして真希子さんは静かに座って私を待っていた。
おずおずと向き合う場所に腰を下ろすと開口一番厳しい言葉を投げられる。
いつもは穏やかに微笑んでいる真希子さんだが可愛らしい唇を引き結び、ひたりと据えられる真っ直ぐな視線の冷たさはさすが宗明さんの親だと背中に冷や汗が流れた。
「本当に申し訳ありませんでした。私の考えが至らないせいでみなさんにご心配とご迷惑をおかけして――」
もう一度申し訳ありませんでしたと謝罪して頭を下げると「そう、それで?」と容赦なく問いかけてくる。
あなたはなにを学んだの?
危険だと言われても信じず、みすみす危険な目に合おうとする私を守るため宗春さんと大八さんに見張らせてまで手間をかけたのだからちゃんとなにかを学び取ってもらわなくては困るのだと。
「私が、愚かでした。私は無力で、なにも分かってませんでした。私みたいなたいした力もない人間を妖が本当に狙うわけないって、襲うわけないって、そんなこと起こるわけないって――勝手に思い込んで」
実際に起こってしまったことは戻せないし、経験しないと危険だと理解できないと言ったのは私だ。
なのに妖に襲われて圧倒的な力と荒々しい存在感の前でただ泣いて震えるだけしかできなかった。
自分に自信が無いくせに相対するまでなんとかなるとかどこかで思っていたくらいなのだから始末に負えない。
「守ってもらっていることに甘えて、なのにそれを拒んで自分の身も守れないのに偉そうなこと言って」
宗明さんのお札と宗春さんと大八さんが近くにいてくれなかったら私は今ここにいなかっただろう。
もしかしたらお母さんやお父さん、そして結だって犠牲になっていたかもしれない。
「自分の軽はずみな行動で家族も危険に晒して、私なんかのためにずっと傍にいてくれた宗春さんや大八さんにも危ない目に合せてしまった」
こんなことなら最初から千秋寺で守ってもらっていれば宗春さんも大八さんも肌寒い秋の夜に出回らなくても良かった。
自分の甘さに加え下手に仕事のことや親に心配かけるからとか考えてしまったせいで更に事態を悪くしてしまったのだから。
「なんにも分ってないくせに専門家である真希子さんたちの言葉をちゃんと聞かなかったことを今は本当に後悔してます」
学んだことというよりも反省している点を挙げただけになってしまったが、ここで妖がどれほど恐ろしかったかとか黒い煙のような闇の冷たさとか得体の知れなさとかを語り始めたら涙なくしては話せなくなってしまう。
今は泣く時ではないと分かっているからぐっと堪えて座っている膝の少し先の畳の縁を見つめていた。
口を噤んで黙った私がそれ以上話さないことを覚ったのか、真希子さんは深いため息を吐いてゆっくりと唇を開く。
「その“私なんか”とか“私みたいな”という考え方は止めなさい」
ぴしゃりと言い放った声は鋭く優しさは微塵も無い。
思わず曲がっていた背中が真っ直ぐに伸びる。
隙なくしゃんとした姿勢で座っている真希子さんは、いつもはふんわりとした髪を下ろしたままにしているけど、今はきっちりと後ろでひとつに纏めているから凛々しく感じられた。
耳から顎にかけての輪郭は女性にしては思いがけずシャープで、柔らかいイメージがあった真希子さんと宗明さんの血の繋がりといったものを今まで感じたことは無かったけれど怒りという感情で表情を失っている顔はびっくりするくらいに二人は似ている。
「わたしにとってあなたは“なんか”とか“みたいな”とかいう軽い存在じゃない。可愛くて仕方がない大切な女の子なの。だからその子を守りたいと思うのは自然なことです」
そんな真希子さんに嬉しいような申し訳ないようなことを言われて恐縮してしまう私はやっぱり根っから自己を肯定して自信へと繋げられない人間なんだろう。
「迷惑がかかるからとか遠慮されたらわたしはとても寂しいし傷つくのよ。わたしは誰にでも優しくしたりしないし、わたしにとってどうでもいい子を守ろうなんて思うほど善人でもない」
――あなただから、ということを忘れないでちょうだい。
眉を寄せて口を歪ませた真希子さんはここまで言っても伝わっていなさそうなことに苛立ちと少しの絶望感に襲われているようだ。
でも仕方ない。
真希子さんは初めて会った時から優しくて何故か好意的だった。
私のなにがそんなに真希子さんに気に入られているのか全く分からなくて戸惑いしかない。
図々しくご飯をいただいて、お弁当までありがたく受け取ってしまったのに。
その上お借りしたシャツとカーディガンまで譲っていただいたことまで続けて思いだし、破格の扱いをしてくれていたことに対するありがたさと――同時に毎朝顔を合わせて一緒にご飯を食べるそのささやかな積み重ねが信頼と親しみを育んでもくれていたことにも気づく。
「あなたが自分に自信を持てていないのは分かってるわ。でもね。あなたが自分を軽んじたりするたびに、あなたを大切に思っている人たちの思いを知らず踏みにじり傷つけていることを忘れてはいけない」
私はその言葉にはっと息を飲んで真希子さんの顔を正面から見つめた。
長所よりも短所にばかり目を向けて悩みながらも改善せずに隠すことに一生懸命になることで安心を得ていることは自分だけの問題だと思っていたから。
自分の中でダメ出しをして諦めたりすることは誰かを責めている行為でもないからと罪悪感も抱かずにいたけど。
そうか――とようやく自分中心で生きてきたことを自覚した。
「あなたが必要以上に自分を卑下することはあなたを生み、育ててくれた両親のこれまでの頑張りや想いを否定することでもあるのよ。これほどの親不孝は無い」
真希子さん自身も親だからこそ分かる思いやりと強さで私を叱咤してくれていることに感謝しながら、私は朗らかに笑うお母さんの顔やテレビを見ながら発泡酒で晩酌をすることにささやかな幸せを感じているようなお父さんの横顔を思い出す。
今までごめんねと心の中で詫びながらその面影を瞬きで消す。
真希子さんのお説教はまだ終わりじゃない。
私を思っての厳しい言葉を聞き流すようではこれまでの私となにも変わらないから。
聞く姿勢へと戻ったことを確認して真希子さんが小さく頷く。
「謙遜と謙虚は違うのよ。自分を過少評価するわりにあなたは人からのアドバイスには耳を傾けない頑なな所がある。変わりたいと思いながら“どうせ”なんて思ってるからそうなるの。もっと素直になりなさい。自分の良い所を自分が消してしまうなんて本当に勿体ないんだから」
「はい」と私が返事をすると目尻に皺を寄せて真希子さんは目元だけを和らげてから慌てたように言葉を継いだ。
「自分の良い所は自分ではわからないものだけど、あなたは特にその傾向が強いみたいだからこれからは人の声にちゃんと耳を傾けて真っ新な気持ちで聞きなさい。そうすればたくさんの良い部分があると気づけて自信を持てるようになるから」
初めは難しいだろうけど。
「褒められたら“そんな”とか“私なんか”とか言うのは禁止よ。そういう時は“ありがとうございます”と返すこと。その時にちゃんと頭の中で褒めてもらったことを留めておいて夜寝る前に思い出してもう一度誉めてくれた人と自分に対して“ありがとう”と感謝すること」
少しでも褒められたら反射で否定しそうになるので「ありがとうございます」という言葉を喉の奥と頭の中から捻り出すことにしばらくは苦労しそうだけど私はその苦を選ばないといけないのだと――選びたいと思った。
その日の一日の最後に感謝で終われるならきっといい夢が見られて、次の日も明るく過ごせそうだ。
自己否定や自己憐憫に溺れて甘えていることはどこまでも心地よかったけど。
もうそれは終わりにしなければ。
決意を固めていると「ねえ、紬ちゃん」と“あなた”ではなく名前を呼んでくれたのでお説教タイムは終わったのだと安心して意識を戻すと真希子さんはとても泣きそうな顔で私を見つめていた。
「え!?真希子さん、どうして」
くしゃりと歪めて華奢な肩を震わせた真希子さんが白く綺麗な手の甲を目元に当てる。
さっきまでのキリリとした様子とのギャップに驚きつつも胸がきゅんっとしてしまうのはもうどうしようもない。
「だって……紬ちゃんになにかあったら、今こうして向き合ってお話しできていなかったんだって思ったら」
「うっ、わ、それは、あの、その」
「わたし……嫌なことばっかり言って、すっかり紬ちゃんに嫌われちゃったわよね」
くすんと鼻を鳴らして真希子さんは横を向き「ごめんなさいね」と謝罪する。
あわあわと膝でいざって近づいたものの、年上の女性の慰め方など全然分からない。
これが同じ年だったり年下だったら頭を撫でたり、背中を摩ったりできたんだけど。
「いや!そんなことないです!真希子さんが私のために言ってくださったことはちゃんと分かってますから!真希子さんを素敵だと思いこそすれ、嫌うだなんて、そんなことは!だから泣かないでください」
だから必死になって言い募ることしかできなかった。
情けない。
「ほんと?」
「はい」
「嫌ってない?」
「はい!」
「良かった……」
手をどけて小さく微笑む真希子さんはとっても綺麗で、耳元の柔らかそうな後れ毛と滑らかな頬が電気の灯りに照らされてキラキラと光っていた。
こういう女性のことを男の人は守ってあげたいと思うのだろう。
もちろん私だってそうだ。
できればこんなに優しい人を傷つけたくない。
悲しませたくない。
親でもないのにこれほど真剣に私を思って怒ってくれる人はいないから。
私のことを大切な女の子だと言ってくれた真希子さんだけど、私にとっても真希子さんは特別な存在なんだと改めて噛みしめる。
「わたしね。悔しかったのよ」
唇を尖らせて上目遣いでこっちを見るのは反則なほど可愛らしい。
年上の自分の母親とそう変わらないだろう女性にそういう感想を持つのは失礼なのかもしれないけど。
真希子さんのそんな可愛い顔ならずっと眺めていられそうだと笑ってしまった私はやはり間抜けな人間だった。
修行が足りない。
人生の。
そして人の思いを汲み取る技量の。
「紬ちゃんが目の前で危険だと分かっている道を行こうとするのを止められないのはたまらなく悔しい。だってわたしの声や思いは紬ちゃんにとってそれほど重要ではなく、切り捨てられるだけの絆でしかないと言われているのと同じだから」
真希子さんの言葉はまるで止めを刺そうとするかのように鋭く私の胸に突き刺さり、更にグリグリと抉るように痛みを刻みつけていく。
もちろんそんなつもりはなかった。
真希子さんを軽んじたのではなく、自分自身を軽く見ていただけだったのだけど。
でも真希子さんの言葉や警告を深刻なこととは受け止めなかったということは、真希子さんの私を心配してくれている思いを軽視したということになるわけで。
そうやって自分を傷つけていた行為は案じてくれていた相手をも同時に傷つけていて。
「そんなことないです。私にとって真希子さんは大切な人です。怒ってもらえて嬉しいと思えるくらいに」
だからこそもっと考えなくちゃいけなかったのに。
「本当に申し訳ありませんでした。謝って済むことではないけど」
謝らせて欲しい。
これだってきっと甘えで。
でも許して欲しいと必死になるくらいに真希子さんが好きだ。
「紬ちゃんの中で少しでもわたしを大事だと思ってくれているのなら、せめて同じくらいの思いで自分を特別だと思って欲しい」
「は、い……真希子さん」
なんとか震える舌の上に言葉を乗せ、教えてもらったようにゆっくりと心をこめて「ありがとうございます」と紡いだ。
真希子さんが目を赤くして笑み崩れそっと――そっと私の頭を胸元へと抱き寄せてくれた。
「良かったわ。無事で。怖かったでしょう?」
眼鏡が柔らかい真希子さんの胸に当たって上へとずり上がる。
温かくいい匂いに包まれてあやすように背中を叩かれたらもう駄目だった。
次々と涙が零れて何度も頷くことしかできない。
「宗明のお札もお守りもあったからそう酷いことにはならないだろうとは思っていたけど、もしものために宗春と大八さんを向かわせておいて良かった」
「ごめ……なさ、い。め……いわく、かけっ」
しーっと小さく空気を押し出してそれ以上の言葉を戒められた。
抱きしめてくれている優しい腕は少しだけ力を込めて私を囲い込んでくれる。
「仕事でもないのに誰が好き好んで危険に飛び込むものですか。助けが必要なのがあなただから宗明も宗春も大八さんも動くのよ。迷惑だなんて誰も思ってないから」
安心しなさい。
「でもあとであの子たちにちゃんとお礼は言ってあげてね。それだけでいいから」
それに「はい」と返事したのはなんとなく覚えている。
でもそのあとすぐに眠ってしまったようで、私は小さな子どものように真希子さんの胸に頬を埋めて意識を手放していた。
大八「え?もう説教終わり!?」
真希子「だって相手は女の子よ?あなたたちを叱るようにはいかないでしょ?」
宗春「僕たちは一時間みっちりだったのにね」
宗明「一時間ですんで良かったな(今回お咎めなしだった)」
宗春「昔こんこんと叱られ続けて気づいたら半日経ってたこともあったしねぇ(いくら叱られようが改める気がない)」
真希子「やだわぁ。そんな昔のこと」
大八「(真希子さんが一番強い説を実感中)」




