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まさか こんなことになるとは



 ――リンリンリンリン


 澄んだ音が夢の中に入り込んできて「うう~ん」と唸って寝返りを打つ。

 毛布を口元まで引き上げて手足を丸めるともう一度深い眠りへと向かってダイブする。


 ――リンッリンッリンッ


 それを邪魔するようにさっきよりも音が強く鳴り始めてやっとなにが鳴っているのかと寝ぼけながらも考え始めた。


 携帯のアラームではない。


 そんなけたたましい音じゃないし、機械的なものというよりももっと涼やかで心地いい類の音だった。


 夢の途中で起こされたからか体が重くて直ぐには動けない。

 それでも音は鳴りやまず、急かすように音を短く弾ませているから渋々目を擦りながらベッドヘッドに置いていた眼鏡に手を伸ばす。


「なんなの……?」


 部屋は暗く窓から入ってくる弱々しい街灯や月の光がカーテンの襞に深い闇と淡い輝きを作っている。

 いつもは窓辺で固まって眠っている小人さんたちが怯えたようにベッドへと群がっていてなにかを訴えるように見上げてきていた。


「なにが……?」


 少しずつ体も頭も覚めてきて手足の先まで神経が行き届いたと同時に異変に気付く。

 角にあるテレビの横でお侍さんが腰に手を添えて窓を睨んでいるし、部屋中の空気が息苦しいほど張りつめているのが分かった。


 ――リンッリンッリンッリンッ!


 まるで危険を知らせるように鳴っている音の発生源を探して視線を動かした先にクローゼットの前に転がっているトートバッグがあった。

 把手部分につけている宗明さんからもらったお守りの鈴が闇の中で光りながら震えていた。


 そしてカーテンに浮かぶ奇妙な影がゆらゆらと左右に揺れて。


 ――コツ……コツ……


「ひっ!」


 鈴の音とは違う硬質な音が聞こえ、その密やかでありながら意思を感じる異様な音に完全にビビりまくった私は毛布を握り締めてガタガタと体を震わせた。


 これはやばい奴だ。


 私は肌身離さず持っておこうと思っていたのに、家にいるという安心感からお守りもお札も傍に置いていなかったことに激しく後悔する。

 トートバッグを取りに行くには窓に近づかなくちゃいけない。

 できれば窓の傍には行きたくないけど、毛布をお札やお守りの代わりに抱きしめていても妖からは守ってはくれないのだ。


「だ、だから」


 取りに行かなくちゃ。


 でも。

 怖い。


 お札を部屋に貼っているので中には入って来られないはずだから、そのうち諦めて帰ってくれるかもしれない。


 それまでここでじっとしていればいいんじゃない?


 そんな私の弱気が伝わったのか。


 ――カリッ!カリカリッ


「!?」


 耳障りな尖ったもので金属を引っ掻くような、ガラスに爪を立てたような音へと変化した後ドンッという音がして窓が――違う、部屋が――揺れた。


 お侍さんがいつの間に立ち上がったのか、ベッドと窓の間に移動していてその背に庇ってくれたけど幽霊が妖になにができるというのか。


 でもお侍さんの背中からはなにかを決意したような凛とした気高さがあった。


 きっとこうやって生きていた頃も誰かを守って戦っていたんだろう――そう思えるほどにお侍さんには迷いも力みも感じられなかった。


 ――ヒヒッ、ヒヒヒッ


 私が今まで感じたことの無いような恐怖に陥っていることをまるで嘲笑うかのように何者かが窓の外で飛び跳ねる。

 大きな丸い体に長い手足がついているようなシルエットはまるで猿が興奮して飛んでいる姿に似ていた。


「……猿?」


 そういえばお母さんが言っていた。

 最近猿が出るから気を付けるようにって回覧板で回ってきたと。


 まさか。


 猿なのか。

 それとも猿に似た妖なのか。


 ううん。


 小人さんたちもお侍さんもこれだけ警戒してるんだから普通の猿の訳が無い。

 お守りも危険を訴えているし、まず間違いなく妖だと思う。


 やっぱり相手がどんな妖なのか知らないというのは不利で。


 このまま息を潜めてじっとしているしか方法はないけど、窓の外の妖も直ぐにいなくなるような様子もない。


 夜が明けるまで根競べをするしかないのか。


 それまでお札はちゃんと持ってくれる?


 もし妖の体当たりでガラスが割れて中に入られたらきっとひとたまりもない。


 やっぱりバッグ取ってこよう。

 じゃないと安心できない。


 ソロリとベッドの足元の方から下りて毛布を引きずりながらゆっくりとクローゼットの方へと進んでいく。


 なるべく足音を立てないよう、気配を覚られないように。


 ――ヒヒヒッ……ヒッヒッヒッ


 息を吐き出しながら喉の奥で笑う笑い方は不快感と共に恐怖を煽る。

 猿が興奮した時にあげる甲高い声とは違って、どちらかというと人間染みていて自分の笑い声が相手を効果的に震え上がらせることができると理解している感じがした。


 緊張で口の中が乾いて喉が痛くてゴクリと無意識に唾液を飲みこんだ音がいやに響く。


 ――ヒィーッ!ヒッヒッヒーッ!


 突然大きな声で叫んだのはきっと私が窓の近くまで来ていると分かったからだろう。

 いくら夜中でみんなが寝静まっているとしてもそんなに大きな声で騒いだら誰かが起きてくるかもしれないのに。


 姿を見られても困らないのは逃げ切れる自信があるからか。

 それとも人など妖の敵ではないからか。


 ゾッとしながら急いで手を伸ばしトートバッグを引き寄せるとお守りが跳ねて鈴がチリチリと愛らしい音を奏でて。


 気づかれないようにとかそういうこと考えられなかった。


 ――バンッ!!バンッ!!


 再び部屋が揺れて、カーテンがふわりと浮いた。


 毛むくじゃらの身体に大きな口から黄色い牙が覗き、ギラギラと赤い獰猛な瞳を輝かせて。


 大きい。

 猿なんかと比べ物にならないくらいに。


 腰高の片窓が全て妖の身体で埋まっている。


 丸い目を更に大きく見開いて部屋の中を探していた相手が私を見つけた瞬間に唇を鼻まで捲り上げて「そこにいたか」と笑った。


「ひぃっ!」


 牙の隙間からねっとりとした涎を垂らして拳を窓に叩きつけてくる。


 何度も。

 何度も。


 その度にカーテンが浮いては下り、浮いては下りして猿の妖が見え隠れした。


 恐ろしくて動けずにいる私の元へ小人さんたちが寄ってきてパジャマを引っ張って奥へと下がるようにと促してくれる。


「なに……これ」


 なんなの。


 すっかり足腰が立たなくなってずるずると床の上に座り込む。

 身体はただ震えるくらいしかできなくて頭の中はいつも以上にまともなことを考えられずにいた。

 怖くて窓から視線を逸らすことすらできない。


 はやくはやくと急き立てる小人たちの必死さにも気づかずにすくみ上っていたのが悪かったのか。


 ――ピキッ


「え?」


 窓だけではなく空間にまで罅が入ったのが分かった。

 まるで白黒の映画のように部屋の中の色が消えて、ドロリとした粘着質な液体が注ぎ込まれたかのように空気が重くなる。


 濃く恐ろしい闇がじわじわと窓から――外から入ってきて。


 お侍さんが刀を抜いて煙のような黒いものへと振り下ろすと嫌がる様に身を捩って退いていく。

 それでも次から次へと進入してくる濃い闇は床の上を這い私の足先にまで近づいてくる。


「ひっ!やだっ!」


 膝を抱き寄せてクローゼットへと背中を当てたがそれ以上逃げようがない。


「ど、どうすればっ」


 涙をボロボロと流しながら逃げ場を探す。


 滲んだ視界の向こうでお侍さんが刀を細長い黒い煙に絡め取られ動きを封じられながら足元から闇に浸食されている姿が見えた。

 苦痛に歪み、髪を乱して抗いながら私の方を見て唇の動きだけで「逃げろ」と伝えてくる。


 何度も、繰り返して。


 でもどこへ逃げればいいの?


 ここは宗明さんのお札が貼ってあって安全な場所だったはずなのに。

 窓の外の妖は宗明さんのお札が効かないほど強い妖なのだとしたら他にどうしようもない。


「おじぃ……ちゃ」


 えぐえぐと泣きながら助けを求める相手が天国に行ってしまったおじいちゃんだというのはちょっと情けない。

 こんなんじゃおじいちゃんはちっとも安心して向こうで暮らせないし、困ったことや怖いことがあるたびにおじいちゃんに縋ってたらずっと強くなれないのに。


 こんなことになって思うのは、真希子さんの忠告通り千秋寺にいた方が良かったということ。


 今更だけど。


 これではなにも分かっていないと呆れられても仕方がない。

 心のどこかで死というものを軽んじていた。


 良くも悪くも起伏の少ない人生を選んで歩いてきたから、死ぬという悲劇的で恐ろしい現象が自分の身に起こるなんて――死は等しく誰の元にも訪れることだというのに――想像できていなかった。


 今まで大丈夫だったからこれからも大丈夫だなんて保証はどこにもないのに。

 元気だった人が次の日に遠くへと旅立ってしまうことだってあるというのに。


「私は」


 本当に救いようのないくらいバカだ。


 真希子さんや大八さんがあれほど心配してくれてたのに。

 死んでしまったらなんの意味もないのに。


 言葉を尽くして守ろうとしてくれていたみんなに対して私はなんて傲慢な振る舞いをしていたのか。


 とても歯がゆい思いをしているに違いない。


 もし私になにかあったら千秋寺の人たちはみんな自分を責めるだろう。


 自分の身を守ることもできない癖に偉そうなことを言って、自ら危険に飛び込むような私の愚かな行為のせいで苦しめて。


 恩を仇で返すようなことをこれ以上しちゃいけない。


「ふっ……く。ダメだ、考え、なきゃ。ちゃんと」


 どうにかして乗り越えなくては。


 まずは状況の把握。


 妖はまだ部屋の中には入って来てない――というよりも、入って来られないようだ。

 凄い力で窓を叩いたり、引っ掻いたりしているけどガラスに罅を入れることしかできていない。


 つまり。


 宗明さんのお札はまだちゃんと生きてる。


 効果が無いわけじゃない。


 でも隙間から流れ込んできているこの黒い煙のような闇が少しずつ少しずつ蝕んでいて、このままなにもしなければ私だけでなくお侍さんも小人さんたちも飲み込まれてしまう。


「いちかばちか」


 力んで固まっている手指を開いてトートバックの中へと突っこんだ。

 その中からお札が入っている封筒を取り出して一枚抜き出そうとしたら手が滑って床にぶちまけてしまう。


 短冊型の和紙がなにかに導かれるように放射状に広がって、その部分にわだかまっていた闇の層が押しのけられるようにして壁側へと流れていった。

 お蔭でお侍さんを襲っていた黒い煙も霧散し、自由を取り戻した彼はお札を畏れるようにベッドへと飛び移る。


 闇に押しつぶされていた小人さんたちは床に倒れたまま私を涙目で見上げ、なにかを懇願するかのように小さな手を伸ばしてきた。


「大丈夫」


 宗明さんのお札はちゃんと効く。

 そのことが私に少しの勇気を与えてくれた。


 小人さんへ弱々しいながらも笑顔を向けて、クローゼットに支えられながらゆっくりと立ち上がる。


 ここでなにもできずに妖の手に落ちるのだけはしちゃいけない。

 自分が招いた事態なんだから必死で抵抗しなくては。


 そしてもう一度千秋寺のみんなに会って自分の非を認め、心配をかけたことを誠心誠意謝らなくちゃ。


 死んでも死にきれない。


 お守りを把手から外すのは震えている指先では無理なのでトートバッグを左肩にかけた。

 パジャマ姿にトートバッグをなんてちょっと間抜けだけど。


「宗明さん、ありがとう」


 立ち向かえるだけの力添えと守ることができる手段を与えてくれて。


 ひたりと足を前に出す。

 床は冷たくて、でもその冷たさが少し私を冷静にしてくれる。


 次の一歩を踏み出させてくれた。


 たった一枚のお札を手に。

 私は窓の前に立つ。


 カーテンと窓を挟んで向かい合うと鼓動が一度跳ねたけれど呼吸は乱れなかった。


 だいじょうぶ。


 ゆっくりと唱えて左手を前に出しカーテンを握る。

 ざらついた布の手触りがじっとりと汗をかいた掌に残った。


 だいじょうぶ。


 もう一度口の中で呟いて思い切りカーテンを引き開けた。


 ――ヒィーッ!ヒィッ!


 歓喜するように体を大きく揺すって低く高く笑っている妖は間近で見れば見るほど醜かった。

 皺くちゃの顔は赤黒く、固そうな毛皮は赤茶色。

 口元から胸元にかけて毛が黒く濡れて固まっていて、窓を引っ掻く爪も同じように赤黒く汚れていて。


「これが……妖」


 人や獣を襲い食べる恐ろしい存在。

 相手を怖がらせることに悦びを感じ、理性も無くただ欲しいままに人を喰らう。


 剥き出しの感情は人の中にもある喜怒哀楽と同じなのに禍々しく目の前の妖とはとてもじゃないけれど仲良くなれそうにない。


 赤く淀んだ瞳の奥にある渇望は恐らく私を恐怖のどん底に突き落とし泣き喚いて助けを乞わせながら殺し、血や肉を口にしなければ治まらないのだろうと感じた。


 窓に映る私の顔は涙の痕がくっきりと残っているのに無表情で。

 我ながらゾッとした。


 前歯で唇を噛んで息を止め、罅の入ったガラスの部分にぎゅっとお札を押し付けると


 ――ヒィー!ヒッ、エェエッ!


 感電でもしたかのように体を小刻みに震わせた後で怒り狂ったかのように奇声を上げる。


 毛を逆立ててさっきよりも一回り大きくなった猿の妖は目を血走らせて今度は体当たりをしてきた。


 その衝撃に私は床に転倒し、窓ガラスがビリビリと今にも割れそうな音を立てる。


「そんな」


 滅茶苦茶だ。


 激昂して牙を剥きだしている猿の妖も当然無傷ではない。

 透明のガラスに血が飛び散り、赤茶色の毛が張り付いて。


「だめだ――」


 このままだといつかは破られてしまう。


 その前に家族の誰かが気付いて起きてくるかもしれない。

 そうなると自分だけではなく家族までも危険に巻きこむことになる。


 この異常な状況を見てお母さんやお父さんはどう思うだろう?


 結は――?


「だめだ」


 こんなもの特に結には見せられない。

 トラウマになる。


 でも、どうしたら。


 迷ってばかりで動けずにいる私の目の前が暗くなる。

 それは精神的なものが原因ではなく物理的な要因で。


 でもそれも一瞬のこと。


 深紅の炎がまるで矢のように斜め上から降り注ぎ、ギャッ!猿の妖が悲鳴を上げて姿を消した。


 屋根の上を転がって雨どいを壊し地面へと落ちた音を聞きながら、猿の妖がいたはずの場所に新たに現れたシルエットをぼんやりと見上げる。


 寒空の中でも半袖のTシャツにゆったりとした綿パンを穿き、首に二重にした数珠を下げているがっしりとした長身の男の姿。


 こんなに大きいのに気配も足音も無く颯爽と現れたのは大八さんだった。


 窓ににじり寄ると「そこにいろ」と首を振り、身軽な足取りで屋根の縁まで行き誰かと小声で話している。


「なん、で?」


 こんなにも優しいのか。


 物事の深刻さを理解せず言うことを聞かずに家に帰った私の危機にこうして駆けつけてくれるなんて。


 どれだけ。


「大丈夫か?」


 窓辺まで戻ってきた大八さんに眉を下げて気遣うように聞かれたら。


 もう。

 無理だった。


 涙腺が壊れたかのようにボロボロと涙が溢れて止まらない。


「だい、だいはちさ、」

「ああ、泣くな。狒々は下で宗春が捕まえてるからもう危険はない」


 安全だからと窓に手を当てて。


「ちがっ、ごめ……な、さい。私……こんなこと、に、なるなんて」

「謝んな。んなこと分かってる。でもこれから長~い説教タイムになるのは覚悟しとけ」

「おせっ……きょう?」

「外で待ってるから着替えて準備できたら出てこいな」


 よっこらせと腰を上げて大八さんはひょいひょいと軽やかに屋根を蹴り宙に身を躍らせた。

 それを見届けて私はしっかりと怒られるために泣きながらも急いでパジャマを脱ぎ捨てて着替えると床に散らばったお札を拾い集めてトートバッグへ入れる。

 一応会社の制服と化粧道具を入れたバッグも持って部屋を出た。


ようやく自分がどれほど楽観視していたのか気づいた紬。

経験から学ばせるために宗春や大八が見守っていてくれていたから良かったものの……今回は命を失っていてもおかしくはなかったのでした。


さて次話。

真希子さんからお説教をいただきます。

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