まさか 仲違い?
「本当に大丈夫?絶対に帰らない方が良いと思うんだけど、どうしてもお家に帰るの?」
目をうるうるとさせて縋るように食卓の向こうから見つめてくる真希子さんからそっと視線を外して「ええっとぉ……」と言葉を濁す。
テーブルの上にはじっくりと煮込まれたカレーライスと真希子さんお手製のらっきょう漬けや福神漬け、レーズンが並びキャベツとコーンを和えたコールスローの小鉢、大皿にとんかつとからあげがドーンッと鎮座ましましている。
確か千秋寺に辿り着いたのは正午少し前くらいだったはず。
天音さまのお堂から下りてきて「紬ちゃん!」と飛びついてきた真希子さんに促されるまま食卓へと連れて行かれた現時刻は午後三時を超えていて。
なんだか天音さまの所で随分とゆっくりしてきた気がするのに、思っていたより時間が経ってないのは一体どういうことなんだろう?
いつもと違ってタイトスカートとパンプスだったので下山するのにも倍近くかかってるはずなのに。
不思議だなぁ。
「ご両親にはわたしから説明するから泊まって行きなさいよ。だってね。危ないのよ?隙だらけで抵抗する手段の無い紬ちゃんみたいな美味しそうな子を狙わない妖はいないんだから」
「でも、今まで大丈夫でしたし」
「あまーい!甘いわよ!せめて身を守る術を手に入れるまでは千秋寺にいた方が絶対いいんだから!」
「でも仕事もありますし、父と母も心配すると思うんで」
「だからわたしからちゃんと説明するって言ってるじゃないの。お仕事は有給でも使って」
「いやいやいや」
今までにないほど無茶を言う真希子さんはそれでも私のことを思っての発言であることは分かるので強く出られない。
助け船を求めるべく一緒にテーブルについてカレーを爆食いしている大八さんへと顔を向けるが、こっちのやり取りなど気にもならないのか完全に無視である。
「どうしても帰るって言うのなら宗明に体中に経文を書いてもらってね。そうじゃないとわたし安心できないから」
「え!?それって耳なし芳一みたいな……」
「そうそうそれそれ」
あれって確か体中にお経を書いてもらうことで亡霊からは見えなくなると言った話だったはず。
書き忘れた耳だけ相手に見えたから切り取られたという恐ろしいシーンは子どもの頃昔話で聞いた時震えあがった覚えがある。
でもこれは亡霊には有効なのであって相手が妖だと通用するのかな?
それに普通の人には変わらず私の姿は見えているわけで。
体中にお経を書いたまま外を歩いて帰るまでの苦行と、帰ってから家族に心配されることを思うとどうにもいい案だとは思えない。
「あの、すみません。それはちょっと」
「そうよね。いくら無愛想で頭かっちかちの宗明でも男だからその前で全裸になるなんて嫌よね」
「ぜ――ぜん!?」
「あら?だって全身に経文を書かないと意味ないんだから当然でしょ」
甘かった。
まさか真希子さんに想像をはるかに超える羞恥プレイを強要されていたなんて。
それだけで脱力してしまう。
「一旦空っぽになって天音さまの所で少しチャージできたかな?くらいのレベルらしいのできっと気づかれずに生活できると思いますけど」
元々目立たずひっそりと生きてきた自覚と自負があるので、霊力が減っている今なら逆に危険は少ない気がする。
なのに真希子さんは顔を赤くして「だから危ないんじゃないのっ!」と叫んだ。
「弱っている時に付け込むのは悪者の常套手段でしょ!?それに一回溢れて空になったことで紬ちゃんの器は大きくなってるの。つまり前よりももっと霊力を蓄えられるようになったってことで――ああ!もうどうしてこういう説明をちゃんとしないのかしら!後で宗春を叱らないと」
お勤めに参加しないから真希子さんはあまり詳しくないのかと勝手に思ってたけど、やっぱり妖専用の特殊なお寺にお嫁に来るような女性だからそれなりに知識はあるだろうし経験として学んでいくんだろう。
それでもお寺の主な業務はちゃんと修行した息子である宗明さんに任せているから口出ししなかっただけで。
「ごめんなさいね。あの人が――隆宗さんがいれば紬ちゃんを不安にさせたり危険な目に合せないように導けたのに」
隆宗さんが今どこにいるか、いつ帰ってくるかも分からなくて。
左頬に手を添えて物憂げに呟く真希子さんの薬指にはキラリと輝く結婚指輪。
初めて聞く名前だけどきっと隆宗さんって人は真希子さんの旦那さま、つまりこの千秋寺の住職であり宗明さんと宗春さんのお父さまであるんだろう。
二週間以上毎日通っているけど一度もお会いしたこともないし、お寺で生活しているような気配もないからご不在なだけなのか鬼籍に入っておられるのかどちらかなのだろうとは思っていたけど。
「千秋寺みたいな妖だけに特化したところって今は少なくて。日本全国からお声がかかるのよ。滅多に帰ってこないし、連絡もほとんどないから紬ちゃんのこともまだ相談できてなくて。宗明も宗春もまだ人を指導したりできるほど人徳も経験もないからできれば隆宗さんに助言をもらいたいんだけど」
難しくて。
「だからね。紬ちゃんの今の状況の責任はわたしたちにあるの。紬ちゃんを守ることも、力の使い方や抑え方を教えることも全部」
「そんな!私が無理言ってお願いしたことなんですから、真希子さんや宗明さんや宗春さんが必要以上に責任を感じるのは違うと思います」
宗明さんは最初から引き受けられないと言っていたし、ちゃんと危険だということはおじいちゃんからも聞かされている。
それでもと頼み込んだのは私の方で、その願いを聞いて教えてくれている宗春さんに感謝することはあっても責任を取れなんて考えたこともない。
真希子さんだって美味しいご飯やお弁当を作って支えてくれているし、今だって心配してくれていて。
これ以上を望むなんてわがままだ。
「真希子さん、選んだのは私です。真希子さんから見たら私はとっても危なっかしく見えると思います。いろんな覚悟もきっと足りてないし、目の前のことしかまだ見えてないけど」
後悔はない。
「おじいちゃんは素敵な贈り物をしてくれました。不思議を信じる心。相手を尊重し敬う心。こうして頼りになる人たちと出会わせてくれて」
きっとこうなる運命だった――そう言ってくれたのは千秋寺で再会したおじいちゃんだ。
「少しずつ色んな繋がりを作って私なりに彼らとの付き合い方を学んでいきたいんです。おじいちゃんがそうやって生きてきたように、私は私のやり方を見つけていきたい」
そのためには宗春さんや宗明さん、それに真希子さんや大八さんの力が必要だ。
天音さまだって色々と考えてくれているようだったし。
私はひとりじゃない。
その安心感は本当に心強くて、だからきっと私はみんなに危機感が無いと心配されちゃうんだろうけど。
「感謝してるんです。みなさんに。だって私、教えてもらっている立場なのになんのお返しもできてないんです。ご飯だってご馳走になってばっかりだし」
貴重な時間を割いて利にも得にもならない私に付き合ってくれる千秋寺の人たちがこれ以上の責任を感じる必要は無い気がする。
「もしそれでも責任があるというのなら私を甘やかすのではなく厳しく接してください。危険だって言われても理解も想像もできてないものを危険だって自覚するのは難しいんです。なにせ私の周りにいる妖さんはみなさん優しいので」
「だからって死ぬかもしれないのに飢えた妖の前に紬を差し出すことはできないだろ」
不貞腐れたように吐き出してスプーンを置き冷めた緑茶を飲んでいる大八さんは私の中で優しい妖の代表だ。
「宗春さんはやりましたよ。そのお蔭で芙美さんとお別れすることになっちゃったし、随分と刺激的な経験をしたけど」
あの時生体エネルギーを全部吸い取られて死んでいてもおかしくは無かったと後から聞いたし、それなら最初から説明しておいて欲しいとは思ったけど。
きっと私は弱って消えそうなお姉さんを見ていたら危険だと教えられていても同じことをしたはずだ。
ならば身をもって経験しなさいと思ったのか、ただどっちに転んでも面白そうだと思ったのか分からないけど宗春さんは方法を教えあとは私に委ねてくれた。
それが信頼だったとは思ってないけど、宗春さんが与えた試験みたいなものに合格したのかな?という感覚はあったから。
多分そのことがあったから宗明さんも私に対して少し態度が柔らかくなったんだろうし。
「私はきっと自分で経験しないと理解できないと思うんです」
「経験して学んでも何度も同じ過ちを繰り返すタイプだけどね。紬は」
「宗春!もうあなたはまたそんなことを言って」
本当のことを言ったまでだけど、と肩を竦めて宗春さんは真希子さんのお小言を受け流す。
分厚くてちょっとごつごつした湯呑を乗せたお盆を持ったまま入ってきた宗春さんが私の横へやって来るとすっと畳に膝を着いて腰を下ろした。
「はい」
「え?」
私の前のカレーライスを退けられて宗春さんが持ってきた湯呑が置かれるとそこから湯気と共に甘い香りが漂ってきた。
そっとのぞき込めば白くてとろみのある液体が入っている。
「甘酒……?」
「食欲ないみたいだから持ってきた。いらないなら僕がもらうけど?」
「いいえ!ありがたくいただきます!」
確かに油とカレーのスパイスの匂いが胸を悪くして、ちょっと疲れている私は珍しいことになかなか食が進んでいなかったけど。
まさかこの場にいなかった宗春さんがそれに気づき更に気を使って甘酒を持ってきてくれるなんて、とちょっとした驚きと感動で固まっていると取り上げられそうになり慌てて湯呑を両手で包んで口を着けた。
「――――うっ、あっち!!」
普通こんなに熱くするか!?とツッコミたかったけど今はそれどころじゃない。
非常に楽しげに笑う宗春さんの頭を真希子さんが遠慮なしに叩いて怒り、大八さんが水の入ったコップを差し出してくれる。
「ちゃんと確認して飲まない方が悪い」
「……ええ、そうですね」
宗春さんはなにも悪くありませんとも。
全ては油断をしている私が悪い。
「大丈夫かどうかまずは疑ってかかる。湯呑が厚いってことは中身が熱いかもしれないと想像する。とろみがあるものは熱が冷めにくいという常識もふまえて警戒すること。
普通は顔に近づけた時に当たる湯気の温度で分かるものだけど、紬はちょっとどころか抜けている上に焦ってしまうとまず逃げるより当たって砕けろになってしまうのは自覚ある?」
「はい、ごもっともです。その通りです」
「自覚があるのに改めないのはただの怠惰だよね」
「うっ」
「まずはその愚かな欠点の改善に努める」
「はい」
素直に頷いた私を見た後で宗春さんは真希子さんを振り返り「紬が望んでいるんだから厳しく接すること」と冷たい笑顔で言い渡した。
真希子さんがこの世の終わりだと言わんばかりに嘆いた後で「我が子なら恐ろしい子」と吐き捨てて立ち上がる。
「紬ちゃんにもしものことがあったらわたしはあなたを許さないから覚えておいて」
「ええ。どうぞ」
いつもの優しさを消して真希子さんは息子である宗春さんを強い眼差しで睨んで釘を刺して部屋を出て行き、当の宗春さんはいつも通りの薄ら寒い微笑みで真希子さんが姿を消した障子を眺めていた。
★ ★ ★
駅を出て家へと帰りながらまず事務所へと電話をすると真琴さんが出て「どうだった?大丈夫なの?」と聞いてくるのでたいしたことは無かったので明日は出勤しますと返した。
大事をとって休みなさいと強く勧められたけど、下手に休むとお母さんが心配するし病気でもないのに休むのも申し訳ないので「大丈夫です。出勤します」とごり押しして通した。
その後で高橋先輩にメールで「少し休んだら良くなったので明日出勤します。心配かけてすみませんでした」と送っておいた。
「ただいま」
玄関を開けるとお母さんがいつものように「おかえり」と台所から顔を出す。
寒い季節によく嗅ぐ匂いが漂ってきてグウッとお腹が鳴いた。
お昼ご飯はちょっと食べれなかったけど随分と調子は戻ってきているみたいだ。
「今日の夜はおでん?」
「そう」
おでんは具材が多く煮込んで味を染み込ませないといけないから私が手伝えるほどの仕事は残っていない。
残念だけど食べるのは楽しみなので、結とお父さんが帰って来るまで居間でテレビでも見て待っていよう。
着替えてくると言い置いて階段へと向かうと「あ!そういえば」と母の声が追いかけて来た。
「回覧板で回ってきたんだけど最近猿が出るらしくて外に出る時は気を付けるようにって。鍵かかってなかったら窓開けて中まで入って来るらしいからしっかり鍵閉めといてね!」
どうでもいいような内容に私は「んー」と曖昧に返事をしながら階段を駆け上った。