まずはご挨拶から
濡れた石の上はとにかく歩きにくい。
滑らないように慎重に進んでいるのだが彼はまったくこちらを気遣いもせずにどんどんと先へと進んでいく。
相変わらず左手には禍々しいものを下げている。
一体どこまで持って行くのかとこっちが冷や冷やしてしまう。
しかも恐らく腸だと思われる細長いものがずるずると石の上を這っていて、赤黒い血痕がその跡を残してまるでホラー映画だ。
よく見ると膝の辺りやズボンの裾、そして白いセーターの袖口も嫌な色に染まっていて思わず身震いをしてしまう。
やだ、怖い。
あんなににこにこと感じよく笑う人なのに、平気で犬のお腹を割いたり、引きずって歩いたりする男なのだ。
そう思うと純粋に怖い。
もしかしたら次は私が――――。
「おう、お客さんか?」
恐ろしい想像の途中で新たに聞こえた野太い声に文字通り飛び上がって「ごめんなさいっ」と思わず背を向けて走り出したのは不可抗力だ。
「おいおい。ちょっと待ちな。この寺に用があるんだろうが?このまま逃げ帰ってどうするつもりだ」
「ふぎゃっ!?」
一メートルも走りきる前に勢いよく弾力のある壁にぶつかる。
顔からぶつかった挙句にちょっと硬いそれに弾き飛ばされてよろめく。
「ほわたぁっ!?」
嘘でしょ!?
朝露でしっとりと濡れた石畳の上でバランスを崩せばどうなるかは子どもにだって分かる。
激しく尻もちをつく覚悟を決めて目を閉じギュッと奥歯を噛みしめた。
「なにしてんの?騒々しい」
だが誰かが背中をふわりと支えてくれた。
その誰かなんて声を聞けば分かる。
恐る恐る薄目を開けて確かめると、覗き込んでくる冷めた瞳。
サラサラの綺麗な黒髪が秋風に揺れていて眩しい。
「う、あ、すみませんでした……騒々しくて」
「折角の爽やかな朝の空気が台無し」
「ああ……面目ないですぅ」
小さくなりながらも足の裏で地面を確かめながら自力で立とうと身を離す。
それからズレていた眼鏡の位置を戻して「ありがとうございます」とお礼を言おうと向き合った所で血の気が失せた。
だって、だって。
この人。
ちょっと、待って。
ゆっくりと右手を背中へと動かす。
確認するのはすごく怖いし、触るのだって嫌だけど。
でも。
確かめなきゃ。
「あ、おい。待った方が!」
私が何をしようとしているのか気づいたのだろう。
大きな声の人が止めようとする。
ああ。
間違いない。
こいつ。
「いやぁああああ!!??」
犬を持ってた方の手で支えやがった――!!
★ ★ ★
「大丈夫か?散々だったな」
座卓を挟んだ向こう側から大八さんが温かい緑茶の入った湯呑を置いてくれた。
散々泣き叫んでその場でブラウスを脱ごうとした私を必死で宥めて止めてくれたのもこの大八さんだった。
腹立たしいことに私を恐慌状態へと陥れた彼――宗春さんというらしい――はただ薄ら寒く微笑んだまま見物していたんだけど。
宗春さんは自室へと着替えに行った。
犬の死骸は玄関脇にぽいっと放り投げて。
大八さんはまるで格闘家のような筋肉と大きな体をしていて、短く刈り上げられた茶色の髪と同じ色の無精髭を蓄えて申し訳なさそうに苦笑いしている。
四十代だと思うけどすごく若々しくて、素晴らしい肉体をお持ちだ。
首に長い数珠を二重にしてかけていたから、そうは見えないけど彼もお坊さんなのかもしれない。
でも半袖のTシャツの袖をまくって逞しい上腕を剥き出しにしてるけど、寒くないのかな?
逃げ帰ろうとした私がぶつかったのも彼の素敵な腹筋で、その見事な鋼のような筋肉に弾き飛ばされて転びそうになったのだから少しくらいは反省してもらってもいいかもしれない。
いや勝手に怯えて帰ろうとした私にも責任はあるけど……。
借り物の白いブラウスと灰色のカーディガンからは他人の匂いがする。
落ち着かないけれど座布団の上に座り直し「いただきます」と断ってから湯呑を両手で持ち上げた。
「あいつほんとに無礼だからな」
ええとっても。
同意したかったけど宗春さんがどこで聞いているか分からないから黙ってお茶を啜る。
私が通されたのはお寺の本堂ではなく寺務所の奥にある和室だった。
野花が飾られた小さな床の間以外は全部障子で囲まれていて、どことなく誰かに見られているようで気が抜けない感じがする。
お日さまの光りが入ってきて明るいのに、どこか寂しいというか、暗いというか。
「じゃあ、おれは仕事に戻る。すぐに“しゅうめい”が来るから、ちょっと待っといてくれや」
「あ、はい」
よっこらせっと立ち上がった大八さんが障子を開けて出て行く。
閉める瞬間にニカッといたずら小僧みたいな笑顔で手を振るので右手を上げて応えておいた。
しかし“しゅうめい”さんとはどんな人だろうか。
千秋寺の住職さんだろうか?
宗春さんはここの息子さんだって言ってたから、もしかしたら彼のお父さんなのかもしれない。
………………。
どうしよう。
彼みたいに意地悪な人だったら――!?
私、お坊さんってもっとストイックで一般人には親切なイメージがあったのに。
宗春さんを見た後ではそれがどんなに真実からかけ離れた幻想だったのか、それはもう痛いほど実感している。
もっと輪をかけて嫌な人だったらどうしたらいい?
もっと残酷な人だったら私、耐えられない。
逃げ出したいけど、シャツとカーディガンをお借りしてしまった。
後日返しに来なくちゃいけないことを考えれば逃げるなんてできない。
どうしよう。
どうしよう!?
「失礼します」
迷っているうちにどうやら“しゅうめい”さんが来てしまったらしい。
澄んだ凛とした声が大八さんが出て行った障子の向こうから聞こえた。
浮かび上がったシルエットはほっそりとしている。
声も若いから、もしかしたら宗春さんのお父さんではないのかもしれない。
「は、はい」
中々入ってこないことに気づいて慌てて返事をすると、音も無く障子が開いて“しゅうめい”さんがすっと入ってくる。
お坊さんだから坊主頭なんだけれど、とても形がいいからと恐ろしくよく似合っていた。
すっと切れ上がった目尻は宗春さんと同じく涼しげで、文句なしに美しいと言ってもいいくらいの顔立ちをしている。
それなのに。
とんでもなく無表情で、柔和な笑顔の宗春さんと比べると恐ろしく冷たい。
年の頃は多分二十代後半で若いんだと思うけど、なんというか非常に取っつき難い雰囲気をしていらっしゃる。
お坊さんのイメージがガラガラと崩れていく。
いや。
きっとここのお坊さんが特殊なんだと思う。
世の中のお坊さんはきっとみんな穏やかで話し上手な素敵な方に違いない。
湯呑を持ったまま固まっている私のことなど目もくれず“しゅうめい”さんは衣擦れのささやかな音だけさせて一枚板の座卓をぐるりと回りこみ用意されていたもう一つの座布団の上に腰を下ろした。
私の向かい側。
動きも息も止めている私をじっくりと眺めた後で小さく息を吐いた。
そして黒い僧衣の袖の中から一枚の名刺を出してすいっと私の目の前へと差し出す。
湯呑を茶卓へ戻してそれを受け取る。
“久世宗明”という文字を見てようやくすとんと彼の名前が私の中で落ちた。
そうか。
“しゅうめい”ってこう書くんだ。
厳しく冷たい空気の彼の名前に“明”という漢字が当てられているのがなんだか妙に似合っている気がして指先で文字を撫でた。
宗明さんが眉を寄せたのに気づいて「そうだった」と自分の名刺も鞄から取り出して「どうぞ」と突き出した――が、自分の名前が自分の方を向いていることに動転してあわあわと持ち替えていると座卓から身を乗り出した私のお腹に湯呑が当たったらしく。
ガチャン――――。
「ああ、すみません!ごめんなさい!」
卓上に見事広がったお茶の水たまり。
折角大八さんが淹れてくれたのに、殆ど飲まないまま零してしまった。
泣きそうになりながら名刺を宗明さんの前に置き、鞄の中からハンドタオルを引っ張り出してこれ以上被害が出ないようにと押さえつける。
見かねたのか宗明さんが転がったままの湯呑を茶卓に戻してくれ、あろうことか「淹れ直してきます」と立ち上がったのでその手を必死になって掴んで止めた。
「いいですっ。大丈夫です。お願いですから座ってください。私はお茶を飲みに来たのではなく、相談をっ、ええ、そうですよ。大切な相談をしに来たんですからっ!」
迷っているのか。
それとも考えているのか。
宗明さんはじっと湯呑を見つめた後で「そうですか、では」と諦めたように正座に戻る。
そうだ。
私はここへ悩みを聞いてもらいに来たのだから。
改めて姿勢を正し、私は大きく息を吸った。
まずは挨拶だ。
そうだ、そうだ。
自己紹介。
「私、小宮山紬と申します。実は折り入って相談したいことがあって参りました」
膝の上の両手をギュッと握り締め、私は一旦視線を落とした後でゆっくりと宗明さんへと目を上げる。
眼鏡のフレームの向こうで彼がはっと息を飲んだけど、なにに驚いたかなんて分かるはずがない。
だから構わずに続けた。
私の最近の悩み事を。
ヒーロー候補二人目が出てきました。
そしてようやく名前も。
意地悪だけど愛想のいい宗春か、無表情で凛々しい宗明どちらがいい男でしょうか。
もちろん大八だって中年だけどいい男です。
まだまだ出てくるので、あなたのお気入りが見つかるようにと祈っております。