まさか そんな過去が
お堂の外に並べられていたパンプスを見て私はようやく自分が私服ではなく会社の制服姿のままなのに気づいて焦る。
激しく動揺した所で今更遅いんだけど、これ無かったことにはできませんかね?
いや、無理だとは分かっているんだけどもしかしたら眼鏡の力で記憶を改ざんするとかいう特殊能力があったりしませんよね。
「うう……」
よろよろと引き戸に寄り掛かり項垂れていると先に外へと出ていた大八さんが不思議そうな顔で見上げてくる。
「どうした?」
「できることなら大八さんの記憶を綺麗さっぱり消してしまいたいと思ってました」
「なんじゃそりゃ」
なんの憂いも無く楽しそうに笑い声を上げる大八さんが恨めしい。
「いいですよね。大八さんは背も高いし鍛えられた肉体美は素晴らしいし……コンプレックスなんて感じたことない日々を送ってるんですから」
ああ、できることなら着替えたい。
今すぐに。
高橋先輩は細いから余裕があるけど私の逞しい太腿ではタイトスカートはぴったりとして見っともないし、立ったり座ったりすると裾が上がって膝は丸見え、気を抜いたら腿の半分くらいまで見えちゃうのでいつも気にしてなきゃならない。
なのに私今の今まで制服だったことを忘れてしまっていたので、大八さんや宗春さんの前で――この際天音さまは女性なので気にしないことにする――このむちむちの太腿を恥ずかしげもなく晒していたということで。
「うう、えっぐ……お願いだから忘れてくださいっ!」
それだけならまだしも肉付きのいいお尻の形は隠しようもないし、Lサイズなのに制服のベストは小さくてぱっつんぱっつんでお腹がポッコリ出ているのが分かっちゃうし見世物としては面白いんだろうけど私の精神は既に虫の息だ。
「コンプレックスねぇ」
耳の後ろを掻きながら大八さんがしげしげと私のことを見るので「ひぃ!やめて!見ないで」と戸の後ろに隠れて叫ぶ。
天音さまが奇妙な動きをする私を肴にして日本酒を楽しんでいるのがチラチラしているけどやっぱりここも気にしないことにする。
「隠れた所でもう見ちまった後だし。紬を見つけてここまで連れてきたのもおれだしな」
「消して!今すぐ消して!ほんとやだっ」
倒れている所を見つけて助けてくれたのはありがたいけど、私どんな格好で倒れてたのかとか考え始めたらもう死んだ方がましだとしか思えない。
今日どんなパンツ穿いてたか――なんてことまで必死で思い出して本気で泣けてきた。
そもそも勝負パンツとか勝負する相手がいないから持ってもないし、穿ければいいやくらいでちょっとチープなデザインのパンツばかりレジに持って行く自分を今なら全力で止めてやるのに。
今度からはちゃんとしたパンツ買おう。
うう。
「私もう少しここにいるので大八さんは先に戻っててください」
とてもじゃないけど顔を合わせられない。
一緒に仲良く山を下りるとかそんな気分にはなれません。
大八さんはなにも悪くない。
悪いのは私。
年頃の女だという自覚が無かった私が悪いんです。
「あのな、紬」
「ほわぁあたぁあ!?」
いきなり戸の向こうから顔を覗かせた大八さんに驚いてひっくり返り尻もちをついた。
女子力の欠片も無い私の意識はもちろん咄嗟に膝を閉じるということを考えられず、ずり上がったスカートの向こうは全くのノーマーク。
「ひぃいいい!?おめ、お目汚しをっ!」
「面白いのぉ。紬」
恥の上塗りを続ける私はどうやらすごく天音さまにはいい出し物にしか見えないのだろう。
膝を打って笑い転げている。
「もう、もう……やだっ」
上半身を床の上に投げ出してさめざめと泣く私を哀れと思ったのか。
大八さんはまたわしわしと頭を撫でて「目汚しとかとんでもねえ。良いもん見させてもらったわ」と慰めてくれた。
「紬はこんなおっさんに見られんのは嫌だろうけどな」
「ちがっ……」
「なんだ?見られたかったんなら逆に恥ずかしがる必要ないだろ?」
堂々としてろとか妙なこと言い出すから私はいつまでも恥ずかしがってもいられずに顔を上げて眉を吊り上げた。
「もー!それも違う。大八さんはおじさんじゃないです」
「どっからどう見てもおっさんにしか見えんはずだけどな?」
「潤い皆無の枯れ果てたおっさんよな」
自分のおっさん発言を天音さまが同意したことは納得いかないのか軽く睨みつけた後で困ったような表情を私へと向ける。
「なにをコンプレックスに思ってるのか分かんねぇけど、おれから見れば紬は良い体してるしあんまり無防備だとあわよくばと思わなくもない」
「は!?えっ、それは――」
なんとお答えしたらいいのか。
落ち込んでいる私を励ましてくれようと思っての発言なら過剰な反応をするのはよろしくないし、もし本気でそう言っているのだとしたら少し――いやかなり引く。
それに子どもを授かるためにそういう行為をする人と違って親がいなくても生まれてくる妖にそもそも性的な欲求があるのかどうか分からない。
私の困惑を感じ取ったのか大八さんは腕を組んで考えながら口を開く。
「妖ってのは元々理性ってのが強くない生き物でな。簡単に言うなら欲望に忠実っつうか」
「で、でも大八さんは宗春さんよりよっぽど理性も常識もあるじゃないですか」
「そりゃおれだって伊達に長く生きちゃいない。己の欲求を抑えられるだけの理性を鍛えてきてるからな。宗春なんてガキと比べられちゃたまらん」
妖よりも自分の感情を抑えられないって宗春さんそれってどうなの?
でもきっと望んでそれをしないのだと彼なら答えそうだ。
「生まれて間もない妖は人の血肉を欲して安易に生き物を殺し、その愉しさに酔い己の力を過信する。そしてほどなく己の魔の性に抗えず知性と道を失ってしまうことが多い」
それは生まれたばかりの妖を導いてくれる者がいないからで。
コン汰さんや銀次さんみたいに両親が傍にいてくれたり、仲間が近くにいてくれる妖は人と上手く交わることができるように自然と育っていくらしいけど。
「大八さんは?大八さんは、どうだったの?独りだった?」
宗春さんから妖が生まれて来る時のことを教えてもらってからずっと聞きたかった話。
大八さんはちょっと目を丸くした後で小さく笑った。
いつも怒ったり笑ったりはっきりしている大八さんらしくない笑い方。
「不便だったが悪くなかった」
独りで生きることは自由かもしれない。
なににも縛られず、自分だけの力で生きていくだけの力が備わっているのなら。
「おれは火車って呼ばれてる妖だ。知ってるか?」
「……ごめんなさい」
「そうか。割とメジャーなんだけどな。紬はもう少し妖について勉強した方が良いな。知らないままだと危ないから」
確かに知っていた方が良いかもしれない。
仲良くするにも警戒するにも。
勉強不足を反省しながら頷いた私の頭の上に大八さんが手を乗せて「まあ、知らないからおれなんかを受け入れちまうんだろうけどな」と苦笑い。
その後でさっと退けられてしまったけど大きくて温かいものは消えずに残っている。
「おれが生まれた頃は大飢饉とかであちこち死体が転がってるような状態だったからな。食うものには困らなかったわけだ」
「え?人が飢えて死んでるのに大八さんは平気だったの?」
「火車ってのは死体を食う妖だからな。まあ痩せ細ってたから食い応えは無かったけど」
「死体を、食べる……?」
大八さんが肋骨の浮いた死体の腕にかぶりつく姿を想像してみたけど、上手くできなくて首を横に振った。
「お蔭で人を殺して食わなくても済んだから気色悪い愉悦で我を失うことは無かったし随分成長が速くて助かったから生まれた時代におれは感謝してんだ。そん時は役人に頼まれて死体を集める仕事をしてるって言えば怪しまれないし逆に片付ける手間が省けるって感謝されてな」
大八さんは嫌われても仕方がないと思っているからか私の方を見ようともしないけど。
悍ましい話を聞かされているはずのに全然嫌悪が湧いてこないのは大八さんにすっかり情が移ってしまってるからなのか。
「今の時代に生まれてたら大変だっただろうな。死んだら火葬されちまうわ、昔みたいにそこら辺に行き倒れるような奴もいないし」
なんだか不思議な話だ。
時代が違えば大八さんはいっぱい人に憎まれて恐れられる妖で、もしかしたら正気を失って悪い妖になっていたかもしれない。
こんな風に明るく笑って、私のことを心配してくれる大八さんはいなかったかもしれないのだ。
「――よかった」
「紬?」
「大八さんがいつも励ましてくれたり、心配してくれるから千秋寺に来るのが辛くないんだよ。だって宗春さんは物騒だし宗明さんは無愛想だし。真希子さんは優しいけどお寺のお勤めには参加しないでしょ?どれだけ大八さんが救いになってるか」
もちろん大八さんがいなかったとしても共存して生きていくという夢を叶えるためにも千秋寺には通い続けただろうし、宗春さんの意味が分からない行動に振り回されるのも甘んじて受け入れただろうけど。
「朝“おはよう”とか“気を付けて行ってこいよ”って言ってもらって会社に行くの実は私の楽しみになってるんですよ?」
何気ない一言が力になる。
それを実感させてくれているのは大八さんだと思う。
「ねえ、大八さん。今はその、死体……を食べなくても大丈夫なんですか?」
生きていくためには食べなくてはいけないのは人も同じだ。
私たちだって生き物を殺して食べているのだから大八さんだけを責めたり気持ち悪がってはいけない。
いけないけど。
大八さんが血を滴らせた死体をむしゃむしゃ食べている姿はできれば見たくない。
せめて調理――いや、でも死体に手を加えるという行為もなんだかあれだなぁ。
ううぅうん、悩ましい。
一人で悶々と唸っていると大八さんが「はっ」と息を吐き出して笑い出した。
「え?」
「ははっ、いやな。独りで生きるよりやっぱ誰かと一緒にいるほうがいいもんだなと思ってな」
「大八さん」
それは私が聞きたかった言葉でもあった。
私が望む共存への道しるべ。
そして。
誰かを好きだと思う純粋な思いを支える為に一歩踏み出す勇気に。
「心配してくれてありがとな。今でも食べたい欲求は絶えずあるが、無尽蔵に欲するのは生まれてあらかた成長するまでの時期だけだ。だから」
心配はいらないと笑う大八さんの笑顔は澄んでいて。
彼は本当に妖なんだろうかと思ってしまう。
「大八さんは人と妖が結ばれること……どう思う?」
たくさんの障害があることを教えられても。
誰かと共に過ごすことは居心地が良くて、与えられる優しさも温もりも人でも妖でも変わらなくて。
「あー……おれは戸籍が無いから人と結婚なんかできないが、コン汰や銀次なら問題なく一緒になれはするだろうが」
好き好んで困難をしょい込む妖は少ないだろう。
「ただ共に生きる道を選べる奴は幸せだ。紬みたいにおれたちみたいな存在を丸ごと受け入れようって人間は少ない」
「それは他の人には見えないし、よく知らないからで」
「紬だってよく分かってないだろ?」
「うぐっ」
大八さんの正体である妖の名前を聞いてもどんな妖かも分からなかったから言い返せない。
それでもおじいちゃんを見てきたから不思議なことに他の人よりは免疫と言うか受け入れる態勢はできていたと思う。
「紬はもっと自覚を持ってくれ。じゃないといつか本当に襲われちまう」
心底心配だと眉尻を下げて見つめてくる大八さんには返す言葉がない。
自己防衛するためにはまずたくさんいる妖についての特徴や名前を勉強することと、お札とお守りを肌身離さず持ち歩くことくらいで。
更に今は授かった力の制御の仕方も覚えなきゃならないし。
「……できるかなぁ」
私は器用でもないし要領も悪い。
一度にたくさんのことができないから「大丈夫、任せて!」なんて嘘でも言えない。
ついつい出てしまった弱音に龍の化身である天音さまは嫣然と微笑んで
「手っ取り早く守護者を見つければよいのじゃ」
なんてのたまった。
「守護者……ってなんですか?」
「そうさの。守護霊ならぬ守護妖怪とでもいうか?」
「守護妖怪???」
守護霊って憑いている人を悪いことから守るってあれだよね?
それの妖怪版ってことかな?
事もなげに口にした天音さまの提案を大八さんが顔を顰めて反対した。
「見返り無く守護する妖なんかいないぞ。しかもそうそう都合よく」
「候補はおるぞ」
なにかを含んだように天音さまは流し目を大八さんへと向ける。
更に大八さんは苦い顔をして首を振った。
「おれは宗明に囚われてるし、そもそも気配を隠すことは得意でも姿を消すことはできない」
「たわけ!お前ではないわ。紬に欲情するような妖を始終傍におくわけにいくか」
「ああ、それもそうだな」
いや。
大八さんそこは否定するなり、誤魔化すなりしてください。
どんな顔をしていいか分からなくなるので。
「妖と人の共生を望む稀有な存在である紬の守護を任せるのじゃ。どんな穢れた妖よりも強く、神性に優れた妖でなければならん」
「えっと……妖なのに神なんですか?」
「古来より自然の中に神を見出し崇め、大切にされた物に魂が宿ると信じてきた日本では神と妖は紙一重。人の中にも善と悪の心があるように、妖にも魔性と神性が備わっておる。その性質故容易く闇へと落ちる者も多いが」
「龍だって元は妖だ。その荒ぶる力を畏れ鎮める為に神として祀られてんだからな」
「あ、なるほど」
陥れられて左遷されたまま汚名を雪げずに亡くなった菅原道真が怨霊となって人々を畏れさせ天神として奉じられた――という有名な話と同じ。
人でも神として崇められることがあるのだとしたら、妖のように奇跡を起こせる力があれば神になることはおかしなことじゃない。
それをより自然なことなだと思えるのは私が日本人だからなのか。
「あちらは紬のことを悪しからず思っておるようじゃからな。紬さえよければ否やは言わぬだろうが」
「え?その候補の方は私のことを知ってるんですか?」
「おや?お主も会っておろう?というよりも見知っていると言った方が良いかの?」
「へ?私の知ってる妖は大八さんとコン汰さんと銀次さん、それから――」
いつ現れるか分からない神出鬼没の茜と露草。
もしかして候補って彼らのこと?
確かに約束がどうとかって言ってたけど。
「時々来る小鬼のことですか?」
「小鬼などと一緒にすればあれは怒り狂おうなぁ」
口元に寄せた杯の向こうで微苦笑し天音さまはほうっと息を吐く。
違う?
なら私には全く心当たりが無いんだけど。
「よい。そのうちお主の元へ行くように言づけておこう」
「はあ……?」
「おい紬。そろそろ行くぞ。腹が減った」
要領を得ない返事をする私の腕を引いて大八さんが立たせてくれる。
そして私の介抱やら世話を焼いていてお昼ご飯を食べそこなっているのだと訴えられたらそれ以上わがまま言うこともできず。
天音さまの前を辞することになった。
ただちっとも寂しがり屋でも嫉妬深くもない、親切で楽しげに笑う天音さまの印象が私の中ですっかりといい方へと変わってしまったのは言うまでもない。




