夕暮れと早朝にて
目の前の板ホワイトチョコがこの際割れてもいいと拳を振り上げて「亜紗美さーん」と名前を呼びながら叩き続ける。
明日から始まる一週間のためにと早々にお客さんたちは帰ってしまったらしく、商店街はシンッと静まっていた。
そんな中で私の泣き叫ぶ声は空しく響き、ちょっと正気を失っているとしか思えない若い女に声をかけてくれる親切な人なんていないんだ!と悲観し始めた頃。
「どうしました?」
視界が翳っていかにも心配そうな声をかけられた。
微かに香る出汁とお醤油の匂い。
いなりの皮からジュワッと染み出る甘辛い味が舌の上に蘇り、口の中でほろほろっと優しく解ける米と爽やかな酢が鼻孔に抜けて――ほのかな香りがしただけでリアルに思い描けるのはそれだけ彼が作るいなりずしが私の中で革命を起こしてしまったからだ。
「うううぅ……コン汰さん」
「え?あ、昨日銀次に会いに来てくださった――」
一生懸命思い出そうとしてくれているようだけど、名乗りもしないままだったので覚えているはずがない。
むしろ亜紗美さんが私の名前をちゃんと覚えていたことが凄いのだ。
「私……小宮山紬と申します」
叩きすぎて感覚を失った手を下ろし、塩をかけられた菜っ葉のように萎れながら名を告げる。
コン汰さんは「あ、銀次の兄の狩野孝汰です」と細い目を更に細くしてぺこりと頭を下げた。
なるほど。
孝汰でコン汰。
誰がつけたあだ名か分からないけど、妖狐だからという本質を踏まえたなんとも絶妙なニックネームではあるけれど。
それで正体がばれたりとかしないのかなぁ。
ばれるまではいかなくても勘付かれるとか……。
「あの、それで……小宮山さん。亜紗美さんにご用事なんですか?」
名前を聞いた後で何故か遠い目をしている私を不思議そうな顔でコン汰さんが遠慮がちに聞いてきた。
おっといけない。
ここで現実逃避している場合ではなかった。
「あ!そうなんです!実は中に鞄と洋服を忘れてしまって」
「鞄と洋服……ですか?」
「財布も携帯も入っているので、それがないと帰れなくて」
「ああ、それは大変ですね」
最初はどうして鞄と服を忘れるような状況になるのかと困惑顔だったが、財布も携帯もないという非常事態を訴えると途端に顔を引き締めて同情してくれた。
「おれが亜紗美さんに電話してみましょう」
「……お願いします」
細いジーンズの後ろポケットからスマホを取出し、なにやらサラサラっと指を動かして耳元に当てる。
ここで亜紗美さんが出てくれれば話は簡単なんだけど、だんだんと眉を下げて色を失っていくコン汰さんを見ていれば自ずと結果は分かろうもので。
「すみません」
しゅんっと項垂れたコン汰さんの頭の上に三角の耳が倒れているのが映り、ああやっぱり彼は妖なのだと実感する。
勿論直ぐに顔を上げたので確かに見えていた耳も綺麗に消えてしまった。
残念、可愛かったのに。
「どうしましょう?」
困惑気味に向けられる視線に「どうしましょう?」と同じ言葉を途方に暮れて返すとコン汰さんは「仕方ないですね」と微笑みエプロンのポケットから剥き出しのお札を取り出すと私の手を取ってそっと握らせた。
「困った時はお互い様です」
「え?いや、これはちょっと、困りますっ」
いくらなんでも弟の知り合いというだけの情報しかない女にお金を貸すだなんて、どれだけ優しいの!?
「お貸しするだけですから」
「いやいやいや!コン汰さんこんな素性の分からない人間に簡単にお金を渡したらいけませんよ!私が詐欺師だったらどうするんですか!?」
「あはは。大丈夫です。銀次の知り合いというだけで十分ですよ」
「ええっ!?十分なわけないでしょうがっ!いいです、ほんと」
ここでコン汰さんの優しさに甘えてはいけない気がして必死にお金をポケットに捻じ込んで戻そうとすると、「小宮山さん、お、落ち着いて!」と焦った声を上げながらコン汰さんが抵抗する。
軽い揉みあいになるけど長い指や薄い掌、手首の骨がくっきり分かるほど細いのにやっぱりコン汰さんは男の人で。
あっさりと両手を抑えられて動きを封じられてしまった。
悔しい。
「こ、小宮山さん」
はあはあと肩で息をしながら目元を薄らと赤く染めてコン汰さんが後生ですからと懇願してきた。
大人しくお金を受け取って欲しいとその眼差しが言っているが素直に応じられずに首を左右に振る。
「だめですっ」
「別に返してもらえなくても構わないんですが、小宮山さんは人の好意を踏みにじって喜ぶような方ではないでしょう?」
なのでどうか、そう言ってにこりと微笑むコン汰さんは本当に善良で。
いっそ人よりも良い妖なんじゃないかと激しく胸が痛む。
返してもらえなくても気にしないってどんだけ!?
「もちろん借りたらちゃんと返します、でも」
なにが原因かは分からないけれど誤解してしまっている亜紗美さんの手前、ここでコン汰さんの優しさに甘えてはいけない気がする。
それだけはダメだと頭の端っこで誰かが警告を発しているから。
「お気持ちだけいただいておきます!」
きっぱりはっきりと断るとコン汰さんが腕から力を抜いてようやく自由になる。
そのままエプロンのポケットにお金を入れてから頭を下げた。
「でも……どうやって帰るおつもりですか?」
「あ―……千秋寺に行って真希子さんにでもお借りして帰ります」
他に頼れる相手がいないので恥を忍んでお願いするしかない。
乾いた声で笑い照れ隠しのように頭を掻いているとコン汰さんが細い瞳を見開いて鋭い眼差しで探る様に私を見る。
「千秋寺?小宮山さん……千秋寺とは一体どういったご関係で?」
どこか警戒心たっぷりのコン汰さんの変わりように首を傾げながら「はあ」と相槌を打ちどう説明しようかと迷いつつ近づきすぎていた距離を何気なく一歩下がった。
のに。
その距離をコン汰さんがぐいっと詰めてしまい、目の前に赤い壁が迫ってきた。
え?一体どういうこと?
なんかコン汰さんが怒っている――というか、怖いんですけど。
太陽はとっくにビルの向こうへと落ちてしまったようで、商店街の中の街灯がぽつりぽつりと灯り始める。
消防団の詰め所の近くは煌々と明るくてそれを背に建っているコン汰さんの表情は陰になって見えない。
「こ、コン汰さん?」
「――――ああ、なるほど。微かですが」
匂いがする。
スンッと鼻で空気を吸ってコン汰さんは笑ったようだった。
「また、」
匂い?
なんで?
自分には解らない匂いがコン汰さんや銀次さんには匂うのか。
良い匂いがそのまま互いに良い意味のものではなく、片方にとっては非常に恐ろしく悪い意味を伴っているのだとしたら。
「やっ!お願い、食べないで!私は全然おいしくないですっ!体には脂肪がたくさんついてるし、ええと、ダサいし地味だし、鈍臭いし、父が愛煙家なので肺は黒いですし、もしかしたら水虫も伝染ってるかもしれないですから」
あまりの恐怖に錯乱してお父さんが水虫であることを暴露して――いぼ痔であることまで口走らなくてよかった――頼み込む。
両手を合わせて擦り合わせながら涙目で見上げるとコン汰さんはブッと勢いよく吹き出した後で「あははは、あっは!やめ、あはは、っぐ、うえっげほっ、はは!うはははは」と腹を抱えて笑い転げた。
ひいひい言いながらもなかなか笑い止まないコン汰さんを見下ろして成す術もないまま固まるしかない。
「す、すみませ……ぐふ、ああ……はあはあ、腹が痛い」
謝りながらも泣き笑いの顔では全く誠意は伝わってこないのですが。
口をへの字に曲げてじろりと睨むとコン汰さんは涙を拭いながら何度も深呼吸して笑いを治めてからごめんなさいと謝った。
「怖がらせてしまいました。でも食べたりしないので安心してください」
「ほんとに?」
「ええ」
人好きのする笑みを浮かべて穏やかに頷くコン汰さんからはさっきまでの恐ろしい空気は消えていたので質問するなら今だろうと勇気を出して口を開く。
「あの、じゃあ教えてください。銀次さんからも言われたんですけど、匂いってなんのことなんですか?」
「あー……なんと言ったらいいか、好かれる匂いというか魅かれる匂いといいますか、落ち着くというか血が騒ぐというか」
「どっちなんですか!?それって美味しそうって意味ではないですよね?」
顔を逸らしながら言葉を濁すコン汰さんにはっきり教えて欲しいと詰め寄ると彼は頓狂な声で飛び上がりあわあわと落ち着きなく視線を彷徨わせた。
「美味し!?あ、はい、いや」
「どっちなんですか!?」
「えーっと……どっちも?」
「なんで疑問形なんですかっ!?」
「すみませんっ!」
またしてもコン汰さんの頭の上に障り心地が良さそうな耳が現れるが、それは怯えるように小刻みに震えている。
なんだかこっちが虐めているような気持ちになってきて精神的にダメージがあった。
一瞬怖かったけどそれ以外はコン汰さんずっと親切だったから余計に罪悪感が半端ない。
「……もういいです」
明日も朝早い上に月曜だから仕事もある。
千秋寺に戻ってお金を借りてもう帰ろう。
疲れた。
「小宮山さん本人には分からないと思いますが、貴女の匂いは堪らないご馳走なんです。どうかお気をつけて。千秋寺でお金とお札を借りて、できれば誰かに送ってもらうことをお勧めします」
ご馳走?
匂いが?
意味が分からないけどコン汰さんが心配してくれているのでお金だけじゃなく、お札も借りて帰ろうと頷いてからその場を離れた。
★ ★ ★
真希子さんは快くお金を貸してくれたし、折角いただいたお守りのついた鞄を早速忘れるという事態を責めずに宗明さんはお札を渡してくれた。
宗春さんはお風呂に入っているらしく会わなかったがきっと後から聞いてバカにして笑ったに違いない。
大八さんが送ると言ってくれたけどお札があるから大丈夫だと固辞して帰り、ご飯、お風呂と済ませ明日の準備を終えて直ぐにベッドへと入った。
いつものように三時半に起き出して手早く支度をして荷物を二つ下げて家を出た。
始発に揺られながら転寝し、下りる駅が近づいたところで小人たちに服を引かれて目を覚ます。
あくびを噛みしめながら小人さんたちとホームに降り駅から出ると真っ暗な中を千秋寺まで足早に歩く。
少し肌寒く感じるほどの気温でもちょっとずつ体温は上がってきて全く気にならなくなる。
通い慣れた道の向こうに千秋寺の階段が見え、その年季の入った石段に誰かが座っているのがぼんやりとシルエットで浮かび上がっているのに気づき歩調を緩めた。
誰だろう?
どうやらあちらも気づいたようで腰を上げ、その拍子に街灯に照らされて銀色の髪がきらりと輝いた。
「銀次さん」
「おはよう。こんな時間に毎日通ってるって聞いてマジかって思ったけど本当だった」
呆れたような声に私は苦笑い。
銀次さんの手に亜紗美さんのお店に昨日忘れた鞄があったから、どうやらここで来るのを待っていてくれたようだ。
「亜紗美が謝っといてってさ」
差し出されたトートバックの持ち手に着けた宗明さんのお守りの鈴が小さくリンッと鳴る。
「すみません」
素直に受け取りむしろ謝らなければならないのはこちらの方なはずで、でもなにに対しての謝罪か分からないまま謝るのも誠意が無い気がして黙り込む。
既に二つの鞄を持っているので昨日のトートバックを含めると三つになる。
財布も携帯もお守りもお札も戻ってきたことは嬉しいが、重量だけでなく嵩張る鞄が増えそれを抱えて通勤することを考えると億劫になった。
浮かない顔で俯いている私を銀次さんが「なあ」とどこか不安そうな声で呼んだ。
なんだろうかと目線を上げると大きな青みがかった黒い瞳が揺れながらじっと見つめ返してくる。
「紬さ、兄貴が好きなの?」
「――――はぁ!?なんで!?」
「亜紗美がそう言ってたけど」
「亜紗美さんが!?え?えぇええ!?」
信じられない発言に動揺しっぱなしの私を薄く笑いながら銀次さんは器用に私の声真似をして続ける。
「だって『銀次さんのことより、私コン汰さんのことが』って言ったんだろ?亜紗美に」
言った。
確かに言ったけど、その後には「心配だ」と続けようとしていて。
なのに亜紗美さんの様子が只事じゃなくなって言えずに。
え、待って。
「私がコン汰さんのこと好きだって誤解されてんの!?」
しかも亜紗美さんに!?
「嘘でしょ……!?」
「嘘じゃない、マジで」
信じられない。
二人の仲が上手くいくように応援しようと思っていたのに逆のことをしてしまったとは。
自分のバカさ加減が憎い。
しかも銀次さんに指摘されなければそんなことを誤解されていたなんて全く気付かないままだった。
「ちがっ!違うから!私、コン汰さんと亜紗美さんが幸せになったらいいなって思ってるのに!どうしよう、亜紗美さんに、あ、えっと誤解とかないと!」
誰かの恋路を邪魔できるほど自分が容姿に恵まれているわけでも、刺激に飢えているわけでもない。
そもそもあんなに可愛らしい亜紗美さんの恋敵になど私がなれるはずもなく。
それにコン汰さんは最初から亜紗美さんが好きなわけで。
そんな二人の間に私が割って入る余地などないのだ。
「ん?ちょっと待って!」
「なんだよ」
もし亜紗美さんがコン汰さんのことをなんとも思って無ければ私が彼のことを好きだと誤解した所で気にもしないはずだ。
でも違う。
尋常じゃないくらい青くなって動揺していた。
つまり。
「亜紗美さんもコン汰さんを――好き?」
「だろうな」
「え?」
なんでもないことのように応じた銀次さんに目を丸くする。
どうやら亜紗美さんの気持ちを知っていたようだけど。
「じゃあ、どうして二人は」
「言っただろ。難しいんだよ」
それは人と妖という異なる種族だからか。
でも納得できない。
お互いに好きだと思っているのに付き合えないだなんて。
どんな理由があるのか。
「紬は勉強中なんだろ?ならそのうち分かる」
分かってもらえないと困る、と何故か切なそうな瞳で見つめられ、なんとなくむず痒い気持ちを味わいながら「努力します」と返事をした。
「紬が似合いそうなやつ選んで袋に入れておいたからって。他にも色々用意しとくから暇な時に店に取りに来てほしいってさ」
「似合いそうなやつ?」
「夏のバザーの売れ残り。これを機に亜紗美から鍛えてもらえよ」
あはは、ファッションセンスをですよね。
「善処します……」
昨日結局店の前に置いたまま帰った段ボールの中から亜紗美さんは約束通り選んでくれたらしい。
きっとあの後、亜紗美さんは冷静になって鞄と伝言を銀次さんに託したのだろう。
コン汰さんに頼まなかったことが余計に亜紗美さんの思いの本気度を感じた気がしてため息がでる。
私だって好きな人が他の女性と人気の無い所で――しかもこんな時間に――二人きりとかいやだ。
「なるべく早く誤解をときにいきます」
「そうして」
手を振って銀次さんは商店街へと続く小道へと向かって行く。
それを見えなくなるまで見送り、重い鞄を三つ抱え直すと階段を登り始めた。