共存方法模索中にて
「良い匂いなんてするかなぁ……?」
あまり得意ではないので香水みたいな強い香りのするものは着けていないし、サラサラのストレートヘアなら風になびいてシャンプーとかの良い匂いもするかもしれないけど。
二つに分けて三つ編みにしている癖っ毛の黒い髪はそんな女子力高い香りがするわけもなく。
くんくんと右肩に鼻を寄せて嗅いでみるけれど全く分からない。
そんなことより両手に下げている袋から漂ってくるおいなりさんの甘辛い匂いの方がとっても良い匂い……。
現金にもぐうぅとお腹が鳴って私は早く千秋寺に戻って真希子さんの作ってくれた美味しいうどんと、ほのかで買い求めた絶品と噂のいなりずしを食べたくてそわそわし始める。
黙々と濃い茶色のタイルを選びながら歩いて八百屋さんの前まで行くと、ちょうど接客が終わったおばちゃんがにやりと笑って「買ってきてくれた?」と迎えてくれた。
「はい。あの、三パック買ってきたんですけど……大丈夫でしたか?」
結局コン汰さんの言葉を信じて三つ購入した。
それをおずおずと差し出すと目を丸くして頭を左側へコテンと倒す。
「あれ?あたし伝えてなかったかね?ごめんよ!でも良く分かったねぇ」
家は旦那と年老いた義母の三人暮らしだからいつも三つなんだよと個人情報をポロリと零しながらおばちゃんは誉めてくれた。
「あの、えっとコン汰さんが菊乃さんはいつも三パック買って行かれると教えてくれて」
「ん?ああ、そうかい。コン汰がねえ」
明るく笑い声を響かせておばちゃん――菊乃さんが袋を受け取り「ありがとね」と目の高さに掲げてみせた。
「見た目はちょーっとあれだけど腰が低くてね。気の良い男だからあんたもちょくちょく買いに来てやっておくれよ」
「あ、はい。そうします」
匂いだけでもとても美味いぞと主張していて、期待感がぐんぐんと高まっていく。
きっと想像以上の味がする――確実にリピーターになる予想がついていた。
「あんたも虜になるよ。コン汰のいなりずしに。そしてこの商店街にもね」
ウィンクをしようとして失敗したのだろう。
菊乃さんは両目を閉じてから少し照れくさそうに頬を緩めた。
でも言われた通りこの商店街の明るさとおおらかさは他にはない魅力だと思う。
私はお釣りをふくよかな菊乃さんの掌に置いてから「また来ます」と会釈をして静かな小道へと足を踏み入れた。
行きに比べて帰りは不安も無く人気の無い小道を弾む足取りで歩いて行く。
鬼ごっこでも始めたのか。
黒い塊の小人たちが十数人わっと駆けだして、残っている小人たちがそれを追って走り出した。
個人のお宅の塀が両側にあるので小道はちょっと薄暗い。
それでも光りの濃淡が道の上にくっきりと影を描いて、その下を楽しげに先を急ぐ小人たち。
どこからか吹いてくる心地いい風に目を細めながら長閑な時間を楽しんでいたのに。
「阿呆。獣なんぞにたぶらかされおって」
突如聞こえた声に私ははっとして立ち止まる。
少し離れた位置でじゃれ合っていた小人たちも同じように固まって動かなくなった。
視線だけを動かして声の主を探すけど、彼はとっても姿を消すのが上手い。
「空けめ。狐に取って喰われるぞ」
――違う彼らだ。
二つの声に責められて私はぎゅっと奥歯を噛みしめる。
お祖父ちゃんと濡れたお姉さんとの辛い別れの後、相変わらず彷徨っている霊や街路樹や花壇などで日向ぼっこしたり眠っている妖精たちをあちこちで見かけるけれど、憑いてくる人たちは誰もいなかった。
お姉さんが逝ってしまってからまた新しい人が来るかもしれないと期待半分不安半分で状況を見守っていたんだけど、結局私の近くにいるのはどこにでも着いてくる小人さんたちと私の部屋に居ついているお侍さんだけで。
それが千秋寺での訓練の成果なのだと思うほどバカじゃない。
宗明さんや宗春さんが私の知らない所で、悪いものが寄って来なくなるような退魔てきなお呪いかなにかをしてくれているのかもしれないと思っているんだけど。
「……人を取って食べるのは狐だけじゃないでしょ?」
そう。
どちらかといえば彼らの方が人に害を与える恐ろしい存在として昔話では良く出てくるのに。
「言うようになったではないか。阿呆の癖に」
秋の虫が羽を鳴らすように楽しげに笑い声を上げながら右の塀の上からぴょんっと赤い小鬼が飛び出してきた。
固そうな茶色の髪の間から一本の角が空に向けてぴんっと突き出ている。
恐ろしげな牙は下から上唇を抑えるように伸びて。
着物の袖を揺らして腕を上げ、脅かすように小人さんたちへと一歩踏み出すとあっという間に黒い毛玉は水の流れていない側溝の中へと逃げていく。
彼は茜。
小人たちをからかって遊ぶのが好きなのだ。
「止めて。かわいそうだから」
茜の大きさが三十センチくらいとはいえ、親指の先くらいしかない小人妖精からすれば恐ろしい脅威だと思う。
善良な小人さんたちが可哀想だ。
「隙だらけのお前などいつだって喰らえるが」
左の塀から声がしたのでそちらに顔を向けると青い小鬼がちょこんと座って真ん丸の目をきゅっと眇める。
二つの角が飛び出した緑の黒髪は肩に着くほど長く、風を受けてさらりと流れた。
茜とは逆に上の歯から牙が下へ向かって伸びていて、唇の下に濃い影を作っている。
彼は露草。
陽気な茜とは違い意外とお行儀がいい。
「約束を違えることはできん」
「……約束って」
誰とのだろう?
露草はそれ以上は教えてなどやるものかという意思表示をするかのように口を噤んで立ち上がり、塀の上を危なげなく歩き出す。
小さな足が擦り切れた草履を履いているのを見ながら目で追っていると自然と足が前へと進んだ。
熱を出して寝込んだ翌日の夕方から現れるようになっていたけれど茜も露草も神出鬼没でいつ現れるかは全く分からない。
単体で姿を見せたり二人連れだって来ることもある。
一応そのことは宗春さんに伝えてはいるんだけど「紬が望んでたとおりになったんじゃない?気のすむまで仲良くしたらいい」と放置されてるんだけど。
またなにか裏があるんじゃないかと思うと怖くて仕方がない。
宗春さんならあり得る。
にこりと爽やかに微笑んだ宗春さんの顔を思いだすと薄ら寒くて背中を震わせた後でふと。
そうか――と呟いた。
「銀次さんとコン汰さん……狐の妖なんだ」
手に提げた美味しそうな匂いを発するおいなりさんを見下ろしてほっと息を吐く。
普通に商店街の人たちに馴染んで商売をしている妖の姿に驚きと称賛を覚えるけど彼ら兄弟は人ではないのだ。
「……恋愛かぁ」
人と妖の恋にどんな障害があるのか。
まともな恋愛をしたことのない紬が分かるわけもないけど、亜紗美さんを見つめるコン汰さんの切なそうな眼差しとか、銀次さんの「難しいだろうな」という言葉に潜んでいた現実に対する辛さのような憂いがそれを乗り越えるのは簡単なものでは無いのだと教えてくれているような気がする。
「なんだ?やはりたぶらかされたか。獣に」
「は?いや、そんなんじゃなくて」
茜が逃げ惑う小人たちを追いかけ回すのを止めてこちらを振り返る。
大きな黒い目の中にどこか面白がっているような光を見つけ慌てて否定するけれど、ふんっと鼻を鳴らして「どうだか」と赤鬼は再び前を向く。
「止めておけ。あれは只人に捕まり、扱き使われて山に帰りたくとも帰れぬ愚かな狐だ」
「しかし本来仕えるべき主の元に帰れぬのだから気の毒でもある」
「なんと。捕まる愚鈍な狐に同情などしてやるとは露草も人の世にかぶれたか!」
「古くから妖退治を生業とする寺の札の効力を侮ってはならん。あの狐とて優に百歳を超えておるというのに抗えぬとは只事ではない」
「……お主の買い被りではないのか?」
「では身をもって味わってみるがいい」
茜の最初の呼びかけと言うか忠告は私に向かってされたはずなのに、何故か露草が――えっとこの場合はコン汰さんたちをなんだろう――庇って、それが面白くなかったのか軽く口論みたいになっている。
さてどうしようかと考えている所で露草に「千秋寺の札を出せ」と求められて驚いた。
「え?千秋寺の……持ってないけど。あんな危ないもの」
「「はあ!?」」
二人の声が重なって茜は目も口も鼻も丸くして体ごとこちらを向き、露草は軽く目を閉じて顔を覆うと小さく首を左右に動かした。
とても驚いているみたいだけど、私にしてみればお姉さんとお別れするきっかけとなったあの恐ろしく効果のあるお札を持ち歩くことにはやっぱり抵抗がある。
仲良くしたいと公言しているのに、彼らの脅威となるものを持っていれば友好的な関係を持つことは難しいと思うから。
「阿呆!持ち歩け!なんなら体中に貼っておいてもいいくらいだぞ!」
「いやいや……茜、さっき宗明さんのお札バカにしてなかった?」
「底抜けの阿呆だな!お前は!百年を越して生きながらえている妖狐の妖力を侮るな!その狐を奴隷のごとく只の人間ごときが使役できるのは奴の札があってこそなんだぞ!?」
「あ!それさっき話してる時に気になったんだけど、あのお店ってコン汰さんが経営してるんじゃないの?もしかしてコン汰さんと銀次さん誰かに無理やり働かされてる?」
その質問に答えたのは露草で神妙な顔で首肯する。
「店は柘植修一という男のものだ。その男に狐の兄の方が捕まりいいように使われているという現状だ」
「そんな……」
にこにこと愛想よく働いていたコン汰さんの様子から嫌々働かされているという感じはどこにも無かったのに。
どうやら亜紗美さんとの恋愛だけでなくコン汰さんには色々と深い事情があるようだ。
「だが弟の方は違う」
「え?」
ということは銀次さんは自分の意思であそこにいるということなのかな。
「もしかしてコン汰さんを助けようと思ってきた……?」
「違うだろう。里の暮らしが窮屈で飛び出してきて、兄の所に都合よく転がり込んだと聞いておる」
まあ確かに兄を思って人の住む所へとやって来たのなら、女の子をとっかえひっかえして楽しんで当のコン汰さんを困らせたりしないだろうけど。
「銀次さんはコン汰さんを慕ってる」
それは銀次さんのお兄さんを見つめる瞳の真っ直ぐさから伝わってくる。
コン汰さんが本当に嫌で逃げ出したがっているのなら銀次さんは救い出そうとするはずで。
それをしないのは望んでいるからだ。
「コン汰さんは今の生活を捨てたくないって」
生まれ育った故郷に帰れなくてもいいと思えるほどに。
亜紗美さんを好きなのかもしれない。
「だから応援してるんだ」
銀次さんはコン汰さんの意思を尊重しようとしている。
私だって結が困っていたり悩んでいたら助けたいと思うし、できることならなんでも力になりたいと思う。
きっとそれは結だって同じ。
合コンに行く私を少しでも見られるようにしてくれたのだって同じところからきているはず。
「よし、ここは一肌脱ぎますか」
ずり落ちてくる眼鏡を押し上げて左手で小さくガッツポーズを作る。
鼻息を荒くしている私を「お主なにかよからぬことを考えてはおらぬか?」と怯えるように茜が尋ねた。
「不思議との共存の方法を探してる私がここで見て見ぬふりしていいと思う?いいや。無い!これはきっとチャンスなんだと思う。人の中で暮らしているリアルな妖の事情を学べるんだから」
彼らが抱える問題を知ることは私にとってもプラスになる。
「悪いことは言わぬ。お主の行動を止める権利はそもそも我々にはないが」
「うん」
「せめて外にいる間は若坊主の札を肌身離さず持っておいてはくれぬか」
どんな言葉で脅かしてくるのかと思っていたのに露草は懇願するようにして宗明さんのお札を持ち歩くことを求めてきた。
「でも」
「兄に効果のある札が弟に効かぬ道理はない」
つまり銀次さんと仲良くするつもりならお札を持っておいて欲しいということ。
「銀次さんが私に危害を加えるような人には見えないんだけど」
「奴は人ではない。妖だ。忘れるな」
「……銀次さんが私を食べるって本当に思ってるの?」
「色々な意味でそうだ」
色々ってなんだ。
でも確かに良い匂いがすると言われたし、それって美味しそうって意味だったとしたら……?
「兄は縛られておるから心配はないが、弟の方は違う。ゆめゆめ油断するな」
「……分かった」
不本意だけど露草の勧めに従って鞄に入れて持ち歩くことを受け入れた。
二人の小鬼の顔にちょっとだけ安堵が浮かんだのを見て私は苦笑する。
小道を抜けて犬のいる家の前まで来れば千秋寺はもうすぐ目の前だ。
お寺の名前が掘られている小さな石搭が見えてほっと知らず息を吐く。
太陽の日差しを淡く照り返しているアスファルトの乾いた匂いがあちこちに充満している。
薄暗い小道を抜けたのを合図に茜と露草の声は背後に遠ざかっていった。
それでもどこか案じるような響きのある声は聞こえて。
「我々もそうそう見張ってはおれぬ」
「気を抜くでないぞ」
もしかしたら私の周りに悪いものが寄り付かないようにしてくれているのは宗春さんでも宗明さんでもなく、小さな赤と青の鬼が目を光らせてくれているかもしれないと。
ちらりと思った。