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朝九時、少年はまたもや歩いている。昨日のより少しだけ時間をかけた格好に、その臆病な足で歩を進めていた。
目的地は自宅から徒歩で15分ほど。高校の通学時に使っていた自転車に乗ろうとカギを持って家を出たものの、そのカギが役に立つことはなかった。少しへこんだ顔を浮かべ、少年の一日はスタートした。
いつまでも続きそうだった綱渡りからは今日だけ降りることにした。その証拠に少年の目線の位置はいつもよりの少し高く、空の存在を久しぶりに近く感じていた。土曜日の朝は人通りが多く、誰かとすれ違う度に無意識に顔を伏せようとしてしまうのを、無理やり会釈に変えるという作業を何回か成功させた。
そして、気付くとあの横断歩道の前に立っていた。ランプの色は赤、本当に世間は少年に容赦がない。土曜日を感じさせる交通量に、普段土日に出かけることをしない少年は圧倒され、思わず口から「すごいな」が飛び出した。でも、今日の少年の足は心強いようだった。
嫌でも脳裏に浮かぶ昨日のことを一通り思い出す。少年はおかしくなり今日初めて顔を伏せ、笑った。微妙に震えた指でボタンを押す。車の流れが緩くなり止まる。そして、ランプが青く光った。
恥ずかしくなるだろう数の視線を浴びる少年は小走りになり、手の振り方は奇妙になった。
横断歩道を渡る前と後で数度体温が上がったことは、当の本人はもちろん、周りの人間も少年の顔の色を見れば一目瞭然だった。これから先こんなことが続くかと思うときっと少年はまた落ち込んだことだろう。しかし、その時の少年はそんなことは考えもしなかった。少年は一息つくとすぐに目的地へと進み始めた。
昨日の夜に頭に叩き込んだルートを間違えないようにしながらも、少年の歩くスピードは上がっていった。できるだけ心の中を空っぽの状態にしたまま目的地へと進んだ。
最後の右折にたどり着いた時には少年は走っていた。表情には気持ちの高揚がむき出しになる。そんな運動不足の少年を応援するように太陽は雲の裏に隠れ、突如丁度いい風が髪を靡かせた。何とも優しい。
少年は止まった。目の前にはレトロな雰囲気を帯びた二階建ての建物。絵本は読まない少年にでも絵本から出てきそうなという感覚が芽生えた。
すぐさまポケットから几帳面に折りたたまれた紙を取り出し、住所と店主と思われる人間のささやかな一言をもう一度確認する。
「もしよかったらうちの店に来てみてください。うちではテルさんはちょっとした有名人なんです。一杯を用意して待っています」
人生の停留所と手書きで書かれた控えめな木の看板を見て気を引き締める。第一印象は大切だと昔読んだ心理学の本に書いてあったことを思い出し、一通りイメージした。「こんにちは」がいいのかな? 「はじめまして」がいいのかな? 「お邪魔します」がいいのかな? 結局未来の自分に任せることにした。
味のある木製のドアに手を掛けてそれからぐっと力を入れてゆっくり引いた。すると足物に白い何かを感じ、少年はギリギリのところで立ち止まった。
「ニャー」
綺麗な目をしたその子は少年を確認すると、立ち上がってご丁寧に挨拶した。少年もそれに応えるべくその場にしゃがんで、その子の頭を撫でた。少年にしては大胆なスキンシップであったが、相手はとても喜んだ。
「いらっしゃい。その猫、翡翠って名前なんです」
少年が顔を上げるとそこには紺色のエプロンが似合う青年が笑顔で立っていた。今まで白いその子に当てていた五感を瞬時に青年にやると、コーヒーの良い匂いが少年の嗅覚を癒した。
「初めまして。えっと、テルと申します」
硬くなった少年に青年は目を丸くしてから、姿勢を正した。
「君が。初めまして店長の虹村といいます。よくいらしてくれました」
競うかのように深々と頭を下げ合い、顔を上げた。虹村を名乗る青年はとても爽やかで風と同化できそうなくらいにすっきりとした雰囲気を持っている。その中に何が詰まっているのか少年は知っている。それは優しさだ。
「その顔はすこし想像と違いましたか?」
勘がいい。その通りだった。少年の中での喫茶店の店主というイメージは簡単に言うとおじいさんだった。しかし、歳や容姿は異なっても落ち着いた目や何か素敵なものを吐き出しそうなその口は一致した。
「半分くらいですかね」
はっきり言って少年にとってはそんなことどうでも良かった。もっと重要で家から大切に守ってきたものがあった。青年を青年とは知らない状態のときからいままで青年に抱いていた不思議があった。 それは大切なのに少年は大嫌いだっからすぐに忘れてしまいそうになる。だから少年は先程まで気にしていた第一印象など気にせずに飛び込んだ。どうしても知っておきたかった。
「突然すみません。これが訊きたくてしょうがなくて来たんです。
なんで僕に声をかけてくれたんですか? 高校を辞めて、人としての価値がほぼゼロになるまで落ち込んだこんな僕を、なぜ呼んでくれたんですか? 手を伸ばしてくれたんですか? なんで優しくしてくれるんですか?」
後半は興奮しすぎてうまく口が回らず、ただ好奇心だけが前に出た状態になった。その姿からは恐怖さえ感じたのかもしれない。
しかし、青年は全てを知っていたかのように少年の問いを受け取り、答えを渡し始めた。
「奇遇ですね。僕もこれだけは伝えておきたかった。
君の価値は自分だけで決めるものではないよ。あまりにももったいない。もっとある。もっとあるんだよ、君の価値は」
少年は聴いた。ただただ聴いた。
「僕は君に価値を付けた。多分それは君が君につけた価値の何倍にもなる。これも君の価値の一つだ。だから諦めないでほしいんだ。すぐに正解を見つけようと焦らないでほしいんだ」
少年は徐々に青年の姿が滲んで見えてきた。目はもう使い物にはならないと判断し、全てを耳に捧げた。
「正解不正解なんてきっとないんだ。誰かが勝手に決めた薄っぺらい物なんだ。
だから君にはもっと進んでいってほしい。止まらないでほしい。
昨日ラジオで話していた、女の子の話。プレゼントの話。優しいお母さんの話。
そうゆう心が自然と価値を生み出すものを大事にしていってほしい」
気づくとそこには泣きじゃくった男二人が立っていた。それを見る白く小さなその子は二人の間で二人を見上げている。なんだこいつらとでも思っているのだろう。
「君はなんで高校を辞めたの?」
「自分が自分でいられないことをしょうがないと完全に受け入れそうなになったからです」
「ちゃんと答えがある。正解とか不正解関係なくそれは十分戦った証拠だよ。価値だよ」
それから二人は、視界を取り戻し素敵な一杯で乾杯した。
少年は久しぶりに運命という言葉を思い出した。思いつきで始めたラジオで光るものを感じ、それを追って行ったらわずか家から15分の所でそれは待っていた。
これも君の進んだことへの対価だ、と青年は深く頷いた。