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約束

作者: 絢斗
掲載日:2016/07/14




 1


 家に置いてある電話機が鳴った。何だ、と訝しみながら彼は重い腰を上げた。仕事から帰って来たばかりで、一息こうかというまさにその時だった。それにしても、この時代に携帯電話に掛けてこないというのはいったいどういう了見なのだろうかと、彼は違和感を覚えた。

 電話機のディスプレイを見る。だが表示されているのは知らない電話番号だった。誰だと不審に思い、出ようか出まいか悩んだが、姦しい着信音は止みそうになく、うんざりした気分になりながら結局出ることにした。

「――もしもし」受話器を持ち上げてから、一拍置いて問い掛けた。しかし、返事がない。

「もしもし?」

 再度問い掛けてみる。執拗に掛けてきておいて何だと憤りを覚えた。普通なら応答したとあれば即座に反応があるはずだ。それがなかったので、彼は一瞬、それが間違い電話か何かかとさえ思った。が、まったくの沈黙というわけではなかった。

 静かではあるがか細く、いまにも途切れそうな儚い声ならざる声が聞こえてきた。――嗚咽だ。誰かが電話の向こうで泣いている。彼はそれを聞いた瞬間に電話に出てしまったことを後悔した。厄介ごとであることはどう贔屓目に見ても間違いなさそうだった。まず携帯電話ではなく固定電話を鳴らしてきたこと自体がそもそも胡散臭い。

「あの、大変申し訳ありませんが、どちら様でしょうか?」

 慎重になりながら誰何すいかする。彼にはこの電話の相手を見極めることが困難だった。泣かれているだけでは誰がどんな用件で電話をしてきたのか解らない。

 そもそもなぜ泣いているのだろう。これだけの情報では男性か女性かすら判別し難かった。だが、おそらく女だろうと彼は思っていた。確かな根拠はないが、一般的な常識に照らし合わせてみて、泣きながら電話をしてくる男性など聞いたことがない。これが学生の話だったらそれもまだ納得もできるかもしれないが、生憎立派な社会人を全うしている真っ最中だった。少なくとも、そんな女々しい知り合いは彼にはいない。

 では仮に女性だとして、結局のところ誰なのだろうか。一瞬、恋人のことを思った。だが彼女なら家の電話ではなく携帯電話に掛けてくるはずだ。固定電話は対応できる人間がその場にいなくては出る術がない。彼は一人暮らしだ。だから電話をするならほぼ確実に携帯電話を鳴らすに違いない。もちろんこれは恋人に限ったことではなく、いまとなっては現代社会に生きる者達の一般的な知識、暗黙の了解にも等しいそれだ。最初に携帯電話にかけてみて応答しなかったから、仕方なく自宅の電話機へという流れならまだわかるが、そういうわけでもない。それにそもそも、表示されている電話番号に身に覚えなどまるでない。携帯電話を使用することが主流となった現在、電話機に彼女の連絡先は登録されてはいないが、それでも最愛の女性ひとのそれを見誤ることなどまずない。

 つまるところ、彼にはこの電話の相手を推し量る手掛かりがなかった。間違い電話か、もしくはいたずらかのどちらかだと決め込みつつあった。いずれにしても、問い掛けても返事は返って来ない。ただひっくひっくと嗚咽を漏らしながら号泣しているだけだった。よほど辛い目に遭ってしまったのかと想像した。だが彼には関係のないことだ。聞きたい声であったならば、例え激情に駆られていたとしても答えは返ってくるはずだ。それを望んでいるからこそ、涙しながらも藁をも縋る気持ちで電話に手を伸ばしたのではないのか。

「すみません、切りますよ」

 彼はそれでも緊張しながら言った。突き放すことでヒステリーになってしまうかを恐れた。

 だがそれは杞憂だった。返事はやはりなかった。聞こえてくるのは相変わらず咽び泣く声、それだけだった。その一方的な号泣は、あたかも泣いてるところだけを聞いてくれと言わんばかりのような気さえした。

 問い掛けにやはり返事はなく、埒が明かないので彼は受話器を耳から外して元に戻した。いったい何だったのだろう。ひとえに気味の悪さが後味として残った。だがそれでも、面倒なことに巻き込まれなくてはよかった。

 だが、そのような気持ちとは裏腹に、あのような激情っぷりを曝け出した電話には少しばかり同情する気分でもあった。どんな境遇に曝されたのか、その訳を彼が知る由はないが、彼女の身に、尋常ならざる何かがあったことはまず間違いなさそうだった。どうか元気に暮らせますように――彼は心の中で静かにそう願った。困っている人に対して何もせずにただ一方的に見て見ぬをフリしてしまった、ある種の罪悪感だったのかもしれない。


 2


 すべては斯くあるものだった。

 予感も期待もない。変わらない日常いつもは、変わらない幸福を与え続けてくれる。昨日も、今日も、明日も同様に。刺激が極めて少ないけれど大した問題も起こらない、平和で、平凡とも言うべき日々が延々と続くだけ。よわい三十一になる有澤征哉は、しかし半ばそれで満足していることを自覚していた。これまでの三十年がそうであったように、これからの日々も穏やかに過ぎていくのだろうと信じ切っていた。いや、信じるというより、もはや既定の事実も同然だった。山よりも動かし難いことだった。

 確かに何も大きなことは成し遂げていないかもしれない。これまでに、大きな事故や事件に巻き込まれたことはないし、自ら何かを興したことも皆無と言っていい。誰かの決断に流されるままに生きて来たのかもしれない。いずれにしても、決して波乱万丈、ドラマチックというには程遠い人生ではあることは認めざるを得ない。だが乏し過ぎるというほどに退屈に徹したそれでもなかった。いや、むしろ順風満帆と表現しても過言は付さない。身体は健常に生き、雇われの身とはいえ職に就け、あまつさえ愛する存在、愛してくれる存在さえ、自分にはいる。不自由とは到底及ばないほどに自分は満たされていた。果たしてこれが、幸せでなくて何なのか。普通の生活。そう、ごく一般的な、普通の生活をしている。富や名声はなくとも、しかしそれに勝る幸福を、彼は既に手に入れているのだ。

 そう、手に入れている――

 静かな夜を一人で過ごすには、〝彼女〟のことを想起せずにはいられない。

 優しくて、暖かい、愛しい顔。もはや数年にも及ぶ付き合いにも関わらず、未だに弾けるような淡い衝動を忘れることができない。

 白石麻衣子。

 それが、ただひとり愛する女性ひとの名。いや、それもいまとなっては仮初に過ぎない。もうじき、彼女は『有澤』の性に変わる。結婚するのだ。そしてそれは、そう遠くはない未来の話だ。

 結婚――

 その二文字が脳裏を霞めるだけで、鼓動が欣喜雀躍したように速くなった。彼女が妻となり、始まる二人の生活を想像するだけで胸がはち切れそうになるのだった。

 早く会いたい。そう思わずにはいられない。どうしようもないくらいに、彼は白石麻衣子という女性が好きだった。

 静寂に包まれた部屋のなかで、彼は一人で興奮していた。明日も仕事だというのに、今夜に限っては寝付けそうにない。まるで遠足を楽しみにしている小学生のような心境だった。麻衣子と婚約をしたのは、昨日今日の話ではない。一月ひとつきも前から決断したそれであるはずなのに、どうして今夜に限って、これほどまでに彼女を思い出し、狂おしい愛しさを感じるのだろう。もう言うまでもなく、彼は彼女のことを心から愛しているのだ。

 なかなかどうして就寝に集中することができなかった。目を閉じれば、彼女の姿、過ごしてきた日々が次々と去来して、眠ることを妨げられた。

 有澤は耐え切れずと言った風に身体を起こした。こうも寝付けなくては却って疲れてしまう気分だった。部屋を移動し、リモコンを探し出してテレビのスイッチを入れた。特に観たい番組があった訳ではないが、他にすることもなかった。冷蔵庫から缶ビールを取り出して来た。そのついでに時計を見てみると、零時を過ぎようかという時刻だった。若い頃は体力が有り余っていた為にまだこんな時間かよと些か妙に嬉しんだりしたものだが、いまとなっては仕事に支障を来すことを怖れてとても夜更かしをする気にはなれない。

 細やかではあるが一杯ほど飲めば眠気が来るだろうと思った。

 リビングのソファに腰を沈めると、缶ビールを手に持ち、プルトップを引く。小気味良い音が立った。そのまま口の中へ流し込む。一口飲むと、もう片方の手でリモコンを握り、チャンネルを次々と変えていく。ワイドショーやバラエティ、訳のわからないドラマやアニメが流れていく。どれにもさほど興味はなかったので、ニュース番組のチャンネルに合わせてリモコンを置いた。事件や、政治家の問題や芸能人のスキャンダルだとかに強い関心はあまり持たないが、話題作り程度にはできるのでニュースは欠かさず観ている。何より、キャスターやアナウンサーの話し方、言葉の使い方や表現が案外勉強になったりするのだ。むしろそちらを研究している為、と言っても良いかもしれない。ビジネスマンにとって、言葉の操り方は大切である。

 彼は他人事のようにビールを片手にニュース番組を眺めていた。まさか自分に関係すること、それに類する内容が流れて来るなどとは夢にも思ってはいなかった。そんなことを想像すらしたことがない。いま画面の中で起きていることそのすべてが、自分にとってまるで関係のない、虚構の世界に過ぎなかった。

 ニュースは車が人を轢いたという内容に変わった。

 交通事故か、彼の感想はそれだけだった。

 原稿を読むアナウンサーが詳しい内容を述べていく。先程、一台の車が駅前の交差点に信号を無視して突っ込んだらしい。飲酒運転だという。多くの人が行き交うところを突撃してしまったらしい。被害者は多数。その内何人かは重体で救急搬送されたみたいだ。尚犯人は駆け付けた警察により、その場ですぐに逮捕されたらしい。

 なるほど、可哀想に。こりゃ明日のトップニュースになるやもしれんな。彼はそう思っただけだった。それ以上でもそれ以下でもなく、完全に他人事だった。この同じ次元の中で、同じ空の下、同じ時間を生きる中で起きた事柄であるようには考えられなかった。誰かが創作したドラマか何かを観ているような気分に等しかった。それでも一つ興味を示したと言えば、その駅が彼も何度も行ったことのある、全国的に有名で発展した街であったことだった。駅名も当然馴染み深かった。人が多くいたことにも頷ける。不思議はなかった。加害者を庇う訳ではないが、酒を飲んでいたって当然だろう。被害者は運が悪かったとしか言いようがない。

 この内容もまた、彼にとっては全く以って関係のないものと確信し切っていた。これまでの、そしてこれからの彼の生活を微塵たりとも揺るがしはしない出来事。遠く離れた、ここではないどこか、いまではないいつかのそれ。ただそんな風に捉えていた。

 そこで有澤はどきりとさせられた。自宅の電話機が鳴り出したのだ。

 怪訝せざるを得なかった。先程の間違い電話があったからだ。いまになってもう一度掛けてきたとでも言うのか。それでなくとも自宅の電話機が一日に何度も着信するというのは現代社会に於いては稀だ。

 仕方なく、彼は電話機へ歩み寄った。

 光るディスプレイを覗き込むと、そこには『白石家』と表示していた。彼の恋人の実家からの電話だった。彼らとはすでに挨拶を済ませてある。関係は良好と言ってもいいだろう。白石家は快く有澤を歓迎してくれた。連絡先はその時に伝えてあるが、携帯電話の番号は教えていない。故に自宅の電話機に電話をしてきたことには何ら不自然はない。

 さっきの電話とは無関係と解り彼は安堵したが、また別の問題が浮上したことになった。わざわざ有澤に電話をしてくるのは滅多にないことだ。あまつさえ時間帯が殊更に不気味だった。いずれにしても彼にとって重大な件を携えているのは間違いなさそうだった。

 緊張しながら、受話器を取った。

「はい、有澤です」

「征哉くん! 征哉くんかっ!」

 有澤が言い終わるのを待たずに声がした。麻衣子の父上だった。だが、かなり混乱している様子だった。激しい語調でいまにも声が裏返りそうだった。一体どうしたと言うのだ。

「そうです。その通りです。僕です。落ち着いてください。どうされました? 何かあったのですか?」

 あまりの取り乱しように、有澤もまた逼迫した心持ちにさせられた。こんなにも緊急的な雰囲気が孕んだ対話は、麻衣子の両親に於いてどころか、彼自身が生まれて初めてのことだった。

「す、すぐに来てくれ。麻衣子が大変なことになってしまった」

「……なんですって?」

 突然の内容に、彼は幾許か返答が遅れた。一体何のことだ。大変なこととは、つまりはどういうことだ。有澤には正しく事情を呑み込むことができなかった。麻衣子の父の慌てようからして尋常ではないことが起きたのは確かなようだったが、それでさえどこまで急を要することなのか、未だ半信半疑だった。

 だが次の返答で、彼の客観的な観測は間もなく奪われた。

「事故だ。交通事故に巻き込まれたんだ。重体だと言われた。すぐに来てくれ」

 返答に詰まった。先程までビール片手にだらだらと眺めていた報道、それしかなかった。他ならない麻衣子が巻き込まれていたのだ。

 嘘だ、そんな馬鹿な!

 これは何だ、現実なのかと言う疑惑さえ一瞬抱いた。この電話の相手は本当に麻衣子の父で、彼が発する言葉の数々は本当に真実なのか。疑わざるを得なかった。疑うことで、何とか理性を保とうと精一杯だった。いや、或いはすでに理性など崩壊していたのかもしれない。突然やってきた現実を直視できずに何とか誤魔化そうとしていた。それらはすべて噓偽りで、いずれ晴れる、そんなどうしよもなく根拠もない夢想を無意識にしていた。

「征哉くん。聞こえているか? 頼む、すぐに来てくれ」

 返事をすることを失念していた。麻衣子の父の発言は、有澤の理性を根刮ぎ簒奪する程に致命的なそれだった。

「ど、どこですか。麻衣子はどこにいますか?」

 言葉に抑揚がなかった。霞んでいくような思考の中で、必死に絞り出した返答だった。

「ここだ――」彼は病院の名前を告げた。

「解りました。すぐに向かいます」

 わかったというような返事が返ってきた後すぐに電話は切られた。

 事態は明らかに緊急していた。だが部屋の中は静寂で、付けっ放しにされたテレビの音だけが聞こえてくる。いつもと変わらぬ日常、いつもと変わらぬ風景。いつもと変わらぬ生活がそこで漂っていた。すぐに向かうと言っておきながら、彼はその場でしゃがみ込み、少しばかりぼんやりとしていた。頭を抱えた。此度の事の理解をすっかり放棄したい気分だった。

 本当にそんなことがあったのだろうか、この期に及んでまだ嘘だ、という気持ちが強かった。とても信じることができなかった。

 白石麻衣子。彼女の愛しい顔が浮かび上がる。優しくて綺麗な、有澤征哉にとって唯一の何にも代え難い大切な存在。

 彼は勢い良く立ち上がった。


 3


 有澤は病院を駆けた。頭の中は麻衣子のことですっかり支配されていた。

「征哉さんっ」

 待合室に麻衣子の母上がいた。その隣に父上も並んでいる。二人の姿を捕えて有澤は脇目も振らずに駆け寄った。二人は揃って彼の到着を待ち侘びてくれていた。だが血相を変えていた。とても緊迫した事態にあることは歴然だった。

「麻衣子は――麻衣子の容態はっ?」

 挨拶もなしに有澤は尋ねた。この際そんな余裕などはなかった。

「征哉くん、落ち着くんだ、どうか落ち着いて」

 麻衣子の父にそう言われて、自分が息が絶え絶えになっていることにようやく気が付いた。興奮して冷静さを完全に失っていた。

「す、すみません、お恥ずかしいところを……」有澤は息を整えた。「彼女の容態は?」

「うむ……」

 麻衣子の父は言葉を詰まらせた。母の方に至っては固く目を閉ざしている。二人とも顔が冷たい色になっていた。果たして血がしっかり通っているのかを疑ってしまう程だ。これからやってくる脅威に怖れている、そんな雰囲気だった。その様子がすでに、いかなる雄弁をもまさって物語っている。

「まさかそんな……」

 馬鹿な。彼女に限って、そんなことがあるはずがない。これから二人で幸せに暮らすはずの現実が、こんなところで失う訳がない。

「いま、治療をしてもらっている。が、どうなるかわからん……」

 絞り出すような声だった。何もできずに自分の無力さを感じているようだった。

「そ、そんな……」

 二人は何度も頭を下げて来た。

「すまん。私らの責任です。彼女をもっと見てやっていれば……」

「本当にごめんなさい」

 麻衣子の父が言い、母が謝った。その声は二人共涙ぐんでいた。

「やめてください。顔を上げてください。二人のせいではありません! それに、麻衣子が死んだと決まった訳ではないのでしょう?」

 後半の言葉は訴えるようでもあった。生きていて欲しい、その希望を現実にする為の確認にも似ていた。

「……そうだ、麻衣子はまだ生きている」

 麻衣子の父が顔を上げて言った。だが口調が明るいとはお世辞にも言えない。

「いまは彼女が助かることだけを考えましょう」今度は有澤が彼らを諌める番だった。

「そうだね。その通りだ」

 麻衣子の父が頷いた。

「白石さんっ」

 三人とも声がした方へ揃って振り向いた。

 看護婦だった。看護婦が有澤達のもとへと走り寄って来た。とても急いた様子だ。

「お嬢様のところへご案内致します。こちらへどうぞ」

「わかりました」

 麻衣子の父が答えた。

「とにかく麻衣子のところへ行きましょう」

 麻衣子の母が促した。はい、と有澤は即答して三人は看護婦の後を追った。

 集中治療室と書かれたプレートの貼られた部屋にすぐ辿り着いた。そこでもう一人の看護婦が三人を待っているのかように立っていた。

 看護婦は三人の姿を認めた。

「白石さん! それからこちらは?」

「僕は有澤征哉と申します」

「彼は私らの娘の婚約者です。同行して貰う必要があります」

 麻衣子の父が、有澤の言葉に補足した。看護婦はそれを聞き届けると何も反論せずに首肯した。

「解りました。どうぞ、お入りになってください」

 ドアを開け、ご家族です、と中の者に伝えた。入って貰いなさい、という返答がすぐに返って来た。

 そして看護婦に促され、三人は部屋の中に足を踏み入れた。

 一つのベッドが目に入った。寝かされているのは、他ならない白石麻衣子だった。その光景は、彼の精神に致命的な衝撃を与えた。

「まいこっ」

 麻衣子の傍らに医師が二人立っていた。何やら作業をしている。だが、有澤を視認するとすっとベッドから離れた。

 彼は眠れる愛する女性ひとのもとへ駆け寄った。

 身体のほとんどが包帯で巻かれていた。酷く傷だらけになってしまっていることが一目で窺えた。顔にも傷が幾つかあったようだ。いまは白いガーゼが貼られている。だが綺麗な顔立ちは保たれたままだった。それはまだ救いだったのかもしれない。だが、彼女の身体に取り付けられた器具の物々しさが彼女の容態の危うさを告げているようだった。それらがいかなる機能を果たしているのか、彼には窺い知れなかったが、必死に彼女の生命を繋ぎ止めようとしていることだけは判った。

 一定の音を刻んで病室に鳴り響いていた。心電図だ。どうやらまだ死んではいないらしかった。だが死んでいないだけの状態だった。いままさにそれに向かっている最中なのだ。

 有澤はあられもなく泣き叫びたい衝動に駆られた。麻衣子の身体にしがみ付き、生き還れ、還って来いと喚きたくなった。だがそれをすんでのところで僅かに残された理性が制した。

「先生……!」

 麻衣子の父の声だった。彼の声にも、緊迫した気配があった。娘の、麻衣子の様子を訊いているに違いない。

「麻衣子は、どうなりますか?」

 有澤が続けた。

「それなんですが――」一旦言うのを止めて、有澤と目を合わせて来た。「あなたはご主人、ですか?」

 急な質問に、有澤は何と返せば良いのか解らなくなった。

「有澤征哉くんです。彼は麻衣子の婚約者です。ご主人も同然です」

 代わりに麻衣子の父が答えてくれた。愛する女性の肉親、その本人から婚約者だと言われて、有澤はこんな時にも関わらず嬉しさを感じた。信用してもらえてるのかと思った。だがいまは照れてる場合ではない。

「解りました。有澤さん、ちょっと付いて来てください――二人は彼女の傍にお願いします」

 有無を言わさぬ響きが孕んでいた。余程逼迫した気配があった。有澤は全身を強張らせて、医師の後に付いていった。麻衣子の両親は愛娘の傍へ寄った。集中治療室を出る直前に「まいこ、まいこっ」と泣きじゃくったような声が聞こえて来た。

 案内されたのは集中治療室から少しばかり離れた診察室のような小さな部屋だった。レントゲンの写真が何枚も吊るされていた。おそらく麻衣子のものだったが、それが何を意味しているかはぜんぜん解らなかった。

「先生、麻衣子は……彼女はどうなんですか」

 有澤は立ったまま訊いた。

「ご両親には先程すでに伝えたのですがね……はい、率直に申し上げて」苦しげな口調だった。医師の目は有澤の目を捕らえた。「とても危険な状況です」

 全身の血が逆流してしまうかのような不快感を催した。何かを喋ろうとしても、顔面が固まって思うように動かない。だが唇だけがぷるぷると震えていた。彼は近くにあった椅子に許可も待たずに座り込んだ。全身に力が入らなくなった。

 彼に合わせるように、医師も向かい合うようにして椅子に腰を掛けた。

「助からないんですか?」

 縋るような質問だった。確認と言った方が良いのかもしれない。まだ諦めることができないのだ。麻衣子は必ず助かる、そういう返答を求めた。

 だが医師が発する言葉は、ことごとく彼の希望を破壊するものだった。

「白石さんはかなりスピードのある車にはねられたようで、身体をかなり強く打ち付けられたようでした。外傷が至るところに見られましたが、それ自体は大したことはありません。しかし骨が何本も折れてしまっています。内臓の損傷も一部激しいです。即死しなかっただけでも奇跡です」

「え……」

 誰が発した声なのかわからなかった。しかしそれは有澤の口から漏れ出た小さな慟哭だったのかもしれない。

 医師の話す内容を、有澤はとても受け容れることができなかった。彼女が、麻衣子がそんな大きな事故に巻き込まれてしまったことが、この期に及んでまだ心のどこかで否定していた。

「白石さんは車と衝突した際、勢い良く突き飛ばされたようです。そのおかげで、車輪に巻き込まれず、車体に踏み付けられたりされなかった。これは不幸中の幸いです。もしそのまま車に呑み込まれていたら――間違いなく即死でした」

「はい」有澤は弱々しく頷いた。

 その光景が頭の中で鮮明に出現した。自分に向かって突進してくる車――何と怖ろしい出来事なのだろう。幻想の中なのに、血の気が引く気がした。麻衣子は実際にそれを身を以て体験したのだ。

「しかし、これからは彼女の体力がどこまで保つのかという局面にあります」

「それは、いつ死んでもおかしくないということですか?」

 淡々とした口調で、有澤が言った。そこには一切の感情も込められてはいなかった。

「……その通りです」

 苦しげに医師は答えた。

 どうすることもできなかった。有澤は無力さを痛感した。彼女がいま生死を彷徨っているというのに、自分はただ情けなく震えているだけだった。彼女を生還に導いてやることさえできない。それが現実だった。その事実はなんと悔しく、そして虚しいことか。

「お願いします! 先生っ! 彼女をどうか救ってくださいっ! お金なら払いますっ! 彼女の命を助けてください」

 有澤は立ち上がって、まさに無我夢中に頭を深々と下げていた。必死の思いだった。どうにかしてでも麻衣子の笑顔がもう一度見たかった。その為なら何だってするつもりだ。

「落ち着いて。落ち着いてください!」

「先生……」

「ICUへ戻りましょう。彼女には、あなたの存在が必要なはずです」

「はい……」

 促されると、彼は走り出すのを何とか堪えて集中治療室へと戻って来た。麻衣子が眠るベッドに、彼女の両親が手を握って寄り添っていた。有澤はその光景を目撃して、まるで毒林檎を食べてしまい、目覚めない美女に寄り添う小人を連想した。こんなときにも関わらず、まるで白雪姫みたいだ、と全く関係のないことが思い浮かんだ。

 有澤の気配に気が付いたのか、二人は振り返った。

 彼らの顔を見て酷く泣いていたんだとわかった。無理もない。最愛なる娘がこんな状態で、平静でいられる親がどこにいる。

 有澤は気丈に見せようと努めた。だが顔が歪んでいるのがすぐわかった。どうすることもできなかった。

「麻衣子……」無意識に彼女の名を呼んでいた。

 ゆっくりとした足取りで彼女の傍へと寄る。二人が有澤の為に麻衣子の顔の見える位置へと誘導してくれた。

 いまにも目覚めそうな気配があった。

 有澤は彼女の手を握った。まだ温かくて、健常に血の通った心地好い手だった。こんなにもきちんと、体内の機能は十全と動いているのに、体温もある、血も流れている、心臓だって動いている、息をする声だって聞こえてくるのに、いま彼女は生命を手離すまいと必死に闘っていることが到底信じられなかった。死の淵に立たされている程とは思えなかった。彼女は、まだ生きているではないか。ただ単に眠っているだけではないのか。

 死ぬわけがない――有澤は自分に言い聞かせた。まだ生きているじゃないか、死ぬわけがない……そう何度も何度も。願いにも似ていた。

「白石さん、そして有澤さん、聞いてください」先程の医師が立っていた。筆舌し難い、頑なで、もどかしさと苦しさが混じっているかのようなあらゆる辛さを湛えた表情をしていた。「今夜が峠だと思います」

 医師が静かに言った。

 その瞬間、有澤の思考が氷結した。きっとおそらくそれは有澤だけではなかったのかもしれない。あまりに突然の発言に、それについて返事をする者が誰もいなかった。誰もが言葉を詰まらせる程に、衝撃的な内容を携えていた。

「そんな……そんなことって」

 ようやく確固たる言葉を発したのは有澤だった。だがほとんど無意識だった。一体自分はいま何を口走っているのかさえ把握できていないのかもしれなかった。

 麻衣子の両親に至っては、麻衣子が眠る布団に顔を埋めて声を殺して泣いていた。

「彼女の体力的にも、今夜が勝負です。回復することを念じることが、いま残された最善の手なのです」

 医師の言っていることはよくわかる。これ以上ない程にありとあらゆる手を迅速に尽くしてくれたことは、百も承知だ。しかし、現実はそれに応えてはくれない。着実に、愛する者を死へといざなおうとしているのだ。

「麻衣子! まいこっ」

 有澤は今一度、彼女の名を呼びかける。目覚めろ、死ぬな。還って来い、還って来いと、彼女に声が届くまで。決して、決して死んではならない。麻衣子、麻衣子……還って来い。麻衣子……


 4


 その後すぐに白石家の親族が何人か駆け付けて来た。見たこともない人間が何人かいたが、誰もが麻衣子の様子を目撃しては慄いた。その場で泣き出してしまう人もいた。彼女は家族のみんなから愛されていたのが窺い知れた。

 有澤は一人一人に自己紹介をした。麻衣子の婚約者ということを伝えると、皆この度の件について胸を痛んでくれた様子だった。白石家はみんな彼に優しくしてくれた。

 その中の一人は有澤の知っている顔だった。麻衣子の兄だ。麻衣子の実家へ挨拶に伺った際に会った。裕章ひろあきという名前だった。温厚そうな雰囲気だが、精悍な顔立ちで頼り甲斐のありそうな人物だった。いまはすでに結婚をしており、二人の子供に恵まれたらしい。幸せな生活を送っているようだ。麻衣子も、有澤に嫁いで兄に続いてそのような幸せを手に入れようとしていた。その矢先にこのような事が起きてしまったのだ。感情の矛先をどこへ向ければ良いのかわからなかった。

 白石家の皆の邪魔をしないように、彼は集中治療室から退室して、待合室へと行った。付き添いたいのは山々だったが、さすがに家族の邪魔になるようなことはできない。婚約者といえども彼はまだ赤の他人なのだ。その辺の立場くらいは弁えている。

 待合室のベンチに腰を掛けようとしたタイミングで、裕章がこちらへ歩み寄ってきた。有澤は背を伸ばして対面した。

「この度は痛み入ります」

 裕章が有澤に向けて深々と頭を下げてきた。

「いえ、そんな。それはこちらの台詞です。こちらこそ、麻衣子が大変な目に遭ってしまい、一体何を言えば良いやら……」

 しどろもどろになりながら、有澤は言葉を返した。上手い返しが思い付かなかった。言葉ではそうは言いながらも、信じられない程のショックを受けているのは事実だった。冷静な立ち居振る舞いをすることが、いまの彼にはできない。

 それは裕章とて同様のはずだった。ましてや彼は麻衣子の実の兄だ。言うまでもなく、有澤とは比べものにならない程の時間を共に過ごしている。痛みを感じているのは彼の方が遥かに大きいはずなのだ。傷付き、怖れ、焦燥と戦っているはずだ。それなのにも関わらず、彼は有澤の心境を一番に斟酌してくれた。何と強い人なのだろうと有澤は思った。その奥床しさ、決して弱さを見せず、常に相手の気持ちを鑑みる姿勢に有澤は尊敬をしていた。

「もうすぐ入籍する予定だったんだろう? それなのに、こんなタイミングで」

「裕章さんに非はありません。運が悪かったんです……誰のせいでもありませんよ」

 事実その通りだと思っていた。果たして誰を責め立てれば良いのだ。強いて言えばこの事故を起こした張本人である運転手だろうが、彼はすでに逮捕されている。有澤は犯人に対して呪いたい気持ちでいっぱいだったが、無意味な感情だと判っていた。そんなことはできやしないし、何よりも有罪であるのはもはや明らかだ。正式に法のもとで裁かれるのは時間の問題だろう。先の事故に巻き込まれたのは、麻衣子だけではない。

「うん……ところが、そうでもないんだ」

「どうしてです?」

 有澤は訝しんだ。会った時間も数も少ないこそすれ、ここまで罪悪感に顔を歪ませた彼を見るのは初めてのことだった。

 裕章は静かにベンチに腰を下ろした。それに倣うように、有澤もその隣に座る。裕章は両手の指を絡めさせて、深刻そうな眼差しでそれを見詰めている。忽ちに重々しい気配が二人を包んだ。

「麻衣子が事故に巻き込まれたのは、僕のせいなんだ」

 断言だった。有澤にはその言葉を正しく素直に聞き入れることができない。率直に言って、意味がわからなかった。

「どうして、そう言うのです?」

「あの駅は僕の家の最寄駅なんだ。今日、僕の家に麻衣子が来ていた」

「え? そうなんですか?」

 有澤が驚いたのは、前半の内容に対してだった。麻衣子が兄の家に寄るという連絡があったので、それについては知っていた。だが、まさかその場所が事故現場の近くだったとは、考えもしなかった。

「ああ」

「麻衣子は何をしに伺っていたのですか?」

「聞いてなかったかい?」

 裕章は姿勢をそのままに目だけを有澤の方へ向けてきた。些か意外そうだった。

「秘密だと、はぐらかされまして。深追いはしませんでした」

「そうか……」裕章は、そこで一旦言葉を区切った。話そうか話すまいか悩んでいるようだったが、まあこの際隠しておく理由もないかな、と一言添えて話を続けた。「――麻衣子がうちに来たのは、結婚についての相談をしに来たんだ」

「そ、そうだったんですか」

 少し意外だった。麻衣子とは定期的に会い、その件について何度も話を重ねてはいた。その度に幸せな想像が膨らみ、二人で共有した。もちろん、彼女の周りに結婚するという報告をしていたこと自体は知っていたが、相談する為に兄のもとへ足を運んでいたのは知らなかった。麻衣子の口から裕章の話を聞くことは皆無に等しかった。

「彼女は実に君との結婚を楽しみにしていたよ」

 裕章は口角をほんの少し上げて微笑んで来た。有澤は面映くなり、どんな表情をすれば良いのか迷った。いまこんなときに、そんな話を聞くことになるとは予想だにしていなかった。

「ど、どんな話を?」話題が話題なだけに、有澤は興味が惹かれた。

 裕章は今度はふっ、と息を漏らすように笑った。

「大したことではないんだ。僕が結婚する時はどんな風だったのか、とか、それに至るまでの過程や気持ちだとかを根掘り葉掘り質問されたよ」

「そうなんですか。なぜなんでしょう。僕と結婚することが心配だったのかな」

 少し不安になったが、裕章がすぐさまにその可能性を否定した。

「いや違う。むしろ逆さ」

「逆?」

「うん。さっきも言ったけど、麻衣子は君との結婚を楽しみにしていた。麻衣子は君のことが本当に大好きなんだと思う。あの時の顔を見せてあげたいよ。幸せな顔をしていた」

 確かに二人で会うときも、麻衣子は満ち足りたような顔をしていた気がする。その様子に満足して、有澤自身も幸福を全身で感じていた。

「では、一体なぜそんなことを?」

「おそらく不安だったのは麻衣子自身に対してではないのかな?」

「え?」

「君を幸せにできるのか。いやそもそも本当に幸せだと思ってくれているのか、麻衣子は君の心境を考えていたよ」

 何を馬鹿なことを。彼はその麻衣子の言葉を笑いで一蹴したくなった。不満などあるはずがない。麻衣子と結ばれることを、有澤は心から願っていたし、その事実に疑いもしなかった。これから、いやこれまでも、麻衣子と共に過ごす日々に幸福を感じなかったことはない。何も心配しなくていい、愛してる、と直接伝えたい衝動に駆られた。

 集中治療室で横たわる麻衣子の姿が頭の中で現れた。いままさにこの瞬間、彼女は生と死のはざまで彷徨っている。

「まいこ……」

 弱々しく口から愛する女性ひとの名が漏れ出ていた。早く帰ってきてくれ。また愛していると言わせてくれ。また笑顔を見せてくれ。心の底から強く希求した。

「すまない。征哉くん。僕がもっと早く彼女を帰してやっていれば、こんなことにはならずに済んだのに」

 裕章は立ち上がり、彼に向かって、再び頭を深く下げた。

「やめてください」有澤も同じく立ち上がって、裕章の肩を掴んで身体を起こさせた。「貴方のせいではありませんよ」

「しかし……」

 何ともやるせないような表情をしていた。自分の犯した過ちを呪っているようだった。そんな過ちなど存在しないと言うのに。この人達は、親子揃って似ているな、と、この場には到底相応しくない考えが及んだ。

「彼女のところに行きましょう。麻衣子は、まだ生きていますから」

 その言葉に、裕章は目に輝きを取り戻した。有澤と目を合わせた。

「ありがとう。うん、彼女のところに行こう」

 裕章は背を向けて歩き出した。有澤もその後に追随しようとしたが、その瞬間に着信音が鳴り響いた。

「すみません、先に行っててください。会社の者からだと思います。事前に今回のことを少し連絡してありましたから」

「わかった」

 裕章は頷くと、淀みない足取りで去っていた。

 有澤はスマートフォンを取り出した。

「ん?」

 表示されていたのは、『非通知』だった。

「もしもし……?」

 訝しみながらも通話に臨んだ。

 聞こえて来たのは静寂――ではなかった。しくしく、と静かだが確かに名状し難い音声が聞こえてくる。これは――

 有澤はどきりとした。さっきの間違い電話に相違なかった。家の電話が対応されなかったから、こちらへ掛けて来たのだろうか。なぜ番号を知っている? 様々な憶測が瞬時にして思い浮かんだが、この際問題はそんなことではない。

「またか。こんなときに一体何なんだ!」

 詰問口調になった。できることなら、大声で怒鳴りたい気分だった。こんな重大な時に、このような事に関わっている場合ではないのだ。

 だが、どうも様子がおかしかった。泣き声が、先程よりも激しくなっていた。おうおうおう、と言葉にも、声にすらならない声だった。

「どうした、何があったんだ?」

 思わず問い掛けていた。ただごとではない泣き声だった。有澤の中に潜む良心がついつい反応してしまう程に、いまにも崩壊してしまい兼ねない危うさがあった。

「ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね」

 壊れたテープのように延々と聞こえてくる声に、彼は堪らず電話を切ってしまった。もはやほぼ反射的だった。身体の隅々から不気味さを感じ、恐怖すら感じた。やはり悪質な悪戯なのだろうと自分に言い聞かせた。今日はとことん不幸な一日だと落胆した。

 有澤はその場で悩み込んだ。考えているうちにそこはかとなく閃きそうな気配があった。あの電話の相手、あの声は一体――、その時だった。

「有澤さんっ」

「はい」

 看護婦が一人走ってきた。とても緊迫した面持ちだった。有澤は悪い予感がした。

「すぐに来てください。白石さんが」

 言い終えるのを待たずに、有澤は足を動かしていた。


 5


 集中治療室へ急いで駆け付けると、出入り口に大勢の人間がごった返ししていた。白石家の方々だ。裕章の姿も見えた。誰もが深刻そうに、或いは焦燥しきり、或いは泣き出している者もいた。様々な表情で集中治療室の中を食い入るように窺っていた。

「すみませんっ」

 有澤は気が気でなかった。

「征哉くんっ」裕章が有澤の姿を見た瞬間に声をかけてきた。「麻衣子が、麻衣子が!」

「麻衣子は、どうかしましたか!?」

 その先を、本当は聞きたくはなかった。すでに最悪の末路を想定してはいたが、それでも実際に聞くことを怖れた。むしろ希望を懐こうと必死だった。麻衣子が目を覚まして一命を取り留めた。すっかり元気になってもう何も問題ない。そのような報告を望み、どこかで期待した。

 しかし、現実は飽く迄も非情だった。

「突然弱まってきたらしい。このままでは……」

 その先を裕章は言わなかったが、何を言わんとするかは正確に理解できた。理解できたからこそ、有澤は泣き出したくなった。嘘だ、そんなことがあるはずがない。

 彼は集中治療室の中へ入ろうとした。すでに周りのことなど眼中になかった。

 看護婦は彼を止めなかった。彼が進み入ることを黙認した。

 何かの機械音が断末魔のように鳴き叫んでいた。有澤は麻衣子のもとへ駆け寄った。麻衣子の両親もいた。

「まいこっ」

「先生、助からないんですか!?」

 麻衣子の母が娘の名を呼び、父は医師に縋るようだった。何が何でも麻衣子の命を繋ぎ止めたくて、不様ながらも必死だった。有澤も、その気持ちは一緒だった。

 有澤が麻衣子のもとに寄ると、後ろから裕章もやってくるのがわかった。みんなで麻衣子を見守る。

 その麻衣子本人は苦しそうな表情などは一切していなかった。静かにその時を迎えようとしているかのように、ただただその場で眠っているだけだった。いまにも目覚めそうな気配さえある。本当に今際の際に立たされていることが嘘だと疑いたくもなる程に、有澤達が知悉している、いつもの美しい寝顔だった。

 その傍らで、何人かの医師達が血眼になって手を動かしていた。一体何をしているのかは有澤には理解できなかったが、彼女の生還の可能性を模索していることだけわかった。

「離れてください」

 医師の一人が言った。

「まいこっ。まいこっ」

 麻衣子の母が叫び続けていた。

 医師の声など耳に届かなかった。そのまま傍にいてあげたかったが、診断の邪魔になるのか、看護婦達によってこれ以上の麻衣子への接触を許されなかった。

 有澤は茫然自失とした。ただその光景を見ていることしかできなかった。

 拳を強く握った。自分は、何もできないのか。麻衣子が必死に死にたくないと言っているような気がした。悲鳴がいまにも聞こえてきそうだった。生きたい、生きたい、そう縋るような声が聞こえてきそうな気がした。だが自分は何もできない。彼女の命を助け出すことができない。何たる無力か――有澤は泣き出していた。リノリウムの床に彼の涙によって濡れていくのがわかる。いつの間にか崩れ落ちていた。死ぬな、死ぬな、死ぬな、いまはただ願うことしかできない。

 麻衣子と過ごした日々が蘇ってきた。疲れを癒す為に一杯飲みたくなって、仕事の帰りに一軒のお店に寄った。そこで二人は出逢いを果たした。麻衣子も一人で飲んでいた。肌が白くて、とても美しい女性だというのが第一印象だった。すかさず彼女に声を掛けた。ほぼ無意識だった。有澤の一目惚れだったのだ。仕事に疲れたんだね、という内容の会話をやり取りして、すぐに意気投合した。二人はその場で連絡先を交換した。距離が縮まるのにそれほど時間はかからなかった。その後何度か会うことを重ね、自分から告白した。返事はその場で貰えた。「私も同じ気持ちです」と照れながらにもまっすぐに答えてくれた。有澤は飛び跳ねたくなる程に嬉しくなり、そのまま彼女に抱き着いた。後にその話をして、あの時の征哉くんは子供っぽくて可愛かった、と何度も揶揄された。有澤はその度に照れてしまったが麻衣子は満更でもなさそうな表情をいつもしていた。いまでさえ、彼女の顔を見る度に気持ちが膨れ上がっていくのがわかる。交際の歳月を重ねていく度に、有澤はこの人しかいないと確信に変わっていった。そして記念日にプロポーズをした。しどろもどろになりながら情けないプロポーズになってしまったのは苦い思い出だ。彼女はぷっと笑い、「宜しくお願いします」と一応の建前の返事をしてくれた。自分は何と臆病なんだと自分自身を恨みたくなったが、幸せの絶頂だった。それは、いまも、そうだ。

 着信音が聞こえてくる。こんな時に何なんだ、と彼は怒鳴りたくなった。その音は、他ならぬ有澤のスマートフォンだった。

 そのせいか、彼はしばし正気を取り戻した。さっきのやつか、そう思いながらスマートフォンを取り出し、画面を見た。

「え?」

 彼はビデオの停止ボタンを押されたかのようにそのまま硬直した。思いも寄らぬ文字の羅列が表示されていたからだ。

 ――白石麻衣子。そう表示されていた。

 馬鹿な。麻衣子はいま目の前で生死を彷徨っている。彼女が電話を掛けられる訳がない。一瞬、見間違いかと思ったが、ディスプレイには間違いなくその名があった。

「もしもし……?」

 彼は思わず応答した。彼女の携帯電話を使って、他の誰かが掛けて来たのかと考えた。いずれにしてもこの電話の正体を確かめておかなければならない気がした。

「ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね」

 さっきの非通知着信の時と同じだった。涙声で、何度も何度も、まるで懺悔をしているかのように、まるで自分の罪深さに耐え兼ねたかのように、何度も何度も詫びの言葉が続く。

 有澤は眉を顰めた。さっきは思わず切ってしまったが、この声に聞き覚えがあった。まさか――

 彼は集中治療室から出た。この電話の相手ときちんと話をする為に。

「君は――」

「ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね」

「君は、麻衣子、なのか?」

 彼は思い切って尋ねた。何を馬鹿なことを言っているのだろうと思いながら、それしか考えられなかった。この声は、紛れもなく、有澤征哉が唯一愛している人のそれに違いない。

 延々に続いた声がその瞬間に途切れた。それは確かな反応だった。そして――

「うん、そうだよ」

 有澤は全身が痺れた。思考と理性がすでに分断されてしまったかのようだった。どんな思い違いでもなく、この声色は、白石麻衣子のものだった。

「どうした? 麻衣子」

「うん。あのね……」

 時が止まったかのように静寂になった気がした。いまこの瞬間、この世界で動いているのは、有澤とこの電話の相手。たった二人だけの空間を置いて乖離されてしまったかのように。

「うん」

「ごめんね、征哉くん。私、もう死んじゃうみたい」

「そう、なのか」

「……約束、守れない。結婚する約束、守れないや。ごめんね、ごめんね」

 啜り泣く声が聞こえてきた。彼女が泣いている。果たせなかった約束を背負い、罪悪感に押し潰されそうになっている。だから、有澤が答えることはひとつしかなかった。

「いいんだ。麻衣子、もう、いいんだ。よく頑張ったな」涙声になっていた。

「ごめんね。征哉くん、大好きだよ」

 その瞬間、堰を切ったように澎湃と涙が溢れ出した。それを、その言葉を言いたかったのは、こっちの方なのだ。

「麻衣子、愛してる」

「もう、いかなくちゃ。征哉くん、征哉くん……バイバイ」

「バイバイ……麻衣子……」

 電話が切れた。

 それと同時だった。けたたましく鳴っていた心電図は途端に静かになり、そして、一定の音が延々と途切れることなく続いた。大勢の人達が泣く声が聞こえてきた。

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