1話
全力で逃走した和正は、息を切らしながら。電柱に寄りかかり、呼吸を整える。
「はぁはぁ……ったく。今日は、厄日だ。朝から不良に追われるし、次は執行人にきっと目も付けられたし……。もしかして……俺の人生詰んだか?」
『和正、でも不幸だけじゃない。あの娘のパンツも見れたし、胸だって揉めたでしょ? いやぁ、私の見立て通り。あれは優秀な胸よ、更なる成長が楽しみだわ』
気分が落ち込んでいく和正に対して、ブルストはむしろ上機嫌だった。どうやら、ヴィルヘインの胸が相当、気に入ったらしい。だが、彼女自身が揉んだのなら和正にとって問題ない。
彼女に無理矢理、揉まされたと言っても、揉んだのは和正だ。そこは言い逃れが出来ない事実だ。
「ったく昔からだ……」
和正にとり憑いた、『胸を借りる者』は昔から彼の手の自由を先程のように奪い、様々な女性の胸を揉んできた。そのたびに、彼は殴られ軽蔑され、女性が近寄ってくることもほとんど無くなってしまう。
聖霊は他者には見えず、とり憑かれた本人にしか感じることも触ることも、声も全く聞こえない。
他者が確認できるとしたら、聖霊を武器として現界させた時だけだ。武器として現界された聖霊は意識はあるが、基本的には武器としてとり憑いた者に従い、自分で動くことはない。
だが、和正の支配力が弱いためか、『胸を借りる者』は勝手に動いてしまう。
力を上手く扱えない和正のせいと言えば、そうなのだが。だからこそ、彼はこのタカマガハラで扱う術を学んでいた。
『ほらほら、和正。そんなに落ち込まなくても、何とかなるわよ。前向きに、前向きに』
「他人事だと思って、そんな適当なことを言いやがって……」
『だって、他人事だしね。ほらほら、早く行かないと学校に遅れるわよ』
全く気にしてない彼女に、怒りをかなり覚えた和正だったが。息を一旦、整え。気持ちを入れ換えて、学校へと向かう。
朝から走りっぱなしだった彼の体力を、強い光を放つ太陽が奪っていく。体中から浮かび上がる汗に気持ち悪さを感じるが、タオルを持っていない為、拭うことも出来ない。
そんな気持ち悪さと疲れと戦いながら、和正は学校へと到着する。玄関先では楽しそうに話している他の生徒を見て、この災難を代わってほしい、と和正は思った。
靴箱に靴を入れると、一人の少年が彼に声をかけた。その少年は、お洒落に全く関心がない和正とは違い。髪を整髪剤でしっかりと整え、流行りの髪型をしている。
和正とは対称的な少年だった。
名前を、宮前大久という。
「おいおい、和正。朝からぐっしょりだな、どうした今日は雨なんか降ってないぜ?」
「うるせぇよ、こっちは朝から大変だったんだ」
「何か面白いことでもあったのか? おいおい、聞かせてくれよ」
「面白くなんか全くない話だ。朝から、結果的に人助けして。不良に追われ、最後は執行人からも逃げてきたんだよ……」
「おいおい、何で執行人に追われるんだ? 何かやらかしたのか?」
「胸を……揉んだ」
「はっ?」
再度、大久は聞き返す。
「だから、胸を揉んじゃったんだよ」
「何だよ、そんなことか!! むしろ、ラッキーじゃん!!よっ、ラッキースケベ!!」
「大久……お前もか」
「何だよ、暗い顔すんなって。俺に代わってほしいぜ。全く、んでその子は何って名前なんだよ」
「えっと……ヴィルヘイン……」
その名前が出た瞬間に、笑顔だった顔が凍りつく。そんな凍りついた顔のまま、肩に手を乗せてきた。
「和正……。今までありがとな、お前といれて幸せだったぜ」
「お、おい。何だよ、その態度の変わり様は!」
「お前、ヴィルヘインって名前知らないのか?」
「知らないけど……凄い人なのか、あの人?」
大久は、あからさまにため息をする。
そんな彼の態度に怒りよりも、不安が募り始める。
「凄いも凄いぜ、ヴィルヘインは中学の時にこのタカマガハラに来たんだが。高校生にならないと執行人にはなれないのは知ってるだろ? でもヴィルヘインって奴はその実力の為、執行人に指名された。つまり、ルールを変えさせた程の実力者だ」
「そ、そんな……凄い人だったのかよ……」
「それにだ、彼女が関係した事件は全て解決している。最近も一人で不良グループを一つ潰したらしい」
「なん…だと……」
「だから和正、お前は終わりだ。お前との学校ライフ楽しかったぜ。じゃあな、今日はもう話かけるなよ。俺まで敵視されたくないから」
そう言って、彼はその場を立ち去っていった。
和正は、絶望した。
まさか、それほどの実力者にあんなことをしてしまったとは思っていなかった。
彼女が目の前に現れたら、その時は和正の死刑宣告が下されるということ。彼の人生は、今日で終わりを告げていた。
「あぁ~……詰んだ……。もう完璧、詰んだよ」
『いやぁ、まさかあの娘が相当な実力者だなんて。実力を持っている者は、いい胸を持っている者ね。勉強になったわね、和正』
「勉強になったわね、じゃねぇよ! はぁ……もう詰んだ~……」
肩をガクリ、と落とした和正に近づいてくる影が一つ。和正はすぐに正座し、土下座の体勢に入る。その間、わずか二秒という速さだった。
「すみません、ごめんなさい、ごめんなさい!! い、命だけは……どうか命だけは!!」
「か、和正君……? どうしたの?」
聞き慣れた声が耳に響き、上を見ると気の弱そうな少女が立っていた。前髪で、目元を隠し。背中まで伸びた後ろ髪は鮮やかでよく手入れされているのが分かった。
「何だ、梓か。良かった~……」
安堵のため息を漏らす、和正に首を傾げ。彼女は、おもむろにバックの中から、可愛らしいウサギのキャラクターが描かれたハンドタオルを取り出す。
「は、はい。和正君、汗拭いて」
「あぁ、ごめん。ありがとな」
彼は、借りたハンドタオルでまずは顔の汗を拭い、首元を拭く。
「っと、このタオル。しっかりと洗って返すから。一日、今日貸していてくれないか?」
「えっ? あ、洗わなくてもいいよ。そのまま返してくれれば……」
「何言ってるんだよ、嫌だろ? それに人に借りた物は、しっかりと返したい性質だからさ」
しゅん、と何故か落ち込む彼女を見て。正直、和正は反応に困ってしまう。だが、梓も自分があからさまに落ち込んでいる姿を。見せてしまったことは分かったらしく、彼女は取り繕うように平気な顔に戻った。
「そ、そ、そうだね。やっぱり、貸したからにはきっちりと洗濯して返してもらわないと……困ちゃうよね?」
「いや、聞き返されても……な。まぁ、とりあえずしっかりと洗って返すから。じゃあな、梓」
「えっ、あっ、うん」
梓とはクラスが違うため、玄関で別れを告げる。
まだ何か言いたそうだったが、自分と話している所をヴィルヘインに見られ。彼女まで敵視されるのは、忍びない。
今日は、一日誰とも話さない気持ちで和正は、教室へと向かっていく。
『ねぇねぇ、和正~。タオル、洗わないで返してあげたら? あの娘もその方が、本望みたいだし』
「何言ってんだよ、そんなことあるわけないだろ。タオルは、しっかりと洗って返すよ」
『そう、まぁ和正がそうするなら。私は、これ以上は何も言わないわ。ちょっと眠るわね、どうせ授業が始まっちゃうんだろうし』
「へいへい、どうぞごゆっくり休んでてください。その間、俺は怯える一日を暮らしますよ~だ」
拗ねた口調で話す和正を無視するかのように、返事はなかった。どうやら本当に眠ってしまったらしい。一人、和正はヴィルヘインの影に怯えながらゆっくりと教室のドアを開けた。
いつもと変わらない、光景。
男女が楽しそうに、または暗い雰囲気で不満や昨日のことなどを話している。そんなクラスメイト全員が、窓側に意識を持っていかれる。
それは、 和正も例外ではない。
何故なら、校門から拡声器を使って、彼の名前を叫んでいる者がいたからだ。
「新内和正ぁぁぁ!! 出てきなさい、うちの生徒だってことは分かっているのよ!! 自分から出てきたのなら、少しぐらい刑を軽くしてあげる! 十秒待って来なかったら……私から行くわよ……?」
校門から拡声器を使って、再度、同じことを全校生徒の中の一人である和正に呼びかける。
ヴィルヘインは、激怒していた。
むしろ逃げてしまったことが、裏目に出てしまったかもしれない。会わなければ、なんて思っていたことが甘すぎたことを和正は悔いた。
急いで、玄関へと駆けていき、彼女の前に姿を現した。ヴィルヘインは、拡声器を放り投げ、あの奇怪な武器を取り出す。
ゆっくりと近づいてくる彼女。
彼女から感じるそれは、正に執行人。
どんな聖霊憑きをも黙らせる、死神だった。
「新内和正、貴方に刑を執行します!!」
彼女は、和正にそう告げた。