始まる
今日も、ゼロ。
陰鬱な数字をノートに記してから、フィオレは低く長い溜め息を吐き出した。
このノートに最初の一文字を書いた時、心に決めたことが一つあった。ゼロを書く日を、ゼロにしよう。しかしそのフィオレの志を嘲笑うが如く、この「火竜屋」には人が来ない。開店から早くも3ヶ月、このノートにはゼロ以外の数字は一つも見当たらない。
いっそのこと閉店時間を遅くしよう、と何度考えたことか。しかしそんなことをしては家事に手が回らなくなるし、家事をしなければ家賃を出してくれている弟に申し訳が立たない。それに閉店時間を遅くしたところで、客足が集まるとも思えない。
渋々カウンターから立ち上がったフィオレは、重い足を引きずって店先の看板を「CLOSE」にひっくり返し、電気を消し、よろよろと2階の住居へと移動した。
そのまま自分の部屋に入り、棚の中の大きな缶をひとつ取ると、再び1階へ引き返す。フィオレの降りてくる足音に気付いた彼が、ようやくの食事の時間に嬉しそうに首をもたげた。
丁度そのタイミングで、玄関の扉が開かれる音が聞こえた。少しして店の方に顔を出したのは、弟のセルヴだった。
「ただいま、姉貴。またゼロ?」
「おかえり、セルヴ。また、なんて言わないでくれる?これでも立派に落ち込んでるんだから」
「客来ないから落ち込んでるんじゃ、姉貴の身がもたないだろ? この3ヶ月、客が来た試しがあったのかよ」
「あんたはもっと姉の身になりなさい」
しかし弟の言葉がもっともなだけに、反論なんてとても出来ない。頬を膨らませながらも、フィオレは巨大な受け皿目掛けて缶を逆さまに引っくり返す。たちまち受け皿は茶色い粒で一杯になり、待ってました、とばかりに彼が嬉々とそれを食べ始めた。
「っていうか、客が来ないのは明らかにそいつが問題だろ? 捨てろなんて残酷なことは言わないから、せめて居住階に連れて行けよ」
もう何度も聞いたセルヴの助言に、フィオレもいつも通りに反駁した。
「嫌よ。このお店の看板犬なんだから! なんでお店の名前を火竜屋にしたか、セルヴだって知ってるでしょ?」
「犬じゃないし……あのな姉貴、このドラゴンに限らず、ドラゴンを怖がらないのは姉貴ぐらいなんだよ。普通に生きてる人からしてみたら、ドラゴンは恐怖の象徴。子どもとはいえドラゴンのいる店になんか、誰も来ないのは分かるだろう?」
「私はそもそも、その考えを直したいの! ドラゴンはそんなに危険な生き物じゃないわ、みんなが必要以上に怖がるから、ドラゴンだって…」
「それはドラゴンに襲われたことのない姉貴の言い分だろうが」
すると一足先に食事を終えた彼…「火竜屋」の看板犬、いや看板竜が、眠そうに大口を開けてあくびをした。それだけでセルヴはさっと距離を取り、腰に下げた短剣に手をかける。一般の人からしたら当然の反応なのだが、セルヴの動きはそれより洗練されている。セルヴは郊外の野生ドラゴンを捕縛・駆除で生計を立てているから、ドラゴンのふとした行動でも常々こうした反応を見せてしまうのだ。
しかし火竜屋のドラゴン・スザクは、そんなセルヴの反応をチラリと一瞥しただけで、ゴロリとその身を横たえさせた。以前セルヴを襲った時にフィオレが注意をしてから、スザクはセルヴを襲わなくなっていた。ドラゴンというのは凶暴なのが特徴だが、スザクは何故かフィオレの言うことには素直なのだ。セルヴは「姉貴を親とでも思ってるんだろ」と投げやりに説明したが、内心ではそうは思ってないのは明白だった。
「とにかく、こいつは職務時間は姉貴の部屋、それ以降は店に置いとくのが一番だ。あと店の名前も変えろよ。客怖がらせても意味ないだろ」
「うぅ……」
了解はしたくない、しかしこれ以上セルヴに迷惑をかけたくない、と、フィオレの中で葛藤が起きる。客数ゼロということは、勿論イコール収入ゼロなのだ。そもそも店を開け、屋根の下で暮らし、スザクに餌を与えることが出来るのも、セルヴがこうして日夜働いてくれているからこそだ。それぐらいはフィオレだって重々承知だ。蛇足だが、スザクが食べているのは市販のドッグフードである。ドラゴンに生肉の味を覚えさせるのはよくない、というセルヴの意見に基づいた餌付けだ。
しばらく黙考し、悩み続けたフィオレだったが、渋々頷いた。そろそろセルヴに甘える生活は辞めねばなるまい、と昼間から考えていたからだ。
「分かった……。明日は定休日だし、お店の内装と看板変えて、買い出しする」
「それがいい。明日は俺も休みもらってるし手伝うよ」
言いながら、セルヴはさっさと階段へと姿を消した。セルヴの寝室は、スザクの寝床から最も遠い3階だ。
セルヴが扉の音を閉めたのを確認してから、フィオレはスザクの大きな首を撫でながら呼びかけた。
「ごめんねスザク。明日からしばらく、お昼の間は寂しい想いをさせちゃうけど…。我慢してくれる?」
ドラゴンに人間の言葉が通じるのかどうかは定かではないが、それでもスザクは不満気に喉を鳴らした。