第2章 ④
言葉が出ないものの、ナユタは口を開け、目を見開いたまま、その場を動くことが出来なくなっていた。
巨大な胸を揺らしながら、悠然とナユタとルクレチアの前に立った長身の赤髪少女。
同じ制服とは思えない派手な着崩し方は、胸の谷間を強調させていようだった。
(この子も、私と年が近いんだよね?)
彼女のくびれた腰がナユタの顔の前にある。人間離れした素晴らしい体型だ。
しかし、ルクレチアは怒っている。それをもはや隠そうとしていないことが問題だった。
(なんか、いろんな意味で、命懸けの学生生活になるかも……)
生徒たち全員がルクレチアと同じような常識では理解不能の力を持っているのだ。
何も持たないナユタは、どう立ち回れば良いのか、考えたくもなかった。
「あらあら、貴方が笑顔で誰かと一緒にいるなんて、不吉の予兆かしら? 怖いわ」
甘ったるい低い声。彼女は胸の谷間から取り出した扇子を広げ、高笑いをした。
話しているのはヒースクラウト語だが、扇子を持っているところを見ると、異国人かもしれない。
ナユタが「扇子」のことを知っていたのは、アベルが異国土産でもらって見せてくれたからだ。
普通のヒースクラウト人は、折り畳みの扇があることなんて知りもしないはずだ。
「幸先悪い始まりですね。想像以上に最悪ですよ。ナユタさん」
「はっ?」
「紛い物の筆頭が来たということです」
「……紛い物?」
「あの不釣り合いな巨大な見世物は何なんでしょうね?」
ルクレチアに指を差されて、再び彼女の巨乳に目がいった。
「…………偽物?」
あれが? つまり、偽物ということ……なのか?
それにしたって、あんな重そうな物を持って歩くのは、大変そうだ。
「あら。今日は逃げないのですね。ルクレチアさん?」
「逃げる? 私が? 朝から人聞きの悪いことを言う。まだ寝ぼけているんですか?」
「ほほほっ。寝ぼけてる? まあ、確かにそうね。貴方が誰かと肩を並べて登校する様を目にしているなんて、わたくし自分が信じられないわ。まだ夢を見ているのかしら?」
一本に高く結った髪をこれ見よがしに片手で掻きわける。途端に、濃厚な花の香りが周囲に満ち溢れた。
ルクレチアは、顔を顰め、鼻を摘まんだ。無理もない。鼻腔を刺激する香水の匂いは、咳が出るほど苛烈だった。
「ルクレチア。……この人は、一体?」
「ナユタさん。どうか見なかったことに……。それは人ではありません。こんなモノを、まともに相手にしていたら、陽が暮れてしまいます。そういうことですから、さあ」
「えっ?」
「そろそろ授業も始まりますので、とっとと行きましょう。私の役目はそれ。貴方の義務もそれで果たせる。座っているだけの簡単な仕事ですよ。他はどうだっていいんですから」
「…………ええっと?」
―――それで良いわけ?
あえて言葉にせず、目で訴えてみたが、ルクレチアは笑顔で受け流して、ナユタの鞄を引っ張り、前に進んだ。
――けど、……駄目だった。
「待ちなさいっ! 学級委員であるわたくしアレクサンドラ=ライトに、挨拶の一言もさせないなんて、酷いんじゃなくて。ルクレチア!」
「夢を見ていると言ったのは、貴方じゃないですか? そのまま永遠に夢を見てなさいよ」
この上なく、にっこりと微笑するルクレチアは脆い硝子みたいだった。多分、ちょっと押しただけで、簡単にすべてをぶち壊す。
ナユタも目立つことには慣れていたが、いらぬ火の粉を浴びて目立ちたくはなかった。
「あー……っと。学級委員って。凄いね……。二人とも同じクラスなんだ?」
「ナユタさん。……放っておこうって言ったでしょ?」
「でも、絶対無理だよ」
彼女の爬虫類のような眼差しが、逃すまいと凄んでいる。
これを毎日無視していたのなら、ルクレチアは凄まじい精神力の持ち主だということだ。ナユタには絶対に無理だ。
「ふふふ。その通り! そうよ。わたくしがアレクサンドラ=ライト。覚えて下さいな。アレクサンドラ=ライトですのよ。これからは、学級委員のわたくしのことは、無視せず一番初めに、ちゃんと挨拶して下さいね」
「あ、はい。これからは注意します。アレク……サンドラさん」
「ナユタさん。貴方が謝る必要などないのです」
「だけど、このクラスのしきたりとかあるかもしれないし……」
「何ですか。しきたりって? 貴方は、理事長の妹です。兄に言われて仕方なく、ここに来たのだと胸を張っていればいいんですよ」
「それもどうかと思うけど?」
「まったく、面倒だな」
多分、その一言が彼女の本音だ。
でも、あのまま知らぬふりをして教室に行っても、同じクラスならば、いずれ彼女に会ってしまうではないか?
動揺しながら、アレクサンドラとルクレチアを交互に見比べる。
何もかも対極にあるような二人だった。褐色の肌に猫のような大きな碧眼をしているアレクサンドラと、透き通るほどの白い肌に、清らかな銀髪のルクレチアだ。
ナユタの気持ちを察したように、ルクレチアが渋々答えた。
「アイツは、南方の王国出身者なんです。私は元々祖父が北方の出なので色素が薄いのです。もっとも、私はヒースクラウト人ですけどね」
「そうなんだ」
「あら、ルクレチアさんったら、よくご存知ね。わたくしのことがそんなに気になるの?」
「はっ?」
「あら、いいのよ。皆まで言わなくても。貴方が照れ屋なのは、分かっているのですから」
「どうして、そうなるんですか? おかしな学校であれば、尚更のこと。情報を仕入れるのは当前のことです。不審人物の素性くらい知っていなければ、危なくてやってられない」
ルクレチアは、あからさまな皮肉で言ったつもりだったのだろう。だが、アレクサンドラは「あら。礼には及ばなくてよ」と高らかに声を張り上げ、得意げに鼻を鳴らし、ついでに胸も反らしていた。
一体、彼女は何がしたいのか?
「……なぜか、私、毎日のようにヤツに絡まれるんですよ。正直、良い迷惑なんです。だから、無視してれば良かったのに……」
ルクレチアは、怒りとも疲れとも取れない溜息を零した。
「それだけルクレチアのことが気になるんじゃないかな。二人とも綺麗だから」
「…………はあ」
ルクレチアが派手に肩を落としたので、ナユタは慌てた。
「えっ。どうして? 私、落ち込ませるようなこと言ったかな?」
二人が何も言わないので、ナユタはそれでも白々しい言葉を紡ぐしかなかった。
「いやー。アレク……サンドラなんて、ルクレチアといい、皆、凄い威厳のある名前だね。やっぱり、ここはお嬢様学校なんだね。 ははっ」
「…………名前……もね。紛い物だったりするわけですが……」
小声でルクレチアが何事か呟いていたが、残念なことにナユタの耳には届かなかった。
「何か言った? ルクレチア」
「いえ。別に。……朝から、とんでもない奴に行く手を憚れて、苛々しているだけですよ。昨日からどうも、私は災難続きでしてね。こんなとんでもない奴、どこか飛んで行ってくれれば良いのに……て、内心呟いていただけですから、心配しないで下さい」
今度は、はっきり聞こえた。この台詞こそ、小声で言えば良かったものの……。
(ワザとだ……。絶対、ワザとやった)
「ルクレチア。言ったわね。とうとう言ったわね。アレクサンドラなんて殺してやりたいほど嫌いだって!」
「さすがにそこまで、ルクレチアは言ってないよ」
「あら。ナユタ=バーランド。でも、消えて欲しいって、要するに、私のことを殺したいってことでしょ? これは挑発ってヤツよね?」
「飛躍しすぎだから」
本気で突っ込むと、ルクレチアが首を横に振っていた。もう、何を言っても無駄らしい。
「ルクレチア! …………ようやく、わたくしの喧嘩を買ったのね! ああ。この日が来るのを、わたくしはどんなに待ち望んでいたことか。オホホホ」
「オホホって?」
やっぱり、この学校は変態の集まりなのか。アベルがマシに思えるのが情けなかった。
「つまり、貴方は入学してからずっと、私と戦いたかったんでしょう? 一応、校則で生徒同士の決闘が禁止されていますからね。退学せずに私と争うためには、喧嘩に持ち込む必要があった。この学校、喧嘩はなぜか推奨されていますからね。まったく、アホらしい」
「あら、毎日、理事長に勝ち目のない喧嘩を売っているアホは誰かしら?」
「一緒にしないでもらいたいですね。私の場合、あっちが絡んでくるんです」
「それは、あんたが校則破るからでしょうがっ!」
やや言葉遣いは乱れたが、もっともな理屈だ。しかし、ルクレチアはあっさり無視した。
「まったく……」
額を押さえ、片手を腰に当てたルクレチアは、呪文を唱えるように滑らかに言った。
「本当、馬鹿ばかりで嫌になる。アレク……何でしたっけ? こんなことのために、ずっと私を待ち構えていたんですか。何がホホホ……ですか? 気持ち悪いんですけど?」
「何ですって!?」
「まだまだ言い足りませんよ。その変な臭いの香水やめて下さい。あと、その紛い物の胸もどうにかして下さい。嫌でも視界に入って来て目障りです」
「男は巨乳好きって、相場は決まってるのよ!」
「そんな相場は、頭の中でしろよ。バカ。いいから、来い! 瞬殺してやる」
「ああ! はなっから、そのつもりだよ! お前は入学した時から、スカした顔が気に入らなかっんだ! オレが勝つ!」
(……あれ?)
もはや、二人とも「女」ではなくなっていた。
呆然とするナユタをその場に放置したまま、ルクレチアは髪を一本抜いて杖を作りだし、アレクサンドラは、前歯で人差し指をきつく噛むと、薄ら滲んだ血液を宙に垂らした。
その瞬間、何もない空間から、巨大な扇子が出現する。アレクサンドラはその透明の扇子を広げると、得意げに肩に担いだ。
「その薄汚い杖なんかより、こちらの方が、遥かに優雅で風格がある」
「…………なるほど。お前は血液か」
「どういうこと?」
「ああ、ナユタさんは、よく知らないんでしたよね。法術師が術を使うには、代償が必要なんです。神様ってものが存在しているのか、それとも悪魔との取引なのか、ともかく、自分の身体の一部、または大切なものを与える。それをギフトと呼びます。私は髪の毛。あの人は血液……ということでしょう」
「へえ」
時間稼ぎのつもりで口にしたはずだったが、知らない知識に、ナユタは素直に驚いた。
「――ということは、兄さんも、グレイテル先生も何か捧げてるってこと?」
「術師は、捧げ物に関して自主的には話しませんよ。私は特別です」
「…………髪の毛……か。本当、魔術めいているよね? ルクレチアは、毎回、杖を呼び出す度に髪を抜いてるってことでしょ?」
「いや、あの……」
それはナユタからすると、極めて純粋な質問だったのだが、ルクレチアにとっては、痛恨の一撃だったらしい。前方のアレクサンドラが容赦なく突っ込んだ。
「…………ハゲ? …………つまり、近い将来ハゲ決定ってことだろ?」
「……………………」
身を乗り出した生徒たちが固唾を飲むのが分かった。
「私の父も祖父もハゲてませんし、万が一、ハゲたとして、また術で生やせば良いんです」
「生やす? つまりはハゲじゃないか?」
――――果てしなく長い沈黙。
「とりあえず、私に恥をかかせたお前には死んでもらって」
「ちょっと、待て。事実を指摘したまでだろう?」
「黙れっ。エセ巨乳!」
杖の先端から、廊下一杯に紫の炎を作り出したルクレチアは、アレクサンドラに挑みかかる隙を窺う。肩から扇を下ろしたアレクサンドラは、体が隠れるほど、扇を広げてその時を待ち構えている様子だった。
「だっ! 駄目だよ! ルクレチア」
(私のせい? もしかして、私がきっかけ作っちゃつたの!?)
これ以上騒ぎを起こせば、ルクレチアの退学は決定的になってしまうのではないか?
これは喧嘩ではない。二人共本気だ。命懸けで戦おうとしている。何がお嬢様学校だ。昨日、グレイテルがやけに暢気だった理由が分かる。外見は少女でも中身は野獣なのだ。
「こんな馬鹿げた理由で殺し合いとか、あり得ないし……」
だけど、二人共ナユタの懇願には耳を貸してくれなかった。
―――ルクレチアが杖を前に傾ける。
―――アレクサンドラが巨大な扇子を広げて待ち構える。
もう駄目だった。気が付けば、ナユタは、猛然と走りだしていた。
―――そして、アレクサンドラの前に仁王立ちになったところで……
「いい加減に、してっ!」
手にしていた革の鞄で、ばちんっと、おもいっきり彼女の顔面を叩いたのだった。
「………………へっ?」
突然、想定外の攻撃を受けて、鼻の頭を赤くしたアレクサンドラは唖然としていた。
あれだけざわついていた周囲もしんとしている。
――…………やってしまった。
アベルの妹だからと、幼い頃から様々な武術を身に着けているナユタだ。
おかげで、敵意を向けられると、反射的に相手を斃そうと体が動いてしまうのだ。しかも異性の場合ばかり想定していたので、道具を使うことがほとんどという卑怯ぶりだ。
「一体、何?」
「すいません! アレクサンドラさん! ……つい」
「いいんですよ。ナユタさん。そんな古典的な方法でやられた方が悪いんですから」
「……んだと!」
アレクサンドラは、怒り心頭にナユタを睨んだ。こういう場合、一発、殴られておくべきなのだろうか。真剣に悩んでいると……。
「はーーい。そこまでっ!」
わなわなと震えるアレクサンドラとナユタの間に、大きな影が立ち塞がった。
「に、兄さん……」
いつの間にか登場していた黒いドレス姿のアベルが、持っていた日誌でアレクサンドラとルクレチアの頭を交互に叩いた。
「理事長が、どうして……?」
とたんに扇をかき消したアレクサンドラは、目を丸くして驚いていた。
「ルクレチアさん。ここでは優雅に淑やかに……が鉄則よ。火炙りにされたいの?」
「わざといいところで、邪魔に入りましたね。だったら、最初から仲裁に入って下さいよ。仕事をまっとうしない理事長なら、さっさとこの世界から消えてください」
物騒なやりとりを交わしているが、二人の間に殺気はない。しかし、それとは対照的にアレクサンドラは落ち込んでいる様子だった。
ついさっきまでの勢いは消え、しゅんと小さくうなだれている。アレクサンドラはルクレチアより背が高いが、巨漢のアベルと比べると、まるで子供だ。しかも、体を小さく窄めているので一層小さく見えてしまう。
「すいません。理事長。……でも、今のは、ただの喧嘩なんです」
弱々しく訴えるのは、嘘を口にしている自覚があるからだろうか。一連の二人のやりとりをどうしたって、喧嘩で見ることなんて出来なかった。
だが、アベルはわざとらしくにっこりと笑った。
「そうですわね。今のは喧嘩だわ。だから、校則には触れません。喧嘩は大いに結構」
「じゃあ」
アレクサンドラはぱっと顔を赤らめる。しかし……。
「……でもね」
アベルは、ルクレチアの後ろで硬直していたナユタのところまで走り寄って来た。
「許せないのは、私のナユタが貴方たちの暴挙に驚いて、身を竦ませていることよ。怖かったわね。恐ろしかったわよね? ああ、可愛い私のナユタが、登校初日からこんな目に!」
「いや、兄さん……じゃなくて、私の方が悪いの。ちゃんと話したいから、離れてくれる?」
むしろ、ナユタの方が暴走して、アレクサンドラに迷惑をかけたのだ。しかし、アベルはまったく聞く耳持たない。
「ああ。愛らしい。ナユタ。その制服が誰より似合っている」
ルクレチアの口にしていたことは事実らしい。ナユタはげんなりした。
「…………でも、理事長」
視線をナユタに向けたアレクサンドラは、独り言のように呟いた。
「先生の弟ということは、相当な法術の遣い手で……。この程度のことなど見慣れているような気がしたんですが?」
「……おと……うと?」
今のは絶対、聞き違いではなかった。
ルクレチアに引き続き、アレクサンドラまでナユタのことを弟と呼ぶのか……。
「……私、そこまで男っぽい? もしかして、男にしか見えないとか。昔から、近所の女の子にやたらとモテてたけど。もう、いっそ男として生きろって感じなのかな?」
「違いますよ。ナユタさん」
すぐさまルクレチアが声を上げたので、むしろナユタは訝しんだ。
「何が?」
「誤解です。だって、ここは……」
しかし、ルクレチアは何か大切な言葉を、喉元で飲み込んだようだった。
「どうしたの? ルクレチア?」
「いや。その……ナユタさんは、とても……か、か、可愛いし、綺麗だということです」
「いや、無理しないでいいからさ。ルクレチア」
「違います。ナユタさん。貴方は誤解してるんですよ。私は本当のことを……」
「おい! 私の可愛いナユタに色目を使うな! このクソ餓鬼がっ!」
「あんたのせいでこうなってるんでしょうが! 何で、あんたはそんなにバカなんだ!?」
「あの……。色目って何?」
アベルの言葉の意味が分からない。
「ルクレチアって、そういう趣味の人なの? もしかして、女装姿の兄さんが良いとか?」
「死んでも、違います!」
――遥か後方で、誰かが声を上げて笑ったような気がした。