第2章 ③
廊下の壁一面の花の絵は、無駄に芸術的だった。生徒の集う校舎は、職員寮と同じ良くも悪くも似たような荘厳な造りをしている。ナユタはうんざりしつつも先を急いでいた。
目指すのは、一番端の教室。……一年バラ組……である。
――何がバラだ。馬鹿にしているのか?
今のナユタには、アベルに対するどんなことも、否定的にしか映らない。
(大体、何で、私がここに来なきゃいけないの? 私の意志は?そりゃあ、最初は深く考えずに、転入するとか言っちゃったけど……、それにしたって、腹が立つ!)
しかし、ナユタが転入しなければ、ルクレチアが退学になってしまうらしい。
初登校のナユタに付き添うように命じられて、彼女は兄の私室に呼ばれたそうだ。
「貴方と一緒に学校に行かないと、私、退学になってしまうんです。ナユタさん、助けて」
あからさまな棒読みの台詞。大げさな手振りに偽りの涙。
彼女の意志でやっていることではないだろう。大体、彼女が人に頭を下げるのを嫌う、自尊心が高い女の子であることは、ほとんど彼女のことを知らないナユタでも分かるようなことだ。
けれども、彼女が言っていることは本当だった。
それが、何度も遅刻を繰り返しているルクレチアへの罰なのだと、アベルもあっけらかんと認めたのだ。
(そんな罰ってアリ?)
職権乱用も甚だしい。速やかに抗議しようとしたナユタは、しかし、ルクレチアに袖を引かれて、渋々留まった。そうだ。ナユタが事を荒立てれば、困るのはルクレチアなのだ。
逃げられなかった。
―――――行くしかないのだ。
ナユタには、最初から拒否権などなかった。そうするように、アベルに仕向けられている。振り返ってみれば、いつだって、ナユタはアベルの言いなりだった。
「なんで、いつもいつも、こうなっちゃうんだろ……。ルクレチア、もしかして、全部聞いてたんじゃないの? 兄さんと私の会話」
「サム……何とかっていう、寒そうな男の名前が連呼されていたのは、聞きましたけど?」
「…………げっ?」
「校長に捕まって、なかなか理事長の部屋に行けなかったので、あまり盗み聞き出来なかったんですが、男の名前が聞こえたので恋愛話でもしているのかと。違いますか?」
「いや、ちょっと違うかな」
少なくともナユタにとって、恋愛話ではなかった。
兄妹として最低限の礼儀に関する諍いだった。結局、この場合、ナユタが負けたということになるのだろうが……。
「ふーん。そうですか。恋ではないと。へえ……、そうなんですか」
「……ルクレチア?」
嫌味のように念押しされて、さすがに鈍感なナユタにも彼女が怒っていることが伝わってきた。
振り返ってみれば、ルクレチアはアベルの私室に入ってきた時から、仏頂面だった。でも、ナユタと二人になっても苛々を引きずっているのは、一体どういう了見なのか?
(何で、私ばっかりこんな目に……)
怒っているのは、ナユタのほうだ。
「ルクレチアはさ、兄さんに私を押し付けられたのが嫌なんだよね?」
「はっ?」
「そういうことでしょ?」
ここは腹を割って話そうと、ナユタはルクレチアに近づき、至近距離で彼女を見上げた。
「何ですか? 急に?」
だが、ルクレチアはナユタの気持ちを避けるように、ナユタから大きく距離を取る。
一層、悲しくなった。
「ルクレチア。そんなに怒らないでよ。今回のことは、ルクレチアまで巻き込んじゃって申し訳ないって、私も思ってるんだから」
――そうだ。きっと……。
ルクレチアは、アベルが好きなのだ。
だから、アベルの気を惹こうと、遅刻を繰り返していた。先ほど理事長室に入って来た際のルクレチアは怒りながらも、しかし切なそうな表情を浮かべていた。
(――あれは、嫉妬だ)
よもや、理事長の私的な都合で退学に追い込まれ、ナユタのお守を命じられるなんて、思いもよらなかったのだろう。
だが、愛するアベルのため、やむなくナユタに頭を下げた。
「ルクレチアの好意が誤って兄さんに伝わっちゃってるんだろうな。でも、私だって、色々と最悪で最低なんだ。だから、そんなに怒らないで、少しの間だけでも普通にしよう」
「ナユタさん? 貴方、一体、何を言っているんですか?」
「兄さんが余りにも朴念仁だって話をしているつもりだけど?」
「さっぱり意味不明ですが、私は怒っているわけじゃないですよ。ただ不機嫌なだけで」
「…………それって、怒っていると同じ意味じゃないかな?」
「じゃあ、ナユタさんは、これが平気だって言うんですか?」
「えっ?」
「この状況ですよ」
言われるがままに、周囲を見渡せば、廊下に面した窓から、ナユタとルクレチアを見つめる視線の数々があった。
更に、一見興味がなさそうにしながら、自分達の後をつけて来る生徒達の気配も感じた。ルクレチアが指摘しているのは、このことらしい。
「ああ。大丈夫。この程度のことなら地元で慣れてるし、平気だけど?」
季節外れの転入生なんて、興味を抱かれて当然だし、理事長の妹だと情報が漏れているとしたら、更に好奇心が湧いてくるものだ。
なんてことはない。ナユタは慣れている。
もし、この人たちが男だったら、錯乱するかもしれないが、女同士なら、上手くやっていくコツがある。長年の経験からナユタにはそれが分かっていた。
しかし、ルクレチアは何処までも不満げだった。
「……貴方、奴らを見ても、何も感じないのですか。その、……具合悪くなったりとか?」
「はっ?」
――奴ら?
彼女にしては、珍しく乱暴な言葉遣いだった。
しかし、どうやら、ナユタはルクレチアの言葉の意味を誤って解釈していたようだ。
彼女は、ナユタと一緒にいることが嫌なのではなく、他のことで腹を立てているらしい。
「どういう意味?」
「貴方が良いなら良いんですけど。でも、私はこんな奴らと極力目を合わせたくないです」
「そう……なんだ」
相槌を打ちながら、ナユタは首をひねった。目に映る同級生たちは、どの子も可愛らしく、上品だ。
この子たちの何が気に入らないのだろう。彼女たちが嫌いなら、気品の一切を持ち合わせていないナユタは、一体どうなってしまうのか?
「あのさ。ルクレチア、もしかして、貴方の美貌に劣る私が隣に並んでいることは、ルクレチアからすると、ものすごく迷惑なことなのかな?」
「はっ?」
「私、ここの制服だって似合ってないでしょ。女の子らしいのって、無理なんだと思う」
「…………あのねえ」
(やばい。図星を言い過ぎた?)
言ってるそばから、じろりと睨まれた。……が、次の一言は予想外のものだった。
「何を勘違いしているんですか? 貴方の制服姿は、この学校の誰よりも似合っているんです。たっぷりとしたスカート丈に、胸元で結ばれた可愛らしい白のリボン。清楚でそこはかとなく色気も感じられる濃紺の制服は、貴方に着せるために作ったものだと、昨夜、しつこいほど理事長が説明してきたんです! 正直、私には苦痛の時間でしたが……」
「……それ全部、暗記したルクレチアは天才だよね」
皮肉のつもりだったのに、ルクレチアは片目を眇めるだけだった。
「理事長の言葉を鵜呑みにするわけではありませんが、私もその点は同意しています。どんなに可愛らしく振る舞っても、紛い物じゃ、気持ち悪いだけなんです」
「紛い物……って?」
「私が不機嫌な最大の理由ですよ」
意味が分からずぽかんとしていると、本当に忌々しそうにルクレチアが舌打ちした。
――こつこつと、上履きではありえない足音がナユタの背後で軽快に刻まれる。
「あら~ん。ルクレチアさん。目が合ってしまったわねえ」
どうやら、ルクレチアの不機嫌な理由はその存在にあったらしい。
心の準備をせずに、振り返ってしまったナユタは、心底後悔した。