第2章 ②
(兄さんに謝らなくちゃ……)
ナユタが異性に触れて発作を起こすのは、いつものことだが、今回は環境が違う。リュイも巻き込まれただろうし、ナユタが倒れる原因となった青年の処遇も気がかりだった。
もしかしたら、アベルに八つ当たりされているかもしれない。
今回は、全面的にナユタが悪い。
普段なら、ナユタはもっと他人に対して警戒をする。
男性を見るだけで、本能的に体の奥が竦むのだ。
なのに、昨夜は自ら青年に近づいて行った。ここには女しかいないという安心感を勝手に抱いてしまったらしい。
(もうここにはいられないよね……)
男性に接触しただけで、発作が起きてしまうなんて……。
やはり、家を出るべきではなかった。
山の中にこもっている方がナユタのためであり、世の男性のためでもある。
ナユタはすっかり落ち込んでいた。
――だが、消沈している暇もなかった。これ以上ここで犠牲者を増やさないためにも、早々に立ち去らなければならない。
朝日が昇る頃に、気怠しい体を無理やり起こして、寝かれさていた医務室を出た。
アベルの私室は、職員寮の最上階である。
昨日、グレイテルからそれを聞いていたナユタは、迷うことなく辿り着いた。
ナユタの訪問を察知していたのだろうアベルは、驚いた様子もなく、室内にナユタを迎え入れてくれた。……が。
「兄さん、これは一体?」
アベルの部屋に足を踏み入れたナユタは、目を疑った。
薄紅色の壁紙に、真っ赤なカーテン。アベルの容姿からは、対極にあるような可愛らしい花々をハート形の花瓶に挿している。しかも、部屋の奥に鎮座している大きな寝台には、犬や猫の動物のぬいぐるみが綺麗に整列しているではないか……。
料理中だったらしいアベルの格好は、純白のドレスに紫のひらひらしたエプロン姿だ。例によって、顔面は間違った化粧をした道化師のようだ。
「どうした? 何か私に言いたいことがあるのではないか?」
「えーっと」
(駄目だ。私じゃ、優しく突っ込めない)
その格好がいかに危険であるかを、アベルに伝えたかったが、上手い言葉が出てこない。
(いや、もう今は、それは諦めて……)
ナユタは、体が許す範囲のぎりぎりの距離までアベルに近づくと、神妙に頭を下げた。
「兄さん、私昨夜のことを謝りに来たんだ。いつも迷惑をかけて、本当にごめんなさい」
「…………ナユタ」
一瞬で、アベルが纏う空気が変わった。それを感じたからこそ、ナユタは先を急いだ。
「思い知ったよ。兄さん。こんな体質でうろうろしてたら、危ないって。だから、私、家に帰ることにするね。心残りなのは、昨夜、私に触れた男の子のことだけなんだ。兄さん、私の代わりに、彼に謝ってもらっても良いかな?」
「バカなっ!!」
アベルが猟犬のように吠えた。
「お前に触った男は不法侵入の乱暴魔だ。そんなこと伝える義理はないし、むしろ、お前は可愛いのだから、ちゃんと備えをしなければならないと、兄さんは痛感してたんだよ!」
「はいっ?」
アベルは部屋の奥の棚の引き出しから、細長の瓶を持って来た。
瓶は、牛乳瓶くらいの大きさで、中には並々と紫色の毒々しい液体が入っている。
「兄さん。これは?」
「催涙液だ。これを霧吹きのようにして、相手に吹きかければ、賊の目くらましになるだろう。お前には持ってこいの武器だろ。ほら、持って行きなさい」
そう言って強引に差し出してくる。アベル特製という時点で、相当怖かった。
「……死んだりしないよね?」
「当然だ。効果は抑え気味だ。愛らしいお前に殺人なんて前科をつけたくはないからな」
あくまで、ナユタ優先で、賊のことを、まったく考慮していないところがアベルらしい。
「…………でも」
ナユタは小首を傾げた。昨夜の男に、こういう武器が必要だっただろうか?
「私、あの人、悪い人じゃないような気がしてるんだけどなあ……」
「おい。悪人でなければ、不法侵入なんてしないだろ。ともかく、お前はすぐに……だな」
「分かってるって。心配せずとも、もう二度と、ここには来ないから」
ナユタの一生は、生ぬるい揺り籠の中で終わる。でも、それは仕方のないことだ。
(家に戻ったら、あの人の働く姿を見ることを支えに生きていこう。……意外に楽しいかも)
懸命に自分を慰めた。
――しかし。
「違う。ナユタ」
「はっ?」
「お前は、この学校に入校するんだよ」
「………………今、何て言ったの?」
呆然と立ち尽くすナユタに、怒りを懸命に隠そうとしているアベルが震える声で告げた。
「つまり……。今日からお前は聖カレア学園に入学しろってことだ。法術の授業は、話半分に聞いてれば良い。他の生徒が実技の際は、お前が別授業を受けられるように、昨夜のうちに手配も整えておいた。あとは、お前が制服に着替えて学校に行くだけで済むことだ」
「いまいち、話が分からないんだけど?」
「いいから行く。初日から遅刻するわけにもいかんだろう」
簡潔な命令口調で、初めてナユタはアベルの言葉の意味を理解した。
――入学? こんな怪しげな学校に……?
「兄さん、本気?」
「本気も何もあったものじゃない。まっ、久々に兄妹水入らずで過ごせるんだ。可憐で、美しい兄をいつでも堪能することが出来て、お前もきっと楽しいだろう」
「兄さんは、楽しそうじゃないみたいだけど?」
「そんなことないさ。今回、最終的に決定を下したのは、私自身だからな」
アベルは、この部屋の中で唯一普通の白い椅子に腰を下ろした。眉間に皺を寄せて、深刻な面持ちをしている。格好が格好なだけに、いっそ滑稽だった。
「昨日、兄さんは、私を転入させたくないって、グレイテル先生と喧嘩したんだよね?」
「そうだったかな? アイツとの喧嘩は日常だからな。男の友情は喧嘩の数と比例する」
「意味が分からないし、都合良く「男」に戻らないで欲しいな。兄さん」
「…………ふふ。男……か」
感傷一杯の長い溜息を吐いたアベルは、恨めしそうに、双眸を細めた。
「大きくなったら、兄様のお嫁さんになりたいって、夢の一言を私は待っていたのに、いつの間にか、紹介したい人がいるの……な世界になっていたなんて、何たる悲劇だ!」
「……兄さん?」
意味不明な言葉の連続。普通には理解出来ないだろう。
けれども、長いこと妹をやっていたナユタにはすべてが分かってしまった。
「…………まさか! 兄さん。私のこと調べたんじゃ?」
絶望的な気持ちで紡いだ独り言は、しっかり聞いていたアベルに受け継がれた。
「ごめんな。ナユタ。昨夜お前が眠っている間に色々あったのだ」
…………終わった。
いっそのこと、昨夜のように、この場で倒れることが出来たら良かった。
屋敷の者にも気持ちを知られないよう、ナユタは細心の注意を払っていたつもりだったのに……。
アベルは知ってしまったのだ。
――ナユタが家出をしてまで、自分の体質を改善しようとしていたことに……。
「兄さん。私には、自由とか尊厳とか、そういったものはないの?」
「仕方ないだろう。家長たる者、何処にいようと、屋敷の中のことは隅々まで知っておくべきだ。特にお前のことは、細心の注意を払いつつ、私の耳に入るよう、情報網を徹底している。今回は少し報告が遅れていたが、しかし、お前がまさか……、こ、こ、恋なんて」
「兄さん!」
ナユタは顔を真っ赤にして、アベルにのしかかろうとした。
アベルは、突進してくるナユタをひらりとかわす。
兄を殴りたかったのか、叩きたかったのか、その軽快に動く口を塞ぎたかったのか、ナユタにも自分が分からない。
ただ、悔しかった。一言で「恋」と決めつけられるのにも抵抗を覚えてしまった。
「待て待て待て! 私に触れたら、お前が危険なんだぞ」
兄とはいえ、異性のアベルに触れたら、ナユタは発作を起こす。
でも、このままアベルに触って、発作を起こして死んだって構わなかった。
「まさか、兄さん。私が家を出て、ここに来ることも分かってたんじゃ……?」
「違う! 私は知らなかった。ここにお前が来たときは心底驚いたさ。お前がここに居残るのだって反対していただろう? 私だって、グレイテルにはめられたんだ」
「全部、グレイテル先生のせいにしようとしてない?」
「疑り深いな。ナユタ。怒った顔も世界一可愛いが、ひとまず冷静に私の話を聞いてくれ」
「冷静になんてなれるはずがないでしょう? ……兄さん。いつも勝手に留守しているくせに、こんなことはちゃんと情報掴んでるなんて、最低だよね」
「ああ、そうだ。私は最低だ。だが、私はお前が不幸になるところを見たくなかったんだ!」
「…………私が不幸になる?」
「そうだ」
「つまり……。あの人に、決まった相手がいる……とか、そういうこと?」
「……それは」
一瞬、気まずそうに顔をそむけたアベルだったが、やがて吹っ切れたように言い放った。
「うん。まあ、そういうことだ。彼の名前はサムエル。こ、恋人がいるはずだ」
「……そっか。でも、別に……」
恋人がいたって、良いではないか。たった一度しか会話もしていない。あの日以来、いつも彼の働く姿を眺めていただけだった。
ただそれを、ナユタが楽しみにしていただけだ。
「落ち込むなよ。ナユタ。そういうことだから、傷心のお前には、少しここで生活してみるのも良いだろうと考えたんだ。私は苦心の末に、お前の入学を許可したんだぞ」
「そんな訳の分からない気を回されるくらいなら、ヒースクラウトの屋敷に帰るよ。私」
「駄目だ」
「どうして? ヒースクラウトの屋敷にすら戻っちゃ駄目なの。それとも、こんな厄介な体質の妹の面倒を見たくないって、そういうこと?」
「そういうことじゃない。違うんだ。ナユタ」
じゃあ、どういうことなのか。
理解しているつもりだった。
ナユタの男性過敏症は異常で、普通の家庭だったら、見放されているだろうと……。
そんなナユタを温かく見守ってくれたアベルは尊敬すべき家族で、いつか、恩返しをしたいと思っていた。
――なのに。いくら何でもこれはあんまりだ。
「兄さんには、今まで大切に育ててもらったって思ってる。――でも、もう……」
「大っ嫌い! …………って?」
「えっ?」
突如、耳に心地良い美声が室内に轟いた。
アベルではない。グレイテルでもない。
ナユタは、手にした催涙液を、アベルに投げつける寸前で止めた。恐る恐る振り向くと、扉の前には銀髪の女神が彫像のように立っていた。
「君は、ルク…………?」
「ルクレチアです。呼び捨てで結構。貴方と私は同い年ですから」
それは知らなかった。一体、彼女は何処でナユタの年齢を知ったのだろう?
いや、そんなことより何より、どうして、ルクレチアがここにいて、何でナユタ以上に怒った顔をしているのかが謎だった。