第5章 ⑤
「あっ」
気が付くと、見知った顔が目と鼻の先にあった。
「えーっと、ルクレチア?」
ぼんやりと聞き返してから、すぐに違うことが分かった。彼はナユタの友達にとてもよく似てはいるが、れっきとした男なのだ。
「ああ、ルークさんか?」
「………………何で、今?」
ルークは、何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。
「私は、一体?」
いまだ半覚醒状態で、ナユタは周囲に目を凝らした。
しかし、視界は最悪だった。曇り空の中にいるようだと感じたら、本当に自分は空中にいるのだ。しかも、猛烈な速度で降下している最中である。
ぐるりと一周見渡すと、あれほど緑豊かだった裏山は禿山と化し、豪華絢爛だった真新しい学校は半壊していた。島のあっちこっちで地割れが発生し、所々で火災が起きていた。
この世の終わりとも言うべき光景である。
今、まさにこれと同じものを、少女に見せてもらったばかりだが、やはり現実に目の当たりにすると、ナユタは身が竦む思いだった。
地上に降り立つと、彼は顔を真っ赤にして呟いた。
「丁度、貴方の中から、女神に出て行ってもらおうとしていたんです」
「女神を?」
「貴方から女神がいなくなれば、完全に貴方の体質も治るし、貴方が政治利用されることもなくなります。今、その状況が整って仕上げの段階だったんですよ」
「……そうなんだ」
もし、ルークの言う通りなら、それは素晴らしいことだ。これでナユタの苦悩の日々も終わるし、これから先も自分のせいで周囲に迷惑をかけることもない。
……でも。
「大丈夫だよ」
「はっ?」
ナユタは「女神」が何物なのか分かったのだ。
「私は、大丈夫」
ナユタはもう一度繰り返すと、ルークからそっと離れて、無残にも大木が根こそぎ奪われたと思しき、穴の前に立った。
「女神」を抑えつけても意味がないのだ。
力が暴走したのは、沸騰している鍋の蓋を、急に取り除くと、吹きこぼれる、あの現象と同じだ。
女神には意志もなければ、性別もない。
ただ「女神」と名付けられた巨大な力の塊だ。
意志があるように感じたのは、そこに溶け込んだ寄坐の記憶。女王が抱いた感情だ。
(……悪いけど、お母さん。私は私の好きなようにやらせもらうよ)
そうだ。
無理に女神を引き離す必要などない。
すでに「女神」はナユタの体の一部なのだから。
―――女神に、直談判しよう。
ナユタは心の中で、たった今会っていた少女の姿を思い浮かべた。
白の衣に、長い黒髪と漆黒の瞳。桃色の唇と強い眼差し。すべてを鮮烈に記憶していた。
「貴方は女神だけど、女神だけじゃない。未練があったんでしょ。だから、貴方の気持ちが女神の中に流れ込んで、その姿を私に見せた。私をずっと待っていたんだね。お母さん」
さあっと背後から風が流れた。ナユタは膝をつき、地面の土を触った。
「力を貸してくれる?」
その言葉を皮切りに、土が生き物のように、脈打ち、全身に血液が行き渡るように、金色の光が帯となって浸透していった。
草一つない、奪われた大地に、今までの出来事が嘘だったかのように、草花が芽吹き、木々が生えた。瓦礫と化した建物も、学校も、光が通り抜けた途端、元通り復元していく。
いつの間にか、黒雲が消え、長閑な陽光が燦々と頭上から降り注いでいた。
今の出来事が何事もなかったかのようだ。無邪気な鳥の囀りに、ナユタは目を細める。
ふと横を見遣れば、リュイが驚愕の面持ちで棒立ちになっていた。
ナユタは、にっこりと笑う。
外見はいたいけな少年だけど、さすがに彼が何物なのかナユタにも分かっていた。
彼の本名を呼ぼうとして、ナユタは一歩踏み出した。
――だけど。
踏み出した一歩と共に、ナユタは気を失い、その場に倒れてしまった。




