第1章 ②
――まったくもって、いつものように、はちゃめちゃな一日だった。
今日一日の出来事を脳内で思い返して、ルクレチアは重々しい息を吐いた。
理事長を筆頭に、ただでさえ、アクの強い学生だらけが集っているのに、今度は理事長の妹が来たのだ。ルクレチアが薔薇を燃やしただけで、驚くような小娘だ。
(法術の基本すら知らないど素人なんだから、正真正銘、普通の娘なんだろうな……)
それもまた恐かった。火種にならないわけがないのに、本人に自覚がないという恐怖。
(ナユタ=バーランド。いつまで、ここに耐えられるか……だな?)
物思いに沈みつつ、ルクレチアはてきぱきと手を動かしている。
無駄に広い寮部屋の鏡台の前に座っているルクレチアは、髪を梳かし、頭の天辺で一つに結い上げていた。長髪は面倒だったが、長い方が女らしく見えるし、授業中居眠りしていてもバレない。それに、ルクレチアは、髪の毛を媒介にして法術を発動させるので、長い方が楽なのだ。仕方ないと、渋々、ルクレチアは、背中まで髪を伸ばしている。
(不自由な生活も修行の一つだっていうけれど……)
一体、自分はいつまで我慢しなければならないのか……。
「……レイチェル?」
ルクレチアがいちはやく気配に気づくと、可憐な少女が鏡に映っていた。
栗色の髪を二つに結わって、大きな赤いリボンで止めている。ふわふわのドレスは膝上までで、すらりと長い脚を主張するように、白いタイツが彼女の脚を包んでいた。
(…………どんどん馴染んでいますよね。この学校に)
同室のレイチェルは、この学園に入学した当初は、泣き喚くほど至るところに蔓延る少女趣味を嫌悪していたのだが……。
(月日とは残酷なものだな。少なくとも私はああはなりたくない)
「もうっ。ルクレチア様ったら。人使い荒いんだから!」
レイチェルの声は怒っているが、顔は緩みきっていた。きっと、嬉しいのだろう。
「それで、そちらの首尾はどうでした?」
「どうって、どうっていうこともないですけど?」
ルクレチアは、レイチェルに校長室のやりとりを盗み聴きするよう頼んだのだ。――が、レイチェルは手持無沙汰に髪をいじっているだけで、緊張感の欠片もない。
「まったく、こんなことなら、私が校長室に行けば良かった」
ルクレチアはナユタを尾行していた。アベルとの会話も盗み聞きしたが、どれもこれも、ルクレチアにはどうだっていい話だった。アベルの妹のことなど知ったことではなかった。
「でもね。ルクレチア様。本当にいつも通りだったんですよぉ。理事長お得意の炎の攻撃を、グレイテル先生が避けて、正論という言葉の刃でぐさっと突き刺していくって感じで。結果、引き分けですね。校長室が破壊された程度です。ルクレチア様もご存知でしょう?」
「まあ……。それで、あの人がまた落ち込んで……って、本当、どうでもいい話ですが」
自分のせいでグレイテルとアベルが争ってしまったことを、ナユタは反省しているようだったが、あの二人に限っては、これが日常なのだ。彼女が落ち込む必要など微塵もない。
「……でも、レイチェル。二人の会話の断片程度は覚えているでしょう?」
ルクレチアは、椅子から立ち上がった。少し大きめの無地のシャツとズボン。動きやすい格好を上から下までじっと見下ろしたレイチェルが溜息を漏らす。
ようやくレイチェルも、ルクレチアが本気なのだと気づいてくれたようだ。
「はいはい。分かりましたって。ルクレチア様は、本当に真面目なんだから」
ぶつぶつ文句を言いつつ、腕を組んだレイチェルは「そういえば」とか細い声で繋げた。
「水入らずで過ごせるんだから、いいでしょーとか、グレイテルが言ってしましたかねえ」
「水入らずって?」
言葉の意味を深読みしようとしたが、無理だ。ルクレチアはゆるゆると頭を振った。
「つまり、理事長とナユタさん、兄妹水入らず仲良くしろっていうことですか。確かに、それなら、どーでもいい話ですよね」
「あっ、でも、その後、こんな機会でもないと無理、気を利かせろとか、言ってました」
「こんな機会? 気を利かせろ? 確かにそれをグレイテルが言ったのですか?」
「はい。絶対です。この私が聞き違えるはずがありません」
「それはまた……一段と謎が深まったな」
「理事長の妹、ナユタがここに来た理由は、法術師協会の方から報告が上がってきていますよ。なんでも、彼女は故郷に想い人がいて、それを兄である理事長に認めさせるために、遥々ここに来たのだとか。しかも、その相手の男というのが笑えることにですね……」
笑い混じりに、レイチェルから耳打ちされたが、ルクレチアはまったく笑えなかった。
「本当に?」
ルクレチアはナユタに対して、巷の女の子っぽくない、さばさばした印象を抱いていた。情報自体が怪しいような気がする。
「今日、彼女に会った印象からすると、あの理事長の妹としては、理性的で、感情に走るような女の子には見えませんでしたが……」
「いやいやー、ルクレチア様は、そういうところ疎いんですからー。案外的を得ていると思いますよー。女の子って、あの年頃なら恋こそすべてって感じだと思います」
「随分と詳しいですね。レイチェル。ですが、グレイテルは、そんな恋に一直線な彼女にこの学校への入学を持ちかけたらしいのです。今日、法術師の存在を知ったばかりの素人娘に、いくら理事長の妹だからって、そんな特別措置が許されるものなんでしょうか」
「えっ。嘘でしょう?」
苦々しくうなずいてみせると、レイチェルもルクレチアと同じ心配をしたのだろう。
口元が引き攣っている。
「いくら冗談でも、やり過ぎっていうか。本当、何でもアリなんですね。この学校」
「口に出さずとも、皆そう思っていますよ」
ルクレチアは淡々と言い放つと、窓を開けた。ごおっと、湿った海風が部屋を一巡する。
ここは、麗しいお嬢様学校なんかではない。どちからという監獄だ。
寮の部屋は広く、壁紙が桃色だったりして、気色悪いほど可愛い内装だが、窓を開ければ、物騒な鉄格子が取り付けられている。秘密保持を目的とした逃亡防止の措置だ。
だが、ルクレチアにしてみれば、鉄格子なんて外してしまえば意味もない代物だし、部屋は三階だったが、この程度の高さを高所なんて言わなかった。
「でも、そのナユタって名前……。ヒースクラウト人にしては変わった名前ですよね?」
「それは報告にはなかったようですね。ええ。私もそれを気にしていたんです。彼女はパーランド家の養女で、東方の島国トゥーナの出身者らしいんですよ」
「ルクレチア様。もしかして……?」
「察しが良いですね。レイチェル」
外見は変わり果ててしまったが、レイチェルの洞察能力をルクレチアは高く買っている。
「今、この学校には外国人がいる。それを誰も知らない。これもおかしな話ですよね」
「一連の出来事に、理事長と校長の意図があるってことですか?」
「そう思わない方が不自然でしょう。私はね。レイチェル。あの二人がヒースクラウトの……国の依頼なんかで、こんな離れ小島に学校なんて殊勝なものを造るとは思えないのですよ。精々、良い情報を入手して、協会に高く売りつけてやりますよ」
片目を瞑ってみせると、すべてを察したのだろう。レイチェルは唇を窄めた。
「なるほど。でも、気を付けて下さいね。アベルの牙城で、術を纏った姿では不自由だというのは分かりますが、もし、その姿がバレたら即退学ですよ」
「退学……ねえ」
ルクレチアは、ほくそ笑んだ。
「いっそ望むところなんですが、半端で終わるのは嫌かな。……精々上手くやりますよ」
そうして、風を味方にふわりと部屋から飛び降りると、ぱちんと大きく指を鳴らした。
途端に、体つきが変わり、ぶかぶかだった服が体にぴったりと馴染んでくる。力がみなぎる感覚に気を良くして、ルクレチアはレイチェルに手を振った。
適度に筋肉のついたひきしまった体は、女の身より遥かに軽く感じる。
女の不便さをしみじみ感じながら、今朝会ったばかりの少女を思い浮かべる。
「あの子……」
(初恋なのかな……?)
今日、少しだけしか話さなかったが、ナユタは、アベルの妹とは思えないくらい、純粋で真面目そうだった。少し心が痛むのは、同情の表れに違いない。彼女の恋路が悲しい結末になることを、ルクレチアはすでに知ってしまっているからだ。
(かわいそうに……)
大体、普通の男が彼女に近づけるはずがないのだ。ナユタの背後には、獰猛で変態な兄が控えている。あの兄と戦ってでも、彼女を得たいと願う男がこの世にいるだろうか?
(アイツと、兄弟になるなんて、死刑宣告に等しいな。一度死んだ気にならないと無理だ)
ルクレチアは微苦笑した。しょせんは、他人事だ。
(……くだらない)
――どちらにしても、自分とナユタが関わることなどないに等しい。
彼女とは、生きてきた世界が違うのだから……。
◆◆◆
学園の背後に位置している教職員寮は、白と金を基調としたとにかく派手で壮麗な造りをしていた。中庭には噴水があり、籐で編まれ洒落た椅子が並べられている。所々に見たたことのない赤い花が咲き乱れていた。
……一体、アベルはこの学校で何をしたいのだろうか。
グレイテルは、頼んでもいないのに、ナユタの荷物を軽々持ち、優雅にナユタの前を進むと、廊下の突き当たりでぴたりと足を止めた。
「ナユタちゃんのお部屋はそこ。急だったから、相部屋になっちゃったんだけど……」
「相部屋?」
この状況で部屋を用意してくれたことが有難かったが、相部屋というのは意外だった。
「本当は、アベルと同室にしたかったんだけど、今は生徒の目がうるさいから……」
「そうですよね。当然です」
グレイテルがそんなに深くナユタのことを考えてくれているとは、思いもしなかった。
「ありがとうございます。グレイテル先生」
「あ、いや。えーっと。ナユタちゃん。別に喜ばなくていいから」
ナユタが顔を輝かせると、なぜか、グレイテルはナユタから距離を置き、目を逸らした。
「同室の子は無口だけど、良い子だから、貴方となら、すぐに仲良くなると思うわよ」
意味深な笑みを浮かべたまま、グレイテルはそそくさとその場を去って行く。その様子が、罪悪感から逃げ出したかのように見えたのだが、きっとナユタの錯覚だろう。
グレイテルを見送ったナユタは、深呼吸して大きな漆黒の扉に向かった。一回目は軽く、二回目は激しくノックをした。――だが、室内からは、返事はおろか物音一つしない。
(聞こえなかったはずないんだけどな?)
「あのー。すいません!」
大声を発しながら、叩いてみたが、何も変わらなかった。これでは埒が明かない。
ナユタは「失礼します」と小声で断りながら、室内に足を踏み入れた。
(同室の人は、まだいないのか?)
天蓋つきの真っ白な寝台と、眩いばかりの大理石の床にナユタは目を奪われる。
バーランド家は名門貴族ではあったが、衣食住は困らない程度に……というのが家訓で、ナユタの自室も寝台と机を置いただけで一杯になる小さな部屋だった。本当にこんな素敵な部屋に、自分がいて良いのだろうか。窓から入る微風に、カーテンがふわりと揺れる。
「あの……」
どうせ、誰もいない。そう予想して小声で呼んだのに、しかし、寝台を隔てている衝立の向こうで、微かな気配がした。衝立の先に、もう一つ寝台があるようだ。同部屋の人は、最初から室内にいたらしい。
(私の声が聞こえなかったのかな?)
ナユタは少し大きめの声で、名乗った。
「あのー、私、ナユタ=バーランドと申します。せっかく一人部屋にいらしたのに、申し訳ないんですが、少しの間だけお世話になります。よろしく……」
お願いしますと、言いかけた途端に、静寂はあっけなく破られた。
「今、何て言った!?」
なぜか声が怒っている。しかし、驚くほどに幼い舌足らずな声だった。
ナユタは混乱しながらも、口を動かした。
「あっ、相部屋なので、よろしくお願いしますと、挨拶をしていたんですが?」
「違う。名前だ! お前の名前! お前、今、ナユタ……と言わなかったか!?」
「はい。私はナユタ=バーランド……ですけど?」
「何だって!!」
衝立が轟音を立てて、倒れた。
「うわっ」
正確には倒れたのではなく、相手が倒したのだとナユタが分かったのは、この時だった。
「下を見ろ。バカっ」
相部屋の主が、きょろきょろするナユタをうながす。言われるままに、下を向くと、ナユタはようやく相手が子供だったことを認識した。……しかし。
「…………男……の子?」
ナユタは、とっさに胸を押さえた。……が、何も起こらない。
「男の子……だから」
(大丈夫だ……)
少年は、ナユタの腰くらいまでの身長に、淡い白のシャツと黒い半ズボンを穿いていた。
襟首まで伸びた髪の色は烏色、瞳の色も漆黒。華美なこの学校において、一人だけ浮いた異質な存在に見えたが、しかし、これが本来の普通の姿に違いない。
ナユタは、深呼吸して、少年の目線に沿うべく、ひざまずいた。
「君が同室の……人なのかな? ここは教職員用の寮だって聞いたんだけど、男の子がいるとは聞いてなくて、悪いことをしたね」
「…………」
しばらく黙っていた少年だったが、ナユタが微笑みかけると、すぐにそっぽを向いた。
「ふん。…………俺だってな。同室の奴が来るなんて一言も聞いてないんだ」
心底機嫌が悪そうな少年は、眉間の皺を一層濃くすると、そそくさとナユタから距離を取り始めた。初対面だというのに、相当嫌われているようだ。
「分かったよ。君が私を嫌いだってことはよく分かったから……」
「別に嫌いじゃない」
険しい表情の割に返答は早かった。案外この子は照れ屋なだけかもしれない。
「でも、君私に名前すら教えてくれないじゃない?」
「…………俺は」
ためらいながらも、少年は短く名乗った。
「俺の名は、リュイ」
「へえ。リュイ君……」
聞いたことのない変わった名前だった。
そういえば、髪色も瞳の色も、金髪碧眼、白い肌が主流のヒースクラウト人とは違う。……むしろ、黒髪に黒い瞳。ナユタにそっくりだった。同じ系統だろうか?
(外国の? もしかして、この子もトゥーナ出身なのかな?)
トゥーナは、ヒースクラウト国から海を隔てた隣国である。
このフローラル島からも近い。けれども、つい最近まで鎖国状態で独自の文化を持つトゥーナのことを知る人間はほとんどいないのが現状だ。ナユタも自分のことを調べようと、色々と手を尽くしたが、さっぱり分からないままだった。
「そうか。外国語の授業もあるもんね。もしかして、君は、ここの先生のご家族なのかな?」
「まさかっ! 俺はここの理事長と校長と知り合いで、少しの間ここにいるだけだ。すぐに出て行く。特にお前みたいなヤツがいたんじゃ、落ち着いてここにもいられないからな」
嫌味をまくし立てながら、きびきびと衝立を戻した少年は、そのままナユタに背を向けて、荷造りを始めたようだった。出て行くつもり満々だ。
「ちょっと待って。リュイ君! 君が出て行く必要なんてないよ」
リュイはぴたりと作業の手を止めた。
「ほら。後から来た私が出ていくのが筋だと思うの。だから、荷造りなんてしないで」
「お前がこの部屋以外、何処に、出て行くっていうんだ?」
こちらを見上げたリュイは、子供らしからぬ冷めた微笑を浮かべていた。
「それは……その」
「他の部屋はすべて埋まっているはずだ。そもそもここにはな、女が……」
言いかけて、リュイは喉元まで出かかった言葉を、咳払いで打ち消した。
「何……?」
「別に。この寮に空きはないのだと、俺はグレイテルから聞いてるんだよ」
「ふーん。そうなんだ。でも、それなら心配いらないって」
ナユタは、あっけらかんと言った。
「私、理事長の妹なんだ。だから、今から校長先生に言って理事長と同屋にしてもら……」
「大バカ野郎がっ!」
「はっ?」
「あんな変態理事長と一緒の部屋になるなんて正気の沙汰かよ?」
「いや……。でも」
この子は、ナユタとアベルに血の繋がりがないことを知っているのか?
見た目からして、まったく似ていない兄妹だから分かってしまうのも無理はないが……。
「……君は、兄さんのことが嫌いなのに、渋々ここにいるってこと?」
「どうだっていいだろ!」
リュイは怒鳴ると、ナユタの横を素通りして大股で扉に向かって行った。
「えっ、ちょっと。リュイ……君?」
「俺がグレイテルに直接話をつけてくる。いいから、お前は、ここにいろ」
そして、音を立てて扉を閉めた。まるで小さなアベルのようだ。今回、ナユタが実家を飛び出すきっかけとなった青年のように、温かい雰囲気もした。
(きっと悪い子じゃないんだろうな)
ナユタは安心して、荷物をその場に置き、綺麗に整えられている寝台に腰を下ろした。
グレイテル、リュイ、共にナユタは初対面で、二人のことを深く知っているわけでもないが、話が長くなるだろうことは容易に想像がついた。話し合いで終われば良いが……。気にはなったが、体が動かなかった。肩の力を抜いたら、急に体が重くなってしまった。
寝台の柔らかい誘惑に負けたナユタは、引きずりこまれるようにうつ伏せに倒れた。