第5章 ②
ナユタの意識がなくなった。
刹那にその小柄な体が発光し、霧状のものが渦を巻いて、天に立ち昇っていく。
ルクレチアは倒れたナユタを支え、その場にへたりこんだ。
「……勘弁してくれ」
(はた迷惑な人ですよ。本当……)
ルクレチアはたった今、命懸けでナユタを正気に戻したばかりだ。
それなのに、再び強大な女神の力に振り回されるなんて、この世の悪夢だ。
しかし、壁のように立ち塞がっている兄妹は、きらきらと瞳を輝かせているのだ。
「……素晴らしい」
「これを、私のものに出来るのかしら?」
「当然だよ。お前こそ、ツキノワの女王に相応しいのだから。ナユタ様には、可哀想なことをしているかもしれないけど。でも、せっかくの女王の力、封印しておくなんて、もったいない。そうだろ?」
「そうよね。兄さん」
リリスは、満面の笑みと共に一歩踏み出す。……だが。
「ここには、バカばっかりだが、その最たるバカは、お前たちのようだな」
リュイがわざとらしく鼻を鳴らした。ぴたりとリリスが足を止める。
「どういう意味?」
「確かに、お前たちは凄い。こんなことのために何年も計画練って、実行したんだ。それに、これだけの生徒を手玉に取って、操っている。誉めてやってもいいよ。でもな」
ナユタを輝かせていた光は、やがてナユタの胸元に収斂し、淡く点滅し始めた。
「ちょっと考えれば分かることだろ。女神の力がお前程度の小娘に制御できるのなら、苦労はなかったんだ。女神とは名ばかりの存在だ。正確には女神でも何でもないんだよ」
「じゃあ、何だと言うのです?」
「…………すべての混沌さ。大好きな父さんは教えてくれなかったのか?」
「ふふっ。面白い解釈ね。初耳だわ」
リリスは顔いっぱいで嘲りを表すと、そそくさとナユタの前にしゃがみこんだ。
ルクレチアは、ナユタを抱きしめて放す気はなかったのだが、リュイが首を横に振った。
「やらせてやれ」
「ですが……!」
「こうなったら、もう後戻りは出来ないんだ」
「さすが。見た目は子供でも、良いこと言うわ」
リリスがゆっくりとナユタの前にしゃがんだ。
途端に、操り人形だった生徒達の動きが一斉に止まり、その場に崩れ落ちた。
生徒達の体から、白光が浮き上がり、リリスのもとに次々と集まってくる。
これが、今、リリスが口にしていた一定以上の力を持つ術者の「気」というものだろう。
「一体、これは何事かしらね?」
ようやく、そこで異変を感じ取ったらしい。グレイテルが駆け足でこちらにやってきた。
「何だか、ちょっと目を放した隙に、凄いことになっているじゃない。ルーク君?」
「皮肉は結構」
憤然と言い返しているうちに、レイチェルも、アレクサンドラもグレイテルを追って来た。二人共、この現状を目の当たりにして呆然としている。
周囲の注目を一身に受けた中で、リリスが四回、拍手をした。
ルクレチアは目にするのは初めてだが、これが東洋の術式の作り方らしい。
「畏くも 我が大神。神火、神風、神地、神水。リリス=イラのもとに来たり給へ」
(さっぱり、分からないな)
意味は分からずとも、効力は絶大だった。呪文が終わると同時に、ナユタの体から飛び出した発光体が、リリスの脳天に入った。
「リリス!」
ネアが感極まった表情で、金色に輝く妹を見つめていた。
(何だ。この妹バカは……)
もし、隙があるのなら、ルクレチアは、まずネアをどうにかしたかった。この男のせいで、ナユタは傷ついているのだ。許せるはずがない。
だが、隙をうかがっている間もなかった。恍惚な笑みさえ浮かべていたリリスが、突如、激しく苦しみ始めたのだ。
「リリス。どうした? 大丈夫か?」
「あ、あああっー!」
リリスは腰を折り、胸をかきむしっている。ついには、喘ぎながら、地面を転げ始めた。
「何だよ。もう少し持つと思ったんだがな」
冷徹に言い放ったのは、リュイだった。
「そうね。せめて、女神の力を使ったら、制御できなかったくらいまでいくと思ったわ?」
グレイテルも呆れ顔で、二人の兄妹を見下ろしている。
――ぱしん……と、空気が弾けたような音がして、再び光はナユタの体に戻った。
苦悶の顔から解き放たれたリリスは、穏やかな表情で失神している。リリスに駆け寄ったネアは、何が起こったのか分からないといった表情で目を白黒させていた。
「ネアリリスが二人いる? オレは一体、どっちと同室だったんだ?」
遅れてやって来たアレクサンドラが、場違いな台詞と共に動揺している。
更に、レイチェルが制服の汚れを叩き落としながら、ルークに話しかけてきた。
「何だ。もう少し大事になるかと思ったんですけど、奴らの自業自得で一件落着ですか?」
しかし、ルクレチアにとっては、落着なんてほど遠かった。
――一番重要なことは……。
「……ナユタさん。大丈夫ですか!?」
ナユタが目覚めない。
ルクレチアがいくら叫んでも、揺さぶっても、ぴくりともしない。
一見、気持ちよそうに眠っているようにも思えるが、そうじゃないことは、ルクレチアにはよく分かっていた。
(ナユタの体に戻った女神は、一体、どうなったんだ?)
絶望的な気持ちで顔を上げると、険しい面持ちの少年がナユタを見下ろしていた。
「お前の察している通りだよ。坊主」
「見た目が坊主の人に、坊主呼ばわりされたくないです。貴方、リュー=ヒツラギでしょ?」
「もっと早く気づけよ。バカ」
「バカって……。普通、トゥーナの反乱軍の頭目で現トゥーナの元首様が、変身術で子供になっているなんて思いもしないでしょう。三か月前に暗殺されかけて行方不明と聞きましたが、こんな所で子供になって何やっているんですか?」
「もし、殺されるのなら……。死ぬ前に、やり残したことがあるって分かったんだよ」
思いのほか、正直に答えられてしまって拍子抜けした。
そのやり残したことこそが、今回の騒動の一因でもあるのかもしれない。
溜息一つ零して、ナユタを丁重に草の上に横たえたルクレチアは、そそくさと立った。
女神の力がナユタに戻っても、彼女が目覚めない。
結論は一つしか導き出せなかった。
寒気がするのは、先ほどと同じ轍を踏むことが確定したからだろう。
「……うそだ。こんなことがあるはずない」
ネアがその場にへたりこみ、両手を地面にたたきつけながら、大声で喚く。
「女神の力は、寄坐に異能があれば良いはず……。リリスは僕と違って、巫女だった母の力を強く受け継いでいた。絶対に大丈夫だと思って……」
「だから、力じゃないんだって」
リュイが早口で答えた。
「女神には、今まで寄坐になってきた女王の記憶が蓄積されているらしい。寄坐にも好みの人間を求めるんだ。昔、女王がそんなことを言っていた。今まで俺も半信半疑だったが」
「えっ?」
ネアの視線を受けたリュイは眉間の皺を一つ増やして、きっぱり言う。
「お前たちは、ただ物事を複雑にしただけだよ。とっとと生徒たちを安全な場所に運べ」
「うっ」
唇をきつく噛みしめ、けれども抵抗することも出来ず、ネアは目覚めたリリスにリュイの言った通りのことを指示した。二人の様子を最後まで見届けず、グレイテルが言った。
「でも、リュイ殿だって、いずれはこうする予定だったんでしょ? ナユタちゃんの為に」
「…………だけどな。もう少しやり方があるだろ。お前には覚悟ができてるのかよ?」
上目遣いでリュイがグレイテルに訊ねた。
「ふふっ。法術師の好きな言葉ってね。覚悟とか命懸けとか、そういう物騒なものなの。簡易的なものなら今日でも可能よ。ここには貴方にとって必要な優秀な術師が揃っている」
「幸か不幸か。お前から聞いた報告通りならな」
「まっ、一番やる気だったアベルがここにいないのが可哀想だけどね」
「何処までも使えない奴だよ。アイツは」
リュイがグレイテルに目を向ける。見つめ合う二人の沈黙に耐えきれずに、ルクレチアが割り込んだ。
「あの、どうでもいいですけど。やるべきことがあるのなら、速やかに教えてください。このままじゃ、またさっきのように女神が暴れるだけです」
すでに、ナユタを中心に風が起こり始めている。一刻の猶予もないのだから、ルクレチアも黙ってはいられなかった。
「ありがとう。じゃあ、お願いするわ。ルーク。それに、アレクとレイ」
本名で呼ばれて、それこそ危険を察知した三人は、顔を引き締めた。
「今までずっと力を封印されていた女神さんは、何度も勝手な人間たちに呼びだされて、ご機嫌斜めなの。それに加えて、変な術を使われたものだから、めちゃくちゃ怒っている。だから、ナユタちゃんは目覚めないのね」
その言葉通り、途端に暴風が吹き荒れた。
山の木々を、根元から吹き飛ばし、くるくると周辺を回り続ける。
今まで快晴だった空は、夜の闇より黒くなり、黒い空気がフローラル島を包むように降りてくる。そして、再び空高く舞い上がったナユタの頭を掠めるように、雷が刃となって降ってきた。
「ナユタさんっ!!」
「あら、怖い。このままじゃ、ナユタちゃんの肉体諸共、島が吹っ飛びそうな勢いね?」
「何だか、よく分からないけど、みんなで、ナユタ様と心中……てことか」
「滅多なことを言うな! クソガキっ! 本気で怒るぞ」
ルクレチアが殴る前に、リュイがレイチェルに飛び蹴りを入れていた。
「いたたっ」
隙を衝かれたレイチェルが涙目でリュイを見下ろす。
「でも、リュー=ヒツラギ殿。おかしくないですか。さっき、貴方は、女神は女王の記憶だって言ってましたよね。だったら、ナユタ様の体は安全なはずでしょ。何で……?」
「女神にとっては、生も死も関係ないんだ。肉体が滅びても、精神が残れば問題ない。だから、女王は最初に女神の力の制御法を学ぶんだ。自分の身を護るために。ナユタは習うどころか、自分に女神がいること自体知らなかったからな……」
「つまり、ナユタさんの生身の体は、いつどうなるか分からないということですか?」
会話に割り込んだルクレチアの一言は、見事に核心をついていたらしい。リュイは神妙な面持ちで首肯した。
(何てことだ……)
心臓が止まるかと思った。
ついさっき女神に乗っ取られたナユタも、命が危なかったのだ。
ルクレチアは、たとえこの世がどうなろうと、ナユタの体は平気だと信じていたのだ。
(まさか、そんな……)
「早くしないと、ナユタさんが危ない!」
焦燥感に駆られて走り出したルクレチアを、グレイテルが止めた。
「まあ、少し待って」
「待てないから、急いでいるんですよ! さっきは何とかなったのです。私一人だって!」
グレイテルをじろりと睨んだら、憤怒の形相のリュイに、袖を引っ張られた。
「いいから落ち着け。オレだって怒っているんだ。女神とは言っているが、要するに得体の知れない化け物だ。化け物に娘の体が占拠されてんだぞ?」
「えっ?」
さすがに、ルクレチアも足を止めた。
「何だっ……て?」
「…………ナユタは、オレの娘だ」
さすがに、ルクレチアもその場に呆然と立ち尽くすしかなかった。
アレクサンドラも、レイチェルも驚くばかりで、突っ込むこともできない。
リュイは重い沈黙に言葉を重ねた。
「事実だよ。でも、それの詳細を説明している時間はない。これからの手順を話すから、お前達には聞いて欲しい。……頼む」
少年の姿であれ、一国の主に深々と頭を下げられて、拒否する者は誰もいなかった。




