第4章 ④
温暖湿潤な島にあって、凍えるような冷ややかな声を発したのは、ルークだった。
「一体、いつからそこにいたんです。グレイテル先生?」
洞窟の天井から、ぽたりと水滴が降ってくる。
ナユタの目の調子はだいぶよくなってきて、ぼんやりとだったら周囲の様子を確認できる程度には回復していたが、早鐘を打つ心臓の鼓動と、赤面したままの顔はなかなかもとに戻らない。
(……見られた……ってことだよね?)
今の抱擁に深い意味なんてなかったはずなのに、グレイテルに対して気恥ずかしい気持ちを覚えるのはどうしてなのだろう?
グレイテルは、すたすたとルークの前までやって来ると、軽く頭を小突いた。
「邪魔されたくなかった? でも、私を呼んだのは貴方でしょ。夢見る青少年君」
「……夢見る青少年って、一体誰のことですか?」
「嫌かしら? じゃあ、欲求不満の痴漢でいいわよね?」
「好きなように呼んでください」
すっかり降参したのだろう。ルークが両手を挙げているのがナユタにも分かった。
「貴方の指示通り、グレイテル先生を呼んできたんです」
アベルと並んで、大柄なグレイテルの背後からひょっこり栗色の髪の少女が姿を現した。
さすがに、視力が戻っていなくても、この美少女が誰なのかは判断できる。
「レイチェル?」
ナユタは、おそるおそる呼びかけた。
「レイチェルだよね? やっぱり、無事だったんだ」
「……あっ、ナユタさん」
微妙な間があったが、レイチェルは微かに笑ってくれたようだつた。
「ルクレチアがレイチェルの声が聞こえたって、山を下りて行ったんだけど、レイチェルは、ルクレチアに会わなかった?」
「…………えーーーっと」
困惑しているレイチェルの眼差しは、なぜかルークに向かっているようだった。
「えーっと、そうですね。いいえ。ルクレチアお姉さまにはお会いしていませんが?」
「そうなんだ」
不可解ではあったが、それ以上問うことも出来ず、ナユタは渋々うなずいた。
「なんだか私にはよく分からないけど、グレイテル先生も、レイチェルもルークさんのこと知っているんだね?」
「それは……」
言葉を濁そうとするレイチェルに、グレイテルがすんなりと認めた。
「もちろん。彼と私とアベル、そしてレイチェルの関係は長くて深いのよ」
「兄さんも、グレイテル先生も協会にいたから、同じく、協会にいるルークさんもよく知っているってことなの? じゃあ、レイチェルも法術師ってやつ?」
ぴたっと、周囲の呼吸が止まり、ルークが声を上げて笑った。
「まったく、鈍いんだか、鋭いんだか、貴方は本当に分からない人ですね」
そして、ひとしきり笑ってから、肩の荷を下ろすように告白した。
「そうですよ。私と理事長、そしてグレイテル先生は法術師協会内で同僚だった間柄。対等の立場の法術師です。レイチェルは私の部下なんです」
「ルーク様は異例中の異例で、若くして法術師になった天才なんです」
「へえ。……そう……なんだ」
面と向かって宣言されると、ナユタも反応に困った。
――アベルの同僚。
レイチェルの言う通り、きっと実力のある青年なのだろう。
そんな人がどうして、ナユタの部屋に忍び込んできたり、アベルが存在自体を否定しようとしたのか?
だが、ナユタが疑問をぶつける前に、グレイテルが口を開いた。
「聖カレア学園は、協会に目をつけられているのよ。私たちは異端な存在だからね。それで、元々アベルのことを大嫌いだと公言していたルーク君に、偵察任務を命じたってわけ」
「ああ、それで、部屋に来たんだ」
「でも、残念。法術師協会が私達に間者を送ってくること自体、アベルも私も分かっていたのよ。だから……」
「二重密偵」
レイチェルが呟いた。
「一言で表すなら、それしか言葉がありませんが、私もルーク様も、あくまで自分の意志のもとに、協会と学園の様々な情報を握ることにしたんです。私達は権力者の犬じゃない」
「立派な志を持つ、誇り高い彼らに敬意を払って、私もアベルも二人の行動に目をつむっていたのよ。……まさか、職務放棄して、ただの野生の狼になっていたとは」
「……そのネタで引っ張るのは、やめて下さい」
「本当に、そうよ。時間がないんだから」
グレイテルは、ルークの怒りをあっさり受け流し、頭を抱えてみせた。
「まったく面倒なことになったわ。まあ、何かしらトゥーナと組んだ協会が仕掛けてくるとは思っていたけど、まさか、それが今日でこんなに大々的に、襲撃してくるなんてねえ」
そして、恨めしそうにナユタを見遣る。
「ナユタちゃんを、もう少しで安全な所に送れたのに……」
「グレイテル先生。やっぱり、サムエルさんのこと知っていたんですね?」
「協会が指示してきたって、そこの坊やから聞いたから、逆手に取ろうと思ったんだけど」
「あのねえ、逆手に取るのは、良いですよ。私を利用するのも結構。でも、重要なことを隠されていたら、困ります。貴方たちの秘密主義が現状に繋がってるんですから……って」
忌々しげに言い放つルークは、やがて大きく息を吐きグレイテルと同じく頭を抱えた。
「腹立たしかったので、口にしてみたまでです。気づかなかった私が悪いというのは自覚していますから」
そうして、レイチェルに一瞥送る。
「……それで? レイチェル。サミュエル先輩には報告したのですか?」
「まさか。この状況でそんな暇があるはずないじゃないですか。先輩の方から、こちらに出向いてくれるんじゃないですか。大体、あの人は完全に協会側の人間なんだから、私達の知ったことじゃないでしょう?」
「まったく、面倒なことばかりだな」
舌打ちするルークに対して、更なる面倒事が洞穴の入口からやって来たようだった。
こつこつと薄闇の中に靴音が響く。
「言っているそばから、おでましですかね」
「うそ。サムエルさんがここに来たの?」
上の空で二人の会話を耳にしていたナユタは、緊迫感に飛び上がった。あれだけ遠目でこそこそ見ていた本人がナユタの前に現れるのだ。
恋ではないと言いつつも、どきどきしないはずがない。
――……しかし。
「あっ、忘れてた」
グレイテルがそそくさと、前に出て行く。ナユタも、おそるおそる後ろに続くと……。
「グレ……テルせんせ……い。何処にいるのですか?」
涙声のアレクサンドラだった。
「あら、ごめんなさい。貴方のことすっかり忘れていたわ」
にっこりと、罪悪感の欠片もなく詫びるグレイテルに、ひきつった笑みを返す。
「さすがに一人じゃ限界になってきました」
ぼろぼろの風体、満身創痍のアレクサンドラは、グレイテルの顔を見た途端、その場に崩れ落ちた。
その弱々しさからは、ナユタが転入初日に見た華美な外見も、無駄な威厳も、すべて消え失せていた。
――あるのは、ただ巨大な胸だけだ。
「大丈夫?」
手当をしようと跪いたナユタから、アレクサンドラは即座に距離を置いた。
「あ、ごめん。怪我をしているから、手当しようと思ったんだけど。駄目?」
「そんなもの、いらない……です……わ。近寄らないで」
取って付けたような女言葉で、アレクサンドラは顔を真っ赤にした。
まるで、ナユタを猛獣から護るように、前に出たルークが言い捨てた。
「何だ。お前、生きていたのか?」
「当然だろ。オレは校長先生の指示で、前線で戦っていたのだ」
「もう少し穏やかに出来なかったものですかね。地鳴りが凄くて頭が痛くなりました」
「力を使い果たして、そのナリのお前と一緒にするな」
「あの、ルークさんは、アレクサンドラさんとも、知り合いなの?」
「…………それはって、あれ? まだ、この子気づいてないのか?」
ルークに怪訝な表情を送るアレクサンドラの頭を、ルークが小気味よい音を立てて、叩いた。
「お前が全部悪い」
「なんだと!?」
「はいはいはい。うるさーい。時間の無駄」
そうして、二人の会話を無理やり、グイイテルが打ち切った。
(ああ、もう。みんな秘密主義だなあ)
苛々する
多分、ナユタがこれ以上追及したところで、結局ルークの真の狙いも、グレイテルの思惑も分からないだけだろう。
それこそ、時間の無駄だ。
兄アベルからして、法術師という存在がいかに秘密主義者で、口が堅い連中なのだということは分かった。
……ならば、自分で暴いていくしかない。
話の中心にいるのは、なぜか、ナユタのようなのだから……。
「先生。みんなでややこしいこと話しているみたいですが、トゥーナってことは、やっぱり、私のお母さん絡みなんでしょうね?」
「ナユタさん。貴方……」
グレイテル、ルクレチア二人同時に、ナユタに近づいてきた。
「もしかして、ナユタちゃん。知っているわけ?」
「いや、知っているというか、ついさっき夢で見たばかりで……」
訝しげに黙りこむ四人に、ナユタも次第に恥ずかしくなってきた。
かまをかけてみたのだ。
これでまったくトゥーナとナユタが無関係だったら、本気でヒースクラウト中の医者に通ったほうがいいかもしれない。
……だが、グレイテルは溜息を零すと、低く呻いた。
「まさか夢の住人に先回りされるなんてね。アベルが怒りそうだわ」
――やっぱり、本当だったのだ。
「じゃあ……」
だとしたら、ナユタの聞きたいことは一つしかない。
「グレイテル先生。リュイ君はトゥーナ人ですよね。今、何処にいるんです?」




