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乙女の花園  作者: 森戸玲有
第4章
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第4章 ③

「―――わっ!!」


 跳ね起きてから、ナユタは今までのことを回想した。

 自分は、今、不可思議な白い世界から、真っ逆さまに落ちたはずだ。それなのに、なぜか生きている。

 変な夢だった。実際、夢だったけど、ただの夢ではないと確信している。


「…………お母……さん?」


 無意識に口からついて出てきた言葉に、ナユタは先ほどの少女との会話を思い出した。


(ツキノワの女王が……私のお母さん?)


 信じられないことではあるが、話の筋は通っていた。


 なぜだろう。十五年会ったこともない母を懐かしいなんて思ったことは、一度もなかったのに、今はひどく恋しい。


 だが、感傷に浸る間はなかった。


「…………ナユタさん、起きたんですか?」


 唐突な男の声に、ナユタは身を竦ませた。


「誰?」

「あっ、すいません。緊急事態で傍にいました。すぐに離れますから、安心して下さい」


 ……びっくりした。けれど、声をかけた男の方が狼狽しているようだった。

 丁寧で物腰の柔らかい声音。

 ナユタの視界はぼやけていて、男の相貌は虚ろだったが、悪い印象はなかった。ようやく、現実に戻った感がする。


「……そういえば」 


 ――ここは何処なのだろうか?


 先程は白い世界で今度は真っ暗だ。

 何も見えない。いや、暗いから見えないのではない。目の奥がずきずきして、視界がぼやけるのだ。

 目に映っているものが何なのか識別できない。


(確か、私は課外授業に参加していて……、一等の景品が年代物の鏡で、覗きこんだら、私の後ろに人が映ってて、それから、どうしたんだっけ?)


「あの……本当にすいません。驚かせてしまいましたね」

「いえいえ。そういうわけじゃ……」


 思考中のナユタが、まるで怯えているように見えたらしい。

 男を微笑ましく思うと同時に、ナユタはようやくその声を思い出した。


「もしかして、貴方、あの時の侵入者じゃ……?」

「…………はい?」


 男は驚いているようだった。ついでに、呆れているらしいのもナユタに伝わってくる。


 ――どうして?


「なるほど。学校を離れても、暗示は有効ってことですか。……グレイテルめ」

「暗……示?」

「いえ、こっちの話です」

「よく分からないけど、貴方、あの時の男の人でしょ? やっぱり、私のこと知っているんだ? 貴方のことは、兄さんの知り合いだと最初から思ってたんだけど……」

「……確かに、あの時の男は私ですが。こうなってくると、とっても説明が難しいですね」


 何やら、小声で呟いているが、ナユタには、さっぱり分からない。


「そんな恐縮しないでよ。あのときは私だって悪かったんだから」

「ナユタさん、ここまで至近距離でも分かりませんか? 私のこと」


 男が慎重に、こちらに寄る気配がした。


「いや、ごめん。見えてる見えてないで言えば、見えてないんだよね。目がちょっと変で」

「………………目が見えないんですか?」

「実は、あまり。どうしてこうなっちゃったのか」


 そして、やっとナユタは倒れる寸前の記憶に辿り着いた。


「ああ、そうだ! 兄さんの催涙液だ!」

「えっ?」

「さっき、山の頂上で怪しい人影が鏡に映ったから、振り返ってポケットの中の催涙液をふっかけたら、自分に返ってきちゃったんだ。だから、目が痛くて、見えないんだ」

「一体、貴方、何、やっているんですか?」


 絶望感たっぷりに男はうつむいた。


「喜ぶべきなのか、残念がるべきなのか、自分でも分からなくなってきましたよ」

「なぜ喜べるのかは、分からないけど、一応、悲しんでくれる方が嬉しいかな。目が見えないのって、心底不自由だと思い知ったから」


 ナユタは言いながら周囲を見渡したが、ぼんやりとしか分からない。声が反響して聞こえることと、背後の壁のごつごつした感触から、ここが何処なのか想像するしかなかった。


「ここ、もしかして、洞窟?」

「ええ。当面の緊急避難先です」

「避難?」

「なぜか、貴方、今追われていますからね。隠れているんですよ」

「私が追われている?」

「そうですね。まあ、迎え討つのも手なんですが、今の私には力がないのです」

「そう……なんだ」

「落ち着いていますね?」

「慌てるほど、現実味がないだけなんだけどね」


 先ほどまでの夢が鮮烈だったせいか、今、ここで話していることが現実だという実感がない。しかし、彼が真摯にそう言っているのだから、きっと現実なのだろうとも思う。


「あっ、ちなみに貴方、お名前は?」

「…………はあ」


 途端に盛大に溜息を吐かれたので、ナユタは目を丸くした。


「あの……。私、何か失礼なこと聞きました?」

「いいえ。全然、まったく」


 青年は、刺々しい口調で、投げやりに告げた。


「ルーク=レリオットと申します」

「ご迷惑をかけました。ええっと、ルーク……さん? あれ? 年上ですか?」

「面倒なので、敬語は結構です」


 ぴしゃりと告げられて、彼が個人情報を一切語りたくないことを悟った。なぜか緊迫した沈黙が続き、ナユタは彼と似た人を思い浮かべた。


「ああ、そうだ。…………ルクレチア」


 ぴくり……と、青年が反応したのが伝わってきた。


「ルクレチアって名前の友達がいるんだ。ちょうど、貴方と背格好も似ている子だよ」

「………………そうですか」


 変な人だ。どういうわけか、ルークはナユタの一挙一投足に、細心の注意を払っているような気がする。今はがっかりしたような、安堵したような不可解な感情が伝わってきた。


「私、ルクレチアとはぐれてしまって。レイチェルって子も心配なんだけど……」

「貴方に心配されるまでもなく、彼らは無事でしょうよ」


 あからさまに投げやりな回答だったが、この状況下で、その言葉は有難かった。


「そう……だろうね。ルクレチアもみんな強いし、きっと大丈夫だろうな」


 ほっと、一息ついたら、背中に痛みが走った。発熱もしているらしい。


(一体、私どうしたんだろう?)


 催涙液にここまで効果があるとは、アベルはやっぱり恐ろしい。

 それにしても、ルークに「追われている」と言われても、犯人を見たわけではないナユタには、いまいちピンとこない。


(一体、誰? 心当たりの人なんて、一人くらいしか……)


「追手って、サムエルさん……、じゃないよね?」


 無意識に呟いた独り言のはずだったが、しかし、ルークはしっかり聞いていたようだ。


「それだったら、私だって楽なんですけどね。諜報専門の奴なら、私の敵じゃない」

「貴方、サムエルさんのこと、知ってるの?」


 ルークは逡巡しているようだったが、暫時の沈黙を経てきっぱりと言った。


「ええ。まあ。もっとも、私はサムエルという男を間接的に知っているだけです。私は彼と一度も面識がありませんが、同じ組織に属しているんです。サムエルが貴方のもとに向けられた密偵だということは、私もかなり早い段階で分かっていました」 

「密……偵? サムエルさんが?」

「私もサムエル先輩も、法術師協会の人間なんです」

「……………………はっ?」


 今度こそ、寝耳に水だった。

 あまりの衝撃に言葉が出てこなかった。隙をつくように、ルークは早口で喋り続ける。


「法術協会は、この国の術師を管理している軍部直轄の団体です。理事長も一応法術師協会には所属していますが、この聖カレヤ学園を作った時から、ヒースクラウトに反逆するつもりではないかと、協会の上層部は勘ぐっているんですよ」

「あの、ちょっと待って。話が見えてこない。それって、つまり、サムエルさんが郵便配達員に化けて、私の家に偵察に来ていたってこと? 兄さんは何も言ってなかったけど?」 

「そりゃあ、アベルは貴方に隠したかったんでしょう。全部話したら、貴方を更に失望させることは必至だし、今回の計画自体成り立たなくなります」

「……さっぱり、分からないな。じゃあ、あのサムエルさんからの手紙だって」


 ――嘘だったんだ。


 ナユタは、喉元で叫びそうになった。怪しいとは思っていたが、自分の気持ちが利用されたのだと分かった途端、頭の中が沸騰しそうになった。

 何てことをしてくれるのか……。


「ええ。協会の上層部は貴方の好意を利用して、サムエルを餌にしたんです。だからこそ、アベルはそれを逆手に取ることにした。元々、貴方を島に留めておくことには反対でしたからね。いっそのこと、策にはまったフリをして、貴方をサムエルに拉致させ、ヒースクラウトに戻し、実家以外の場所で大切に匿う予定だったんです」

「…………そんな重要なこと、兄さん、一言くらい私に言ってくれたっていいよね。だって、それって、めちゃくちゃ危険なことじゃない」


 普段、過保護のくせに、この扱いはなんだろう。

 しかし、ルークに同情心はないようだった。不機嫌な口調で言い放つ。


「別に。私もついて行く予定でしたし、部下もいました。ヒースクラウトについたら、協会の諜報員であるサムエル先輩には眠ってもらう予定でしたが、貴方が本当に彼が好きなら、駆け落ちさせてあげても良かった。少なくとも、こっちは万全の体制だったんです」

「……そんな物騒なことをするより、最初から何もかも話してくれる方が良かったけどね」

「それを言うなら、気づかない貴方が悪いのでしょう? 大体、ここはそういう世界なんだって、誰かに聞きませんでした?」

「…………それは」


 そういえば、似たような台詞を、つい最近、レイチェルにも言われたような気がする。

 ぐうの音が出ないナユタに対して、追い打ちをかけるように、ルークは鼻で笑った。


「大体、想い人かなんか知りませんが、のこのこついて行こうとしている貴方の感覚が鈍いのです。どうして、騙されていると思わないんでしょう……」

「それは言い過ぎだよ。ルークさん」


 さすがに、その言葉はナユタの気に障った。


「サムエルさんについては、私だってさすがに怪しいと思ったよ。彼に会ったら、本物だろうが、偽者だろうが、とっつかまえて、兄さんの所に連れて行こうと思ってたんだから」

「……貴方が……ですか?」


 半信半疑な口調に、ナユタは激しく抗議をした。


「当然! 大体、こんな小さな島まで、私のために一介の郵便配達員が会いに来てくれるはずがない。しかも、兄さんの留守中だよ。どうしたって、怪しいって思うよ!」

「それすらも分からないほど、恋に盲目な箱入り娘だと思っていたのですが。……なるほど、貴方っていう人は、鈍いんだか、見当はずれなのか分からない人なんですね」

「どちらにしても、私、ダメな人だよね。それ? でもね。私だって、バカだけど、みんなが言うほど、バカじゃないよ。一人で乗り込むつもりで、催涙液持ってきたんだから」

「その催涙液を自分で浴びてしまったら、確かに、目も当てられませんね」


 しかし、言葉とは裏腹に、ルークが笑いながら肩を震わせているのが分かった。

 一つに結った長い髪が上下に揺れているのが、ぼんやりとナユタの視界に映る。最初に感じた通り、良い人だ。

 ――でも、敵か味方かは分からない。特に、アベルに対しては。


「ルークさん? 貴方は兄さんにとって味方? それとも、敵?」

「さあ、どっちでしょうね」


 すぐに笑いを引っ込めたルークが、再び張りつめた空気を運んできた。

 ナユタは、ごくりと喉を鳴らす。


 法術師協会の人間だと、ルークは言った。現在、協会がアベルと対立しつつあるのなら、ルークはアベルの敵方の人間となるだろう。

 ……それに、サムエルが協会の人間だと知っていて、今更ナユタにそれを話す時点で、彼はナユタにとっても敵に近いのだ。


「やっぱり、私には分からないな。貴方が敵か味方なのか。ちゃんと話してくれなきゃ、私に追っ手がかかっているって話も信じられないよ」

「ちゃんと話すって……、これでも結構、懇切丁寧に話してあげた方ですけどね?

ここにいる人間は大なり小なり、全員、貴方に隠し事をしていますよ。何で私だけ、貴方に全部話さないといけないんです? サムエルのように信じたふりすら出来ないんですか?」

「…………それは、そうかもしれないけど」


 しかし、どうしてか彼には真実をちゃんと語って欲しいとナユタは思ってしまったのだ。信じたい……と願ったのかもしれない。初対面にも等しいのに、まったくおかしな話だ。


「貴方は彼に対しての気持ちは、恋ではないと言う。けれど、そういうのを恋愛感情と呼ぶのではないのですか? 恋は盲目って言うでしょう?」

「……そういうもんなのかな?」


 それが分かれば、ナユタも苦労しない。どこまでも真っ直ぐ突き進んでいけるのに。


「もういいですよ。貴方と話していると、ほんとーうに、苛々する」


 ルークは言葉の通り、苛立つ感情をぶつけるように、素早く立った。


「私は外の様子を見て来ます。ナユタさんは、ここにいて下さい」 

「えっ。ちょっと、待って」

「待ちません」 


 言葉の通り、ルークはナユタのもとから去って行くようだった。

 彼のことをナユタはほとんど知らない。それぐらいの付き合いの人間に縋ろうなんて、どうかしている。けれど、今のは全面的にナユタが悪い。


「違うよ!」


 ナユタは、声を張り上げた。


「違う。よく分からないけど。サムエルさんのことは、ただ懐かしいって感覚なんだ」

「懐かしい?」

「そう……。そんな感じ。あの人は懐かしいんだよ。リュイ君に似てて」

「サムエル先輩は、ヒースクラウト人。貴方の血縁ではないですよ」

「そりゃあ、当然。分かってるけど。でも……」


 ナユタは、ルークの背中を追って、よたよたと歩き始めた。

 ルークは歩みを止めている。ゆっくり行けば追い着くはずだ。しかし、足場は悪く、想像以上にナユタの体力は消耗していた。更に最悪なことに、地面まで揺れた。


(……地震!?)


「あっ!!!」

「ナユタさんっ!!」 


 いよいよ、つまずいて転びそうになったナユタを慌てて、ルークが支え…………


「まずい!!」


 ナユタに触れたことに動転したルークが距離を取ろうとして、逆に二人一緒にその場で倒れてしまった。


『あっ……』


 声がはもる。

 ひきしまった筋肉がうつ伏せに倒れたナユタの胸に当たった。彼の膝の上のようだ。だが、普通女の子が赤面する場面で、ナユタは、まず自分の体に恐怖していた。


(どうしよう……)


 いつもなら、ここまで来たら、絶対に発作が起こる。

 胸が苦しくなって、過呼吸になり、しまいに意識を失ってしまうだろう。


(ああ。また、こんなところで発作を起こしたら、どうなることか……)


 目を閉じ、胸を押さえ、すぐさま起こるだろう発作に備えたナユタだったが……。


「……あれ?」


 少ししてから、目を見開いた。


「ナユタさん?」


 ルークも異変に気付いたらしい。顔を上げると、相変わらず、ルークの顔はぼやけていたが、驚いている様子は伝わってきた。


「……何ともない? 私?」

「でも、私は男ですよ?」


 分かり切ったことを口にする。


「ルークさん、どうして、私の体質のこと知ってるのかな?」

「それは、その。私には、色々と特別な情報網があるんです」


 意味が分からなかったが、問い質す気は起きなかった。素直に慌てるルークが面白い。


「まあ、いいや。ともかく、私、ルークさんに触っても何ともないよ。もしかして……」

「治った……んですかね? 私としては、心許ないんですが……」

「でも、ほら!」


 ナユタは起き上がって、赤ん坊が触るかのように、ルークの髪や肩に触った。


「大丈夫でしょう?」

「あの、貴方の体質が治ったのはよく分かりましたけど、おいそれと男に触らない方が良いですからね。忠告はしましたよ」

「そういうもんなの?」

「そういうもんですよ……」


 ……と、ルークの両手がナユタの背中に回り、強い力で引き寄せられた。


「あっ!」

「ね? 普通は、こういう危険があるんです」

「分かった。分かったから」

「本当に?」


 ルークが耳元で囁いた。


(どうして、こんなことに……)


 今までまったくといっていいほど、異性と交流のなかったナユタが、いろんな段階を吹っ飛ばして、男性に抱きしめられているのだ。


(これ……、羽交い絞めにされているっていうわけじゃないよね?)


 似たようなものかもしれない。

 どきどきと心臓が跳ねて、酸欠になりそうだ。それなのに、ルークの腕の力は強くなる一方だ。

 心音が速い。目が回る。発作ではないのに、失神してしまう予感。―――そして。


「その程度にしておきなさいよ。エロガキ」


 気を失いそうになる寸前で、見計らったかのように、グレイテルが止めに入ってきた。


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