第3章 ⑥
ナユタは山道が好きだ。
子供の頃、アベルと同じく、化物の如き体力の給仕長に鍛え上げられた。正直、実家の裏庭は飽きていたので、こういう機会に巡り合えたことは、純粋に嬉しかった。
「やっぱり、外の空気はいいなあ」
学園の裏山の空気は澄んでいて、眺望も素敵だった。木々の隙間から覗く、大海原の鮮烈な青は、ナユタの縮こまっていた気持ちを爽快にさせてくれる。
しかし、満面の笑みを浮かべるナユタの後ろで、荒い息をしている長身の少女がいた。
「まさか、ナユタさんに登山の趣味があるとは知りませんでしたよ」
「ルクレチア……」
まるで幽鬼のようだった。一つに結った髪は、ぼさぼさで顔は蒼白だ。疲労が色濃い。
ナユタの山登りは、唯一、兄アベルとと肩を並べることができる特技だ。そんなナユタに、ルクレチアのような女の子がついて来るのは、とてつもなく大変なことだろう。
「何だ。ルクレチアは、ゆっくり来てって言ったのに……」
「私は、ちゃんとゆっくり来ましたよ。それに、法術を使うことさえ許可されていたら、こんな山道たいしたことないんですからね」
「でも、法術使わないのが規則だし、頂上すぐそこだから、今回は私の勝ちじゃないかな?」
今日は、体力作りのための課外授業だ。「法術厳禁」としつこくお達しがきている。
「では勝負しましょうか? どちらが一番か」
ルクレチアは髪を一つに結い直して、準備運動を始めた。
(うーん。なんだかな)
今日は、いつもの制服ではない。ルクレチアは動きやすいズボンを穿いている。普段冷たい印象の外見が少し違うせいか、彼女が負けず嫌いな男の子のように思えてならない。
(……変な感じ)
押し黙っていると、ルクレチアが屈伸をしながら、訊ねてきた。
「それにしたって、ナユタさんは元気ですね。本当に女の子なんですか?」
「だから、再三言っている通り、女だって。ここで全裸になったら信じてくれる?」
さらりと言ってのけると、途端にルクレチアが顔を真っ赤にした。
「…………冗談でも、下品です」
どうも、こういう女の子同士な話題をルクレチアは嫌うらしい。
(…………これも、なんか変な感じがするんだよね。でも、何でだろう?)
潔癖とか清純とか、そういうものとは違うような気もする。
「分かった。じゃあ、今のお詫びに、私が一位になったら、賞品はルクレチアにあげるよ」
「賞品?」
「知らないの? 頂上に置いてある一位の証を持ち帰ると、兄さんとの一日デート券が贈呈されるんだって。だから、私、目立つの覚悟して、頑張ってたんだよ」
実際、頑張る必要もなかったわけだが……。誰も本気を出して登山しようとしないのもサボりが多いのも、その罰ゲームのような賞品のせいだと、ナユタも分かっていた。アベルが可哀想だから、頑張ったというのが本音である。
「その禍々しい贈呈品については知っています。私が分からないのは、何で私がナユタさんから、それを貰わなきゃいけないのかってことです」
「いや、だって、ルクレチアは一位になりたかったんでしょ?」
「…………ますます、意味が分かりません」
「だからさ。兄さんとの一日デート。……狙ってたんでしょ?」
「私が、理事長とデート?」
「だって、ルクレチア、こういう学校行事はサボりそうじゃない? それでも出てきたってことは、兄さんとのデート券が欲しかったからでしょ?」
「何の拷問で、私が理事長とデートしなければならないんです?」
「ルクレチアは、兄さんが好きなんだよね。レイチェルって可愛い女の子からも、そう聞いたから……。あ、でも、ごめん。私に知られるのは嫌だったかな?」
「………………えーーーっと、私が理事長を……、すすす、好きなんですか?」
「うん」
迷いなく肯定すると、ルクレチアはそのまま前のめりに倒れそうになった。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないですよっ!!」
慌てて、ナユタが支えようとすると、害虫にでも出くわしたかのように飛び退いた。
これはひどい。心が折れそうだ。
「えーっと。ルクレチア。大丈夫? やっぱり、疲れたのかな?」
「あの、ナユタさん? 参考までに聞きたいんですけど、どうしたら、私が理事長に好意を抱いているように見えるんですか? それとも、それもグレイテルの仕業なんですか?」
「何で、グレイテル先生が出てくるの。どっからどう見ても好きそうに見えるからだよ。好きだからこそ、あんなに執拗に喧嘩しちゃうんでしょ?」
「単純に殺意をみなぎらせているだけなんですが?」
「うん。分かっているよ。だから、殺したいほど、好きだっていうことでしょ?」
ナユタが真顔で言い放つと、ルクレチアは地面に膝をついてうなだれた。
「………………もういいです。何もかも」
確実に、衝撃を受けている。そこまで、ナユタに知られたくない秘めた想いだったのか?
「…………あ、えっと、ごめん」
「何で謝るんですか?」
涙目で睨まれたため、ナユタはうろたえた。
ルクレチアが、ここまで喜怒哀楽に満ちた人間だと思ってもいなかったのだ。
「あまり触れられたくないことだったかなって。やっぱり、生徒と先生じゃ、禁断の関係になっちゃうもんね。グレイテル先生に止められてるのかな?」
「どうやら暗示ではなく、思い込みのようですね」
「…………思い込み?」
「確かに、私はグレイテル先生に貴方を任されたという経緯がありますが、理事長は無関係ですよ。更に付け加えるなら、私はアイツが大嫌いです。そこを誤解しないで下さいね」
「そうなんだ」
「そうですよ。まったく、そういうことはもっと早く私に直接聞いて下さい。答えることは答えますから。私が今日貴方について来たのは、貴方のことを見届けるためですよ。そんなことも分からないんですか?」
「見届ける? そんな、たいしたもんじゃないって、あれほど……」
「昨日、友達だと言い張ってたじゃないですか? 友達は人の恋路を聞くだけで、何もしない人間じゃないでしょう。私だって、貴方が気にしている男を見てみたかったんです」
サムエルとは、この課外授業が終わったら、フローラル島唯一の港で会う予定だ。
渡された手紙には、待ち合わせのことが細かく書かれていた。罠だとしても、ここまできたら、行くしかないと腹は括っているが……。
(なんで? ルクレチアは怒っているの?)
何が彼女の癇に障るのか、ナユタはいまだに読めなかった。
「でも、ルクレチアが一緒に来たところで、面白くないと思うんだけどな」
「私がいたら、いけないとでも言うつもりですか?」
「……そういうことじゃないよ。でも」
何て言ったら良いのか……。サムエルとは、恋愛関係ではないと昨日話したつもりだったが、ルクレチアには誤解されたままのようだ。だったら、尚更、気まずいではないか。
(そりゃあ、もし、本当に会えるのなら嬉しいけどさ)
真に受けたわけではないのだ。
サムエルがこんな所まで、一人で来るはずがない。
手紙なんて怪しいだけだった。何かの罠に決まっている。しかし、罠だとしても、どこでナユタの情報を知ったのがそれが分からない。
――だから、乗り込むしかないのだ。
何を察知したのか、今朝もリュイがしきりにナユタの身を案じていたし、胡散臭さは深まるばかりだ。
でも、ナユタはまだこの時は、何か起こるにしても、遠足が終わってからだと楽観視していた。
今回の件はすべてナユタとアベルに関わることで、他の生徒は無関係だと信じていたのだ。
……しかし。
「あの……。ナユタさん」
「なに?」
「今、声が……聞こえました」
「私には、聞こえなかったけど」
ナユタには一切、何も聞こえなかった。でも、ルクレチアはすぐに背後の山道を振り返っている。
とりあえず、ナユタも彼女と一緒に耳を澄ましたが、風で揺れる木の葉の音しか聞こえなかった。
「今も聞こえてる?」
「いいえ。今は……。でも、悲鳴が聞こえたのは事実です」
「悲鳴って、それはまた穏やかじゃないね」
「ちなみに、レイチェルです」
「レイチェルって、昨日のあの子? ルクレチアは、すごいね。私には聞こえないよ」
「…………ええ。確かに、彼女の声でした。彼女少し精神感応力がありますから」
歯切れ悪く、ルクレチアが言う。彼女は何かを迷っているようだった。
だったら、ナユタの言うべきことは決まっている。
「行ってあげてよ。レイチェルのところに。私、ここで待ってるから」
本当は一緒に行きたいと言いたいところだが、ナユタを連れて行くつもりなら、ルクレチアはこんなに迷ったりしないはずだ。
「ほら、声が聞こえたってことは、ここから近いってことでしょ。こんな学校だし、散々物騒だって言ったのは、ルクレチアの方じゃない。私は大丈夫だから。早く行ってあげて」
「……しかし。貴方をこんなところで一人には……」
ルクレチアは一瞬、深く考えこんだようだったが、すぐに覚悟を決めて顔を上げた。
「ナユタさん。絶対にここから動かないで下さい。あと、他の生徒に近づかないように」
「大丈夫だよ。子供じゃないし」
「十分、貴方は子供っぽいんです! いいですか。絶対ですよ!」
ルクレチアは名残り惜しそうに、こちらを見遣りながら、その場を去って行った。
(何で?)
アベルに好意がないのに、彼女がここまでナユタに尽くしてくれるのだろう?
「まっ、いいか」
頂上まではあと少しだ。
じっとしているなんて、ナユタらしくない。
(……ともかく、一位の証だけは持って行こう)
頂上に行って、一位になってから、再びここに戻ってきても、ルクレチアと合流できれば、問題ないではないか。
(いっそ、ルクレチアを驚かせる感じでね)
再び登山を始める。
すると、案の定、数分ほどで、頂上の看板に出くわした。
正直、もう少し登るだろうと思っていたナユタには、拍子抜けするほどの短距離だった。
(これだったら、ルクレチアには絶対にばれそうもないね)
「本当に遠足……だね」
ナユタの実家の裏庭より、遥かに楽な道のりだったかもしれない。
まだ生徒も教師も、誰もいない。
一番乗りだ。
なだらかな丘の上に、頂上の目印と聞いていた大木と旗があるから、ここが終点であることには、間違いはないだろうが……。
「うわーっ、すっごい、きれい……!」
頂上の看板まで歩いて行くほどに、景色が明らかになっていった。島の四方、海がきらきらと輝き、学舎は真昼の日差しに眩く照らし出されている。すべてが金色に見えた。
(もっと見てたいけど、あとでルクレチアと見に来よう)
名残惜しいが、早くしないとルクレチアが戻ってきてしまう。
ナユタは早速、終着点の象徴である赤い旗のもとへと行った。
「ああ、これだ」
旗の下には小さな木箱が置いてあった。
……一等賞の証しだ。
きっと「アベルとの一日おしゃべり券」が仰々しく入っているのだろう。
ナユタは、苦笑を浮かべつつ、何の抵抗もなく蓋を開けた。――が。
「えっ?」
箱の中身は、思いもよらない……。
……古ぼけた手鏡一つだった。




