第3章 ②
聖カレア学院に、ナユタが強制入学を果たしてから、六日の月日が流れようとしていた。
すっかり、この生活に順応してしまっているナユタ自身、自分が怖いような気がする。
アベルはというと、昨日、ヒースクラウトに出張に行ってしまったらしい。
急な用事なのだとグレイテルから聞いたが、ナユタがもう少し屋敷で待っていれば、アベルが戻って来たのかと思うと、ナユタはやるせない気持ちで一杯だった。
まさか、陸の孤島に放り出されるとは……。
しかも、明日は課外授業という名の遠足である。
護衛も連れずに、遠足に行ったことなんて一度もなかったけれど、この年齢になって、喜ぶべき行事でもない。そもそも行く先は学校の裏手の小山なのだ。
(私は一体、どこに行こうとしているんだろうな。まったく)
もっと、アベルと話しておけば良かった。その場の怒りだけで、執拗にアベルを避けてしまった。リュイの言う通りだ。
(私、意地を張り過ぎていたのかも……)
しかし、自己嫌悪に陥り、後悔したところで、それでも、淀みなく時間は流れていく。
天井の高い、広い食堂。賑やかな昼食の風景が、ナユタの視界の隅に映っていた。
上品にナイフとフォークを操る静かな乙女の園で、ナユタは悶々と悩んでしまわないように、一人豪快に音を立て、がつがつと食べるしかなかった。
いつもは、どんな時でも、ルクレチアが傍にいるのだが、彼女は昼食前にグレイテルに呼び出されて、ここにはいない。
そういえば、この学園に来て一人ぼっちの食事は初めてだった。
寂しく感じるのは、やはり慣れのせいだろう。
溜息を吐きつつ、メインディッシュの肉料理にフォークを伸ばした時だった。
「ナユタ=バーランド……様ですよね?」
「えっ?」
突然名前を呼ばれて、警戒しつつ顔を上げる。目の前には、見知らぬ少女が立っていた。
「えっと、貴方は……?」
「ご一緒してよろしいですか?」
嫌とは言えなかった。答える前に、栗色の髪を二つに結った愛らしい猫の瞳のような大きな瞳の少女はナユタの前に座っていたからだ。
「レイチェルです。いつも、ルクレチアお姉様がお世話になっています」
わずかに首を傾げて、柔らかい微笑を浮かべる。癖のない、人懐っこい印象を受けた。
ルクレチアも常に笑顔ではあるが、元来素直なのだろう。人の悪さは、滲み出ていた。
(…………あの孤独が友達のようなルクレチアを「お姉さま」って?)
「もしかして、ルクレチアの妹?」
「いいえ」
「でも、お姉さまって?」
「私、クラスは違うんですが、寮でルクレチア様と同室なんです。ルクレチア様とは、同年ですが、誕生日はルクレチア様の方が先なので、お姉さまってお呼びしているのですよ」
「あ、そうなんだ」
ようやく合点がいった。身内でもなく、会話の必要性を感じない人間に対して、警戒心の塊のようなルクレチアが口を開くとは思えなかったのだ。
「でも、レイチェル……さん。私のことは「様」なんてつけないでね。年も同じくらいだろうし、ナユタ様だなんて、むず痒いから」
「いえいえ。ナユタ様。同室のルクレチア様が貴方様には、大変なご迷惑をおかけしているんですから、このくらいは当然です」
「いや……、だけど、本当、迷惑だなんて、思ってないから。色々あったけど、ルクレチアが教えてくれるから、私はこの学校にいることが出来るんだよ」
「えっ? 教える?」
「ほら、土に埋めた呪いの見分け方とか、教室に仕掛けられた罠とか、色々あるでしょ?」
「ナユタ様は、面白い冗談を言うんですね」
……冗談ではないのだが?
しかし、レイチェルはもうナユタのことなど眼中にないようだった。カップの水をごくごくと豪快に飲んでいる。
「…………水、おいしい?」
どこからどう見ても、食堂でおばちゃんが出してくれる井戸水ではないか?
「おいしくはないですよ。でも、これが私の主食ですからね」
「…………はっ?」
「面白い反応をしますよね? ナユタ様って」
レイチェルは向いの席から、顔をぐいっとナユタに近づけると、ナユタに小声で言った。
「私の捧げ物は、「食欲」なんです」
「それって、ルクレチアが言っていた法術使うための代償ってやつのこと?」
「食事をして美味しいなーという味覚。満腹中枢が私にはないんです。むしろ、食べれば食べるほど、術の精度が下がってしまう。だったら、極力食べない方が良いのです」
「そんな」
ナユタは自分の皿にたっぷり盛ったポテトサラダと、二切れのパン、そして、温かいかぼちゃのスープを見下ろしてから、再び顔を上げた。
「さすがに、何も食べないと死んでしまいますから、夜は食べてますけどね」
「苦行だよ。私には絶対、耐えられそうにない」
そこまでして、「法術師」になりたいのだろうか……。
術が使えるのは、凄いことかもしれないが、何かを犠牲にしてまで、力を手に入れたところで、虚しいだけではないか?
「まあ、普通は理解できないでしょう。でも、これが私たちの常識です。たとえば、ほら」
レイチェルが振り返り、真後ろで食事をしている見るからに魔法使いっぽい黒外套の少女に視線を向けた。
「あの子は声を捧げているらしいですよ。彼女の声をこの学校で聞いた者はいません。ここは、そういう所なんです」
「だ、だけど、学校帰りに甘い物を食べて帰ったりとかさ……」
「そんな優雅な放課後は、我々にはありませんよ。ナユタ様は恵まれているんです」
優しい口調で突き付けてきた一言は、辛辣だった。
「……恵まれている?」
「はい。この学校は表面的には穏やかですが、生きるか死ぬかの危険な場所です。貴方は恵まれすぎている。きっとナユタ様のため、貴方の知らないところで、いろんな人間が一丸となって動いてくれているんでしょう。羨ましい限りです」
「…………レイ……チェル?」
(何? 私、何かこの子に悪いことしたかな?)
動揺するナユタから満足そうに視線を逸らしたレイチェルは、ぽつりと告げた。
「私、ルクレチア様が貴方と過ごすようになってから、随分と変わったように思うんです」
「……ルクレチアが?」
「はい。浮き足立っているような」
「えっ?」
今日も素敵な仏頂面で、ナユタの神経をすり減らすような毒舌を繰り出していたが?
「えーっと。浮き足立っているというより、浮世離れしているという感じじゃ……」
「いえいえ。そわそわしている感じです」
「そわそわ?」
「まるで、初恋のような」
「ごほっ!」
ナユタは激しくむせた。
……危なかった。
もし、食事中だったら確実に吹き出していた。
「レイチェル? コイって、あの恋のことだよね?」
狼狽のあまり、意味不明な質問を投げてしまったが、レイチェルは丁寧に教えてくれた。
「もちろん。特定の人を見ると、胸が高鳴ったり、頬が紅潮したりするアレです」
「…………知ってるよ」
ナユタは、手にしたパンを小さく千切り続けた。
「……一応、ルクレチアが……その、恋をしているのは、知ってたんだ。……だけど」
彼女がアベルに恋していることは、知っている。
しかし、ルクレチアの恋の仕方は、普通と違っていて、顔を赤めて好きな人を見守っているのではなく、顔を真っ赤にして、好きな人に殴りかかるという特殊なものだった。
(浮き足立ってる? あれで?)
アベルが出張に出掛けているのに、寂しがっている気配すらしなかったのだが……。
「まったく、見事な三角関係ですよねえ。あの人も可哀想に……」
「三角関係!?」
アベルには、妹のナユタ以外、女の影なんてない。グレイテルは男なのだから……。
――だとしたら、やっぱり?
「私のせい……なのか……な?」
「はっ?」
「困ったな。そんなつもりじゃなかったのに、ルクレチア、やっぱり私のこと、気にしているのかな?」
兄アベルは、ナユタを溺愛している。
ナユタはアベルのしたことが許せなくて避けてはいるが、アベルがナユタに対して、あからさまに暑苦しい視線を送ってきていることには気づいていた。
「私がいなくなれば良いんだろうね。でも、何だかややこしいことになっちゃっているし」
「ナユタ様ったら、随分と、自信満々な自覚の仕方ですね。意外に悪女なのかなあ……?」
「悪女? 私が? 面白い冗談だな。弟の次は悪女って」
「うーん。ワザとじゃなんいですよね。だからこその悪女なんですけど。でも、そっか、悪女じゃないか。だって、ナユタ様には、故郷に一途に想う人がいるんですものね」
「…………えっ?」
いつの間にか、話の矛先がルクレチアから自分に変わっていたらしい。
「名前はサムエルでしたっけ。そうでしょ?」
「なぜ、レイチェルが知っているの? 私は兄さん以外誰にも、話してないんだけど?」
怪訝な顔を向けると、レイチェルは慌てて言葉を付け足した。
「あっ、もちろん、盗み聞じゃないですよ。盗聴は本人にバレないように。忍び込むなら、本人を刺激しないようにやるのが玄人の仕事ですからね」
「……どちらにしても、犯罪のような気がするけど?」
「はい。バレれば、そうですけど、バレなきゃいいわけです。でも、バレたあげく、弾みで女性を押し倒してしまい、罪に問われたという、珍しい話なら最近聞きましたけどね」
「はあ?」
「こっちの話です」
レイチェルは一人で大笑いすると、制服のポケットから白の四角い封筒を取り出した。
「さっき、サムエルという男性から、ナユタ様に渡して欲しいと頼まれたのですよ」
「…………サムエル?」
「はい。そう名乗っていました。ほら、封筒にサムエルって署名もあるじゃないですか」
真っ白な封筒の表には、「ナユタ嬢へ」とあり、後ろには、サムエルの名があった。
「本当だ」
(…………でも、一体、どうして?)
サムエルがわざわざナユタのために手紙を書いてくれたのは嬉しいが、わざわざ、こんな所まで来てくれているなんて、驚きを通り越して、ある意味、不気味だ。
「ここの学校って外部から人が入って来るのは難しいから、私に託したんでしょうね。良かったですねえ。わざわざ迎えに来てくれたんですよ」
抑揚のない口調で告げられて、ナユタは戸惑った。
どうやらレイチェルには、あまり良い印象を持たれていないようだ。それでも、彼女はナユタに手紙を届けてくれた。とてもありがたいことだが、腑には落ちない。
(何だかなあ……)
一介の郵便配達員のサムエルが、どのような手段でナユタの居場所を突き止めて、こんな小さな島にまでやって来たのか?
(……恋人がいるんじゃなかったの?)
――分からない。
それでも、ナユタは封筒から小さく折り畳まれた便箋を取り出した。




