第3章 ①
先日、アベルによって破壊された校長室は見事に修繕されていた。ステンドグラスから差し込む光が、白一色で統一された調度品を淡く照らしている。
何事もなかったかのように、修復されているのは、グレイテルの術が一流だからだ。けれども、グレイテルを誉めてやる気配りなんてリュイにはない。
部屋の中央で優雅に長椅子に座っているアベルとグレイテル、彼ら二人を交互に睨みつけるだけだ。
「おい、グレイテル。お前、ナユタに、暗示をかけただろ?」
「…………察しが良いですわね。リュイ殿。お体が小さくなっても、頭は冴えていますわ」
グレイテルは、リュイの苛烈な眼差しを受け流すように、花の香りがする茶を一口啜った。深いため息を吐いたのは、気分を落ち着かせるためだ。正直、呆れ果てていたのだ。
「すぐに分かったよ。いくらナユタが鈍くても、さすがにここにいる奴らが男であると気づかないはずがない。ここにいる連中が女だと思い込むように、暗示をかけたんだな」
「ええ。あの子は頭の良い子ですから。ここにいてもらうためには、こうするしかなかったんです。もっとも永久的な効果はありません。何かのきっかけで解けるものです。もしも、そういう暗示方法があるのなら、彼女の男性過敏症は私でも治せましたから」
「そうか」
理由は分かったが、どうせならもっと早くに教えて欲しかった。
「でも、そのおかげでアイツは発作を起こしたんじゃないのか?」
「……ですね。この学校には男がいないと暗示をかけたので、警戒心が薄れたみたいです」
「何してんだよ。かえって危険じゃねえか……」
リュイの殺気立った眼光は、グレイテルだけでなく、アベルにも向かった。
「もとはといえば、お前が目立つから、法術師協会にナユタのことがバレたんだろ? もし自宅にいて拉致されたら、どうするつもりだったんだ?」
「自宅には私が信頼している手練れの者たちがいるのですが、今回ばかりは機能しなかったようですね。ナユタが連れ去られていたら、どんなふうに国に利用されたか知れない……。考えるだけで、恐ろしい。すべて私の失策です。申し訳ない。リュイ殿」
アベルが素直に頭を下げた。
「もっと警備を厳重にしておけば良かった」
「……だろうな」
「しかも、奴ら、ナユタが純粋なことを利用して、若い男を使いやがって。断じて許せん!」
「もう、いい。気色悪いから、熱くなるな」
呪いの言葉を吐きながら、額を長椅子の角に打ちつけるアベルを目の当たりにして、リュイの方が冷静を取り戻した。
「それで、協会は、どう仕掛けてくるつもりなんだ?」
「ああ。実に奴ららしい、手口で来るようです」
言うや否や、アベルは筋肉で作られた胸の谷間から、一枚の手紙を取り出した。
「ヒースクラウト法術師協会の総長が直々に私に呼び出しをかけてきました。十中八九、罠でしょう。この隙にナユタを浚うつもりなのです。大々的に誘拐しないのは、この学校の出資者が、ヒースクラウトの王族にもいるからでしょうな。事を荒立てたくないらしい」
「どうするんだ。お前は?」
「行きますよ。当然です」
アベルは、子供が悪戯を企むような含みのある微笑を浮かべていた。やはり、ナユタはコイツのもとにいるべきではなかったと、リュイは悔いたが、もう遅い。
「誘いに乗ればお前だって、タダじゃ済まないと思うが?」
「リュイ殿。アベルなら大丈夫ですよ」
グレイテルが無邪気に笑っていた。
「むしろ、感情に走ってとんでもないことをしでかす心配はありますけどね。確かに、私たちにとって、法術師協会は気前の良い出資者で、重宝していたんですげと、でもナユタちゃんが絡むなら話は別です。奴らのやり口はよく知っている。奴らを出し抜くためには、正攻法では無理なんです。裏の裏をかかなければ」
「裏の裏をかいて、正面突破かよ」
「楽しみですね」
結局、この二人は似た者同士なのだ。ともかく、未知の力が使えないリュイにとって、この学校の理念も、法術師なる存在も、すべてがどうだって良かった。
肝心なことは一つ。――それが共通項のない彼らとリュイを繋ぐ「絆」でもある。
「……ともかく、ナユタの安全は守ってもらえるんだな?」
「もちろん」
「最悪の事態も、想定しているんだろうな?」
「最悪とは? いずれ通らなければならない事態に関しては想定しておりますが?」
(いずれ……ね)
グレイテルの言葉に、リュイは何も言えなかった。
いつかは、やらなければならないことだ。リュイはそのためにツキノワ中の神官たちから情報を集めたのだ。
――しかし、その機会は「今」ではない。もっと、彼女が大人になってからでも遅くはないはずだ。
グレイテルが軽くリュイの肩を叩いた。
「まっ、リュイ殿。気楽にいきましょうね。大丈夫ですから。最悪なんてことはにはなりませんわ。あと数日の辛抱です。協会の裏をかいて、ナユタちゃんには、必ず安全な場所に行ってもらいます。ちょっと辛い方法にはなりそうですが、彼女なら大丈夫でしょう」
それには、アベルが非難の声を上げた。
「グレイ。私は全然大丈夫じゃないぞ。サムエルの名前でナユタを誘い出すなんて、もしも、私が知っていたことをナユタに気づかれたら、私はナユタに恨まれるじゃないか?」
「でも、この作戦は法術師協会側が言い渡して来たものだって、ルクレチアが言っていたのよ。こちらから、変更して下さいってお願いしたら怪しまれるじゃない? それに、ナユタちゃんは、サムエルに対する気持ちは恋じゃないって否定したんでしょ。だったら?」
「そ、それはそうだが……、せめて、サムエルの正体くらいナユタに教えても」
「サムエルの正体を教えるということは、彼女の出生を明かすことにも繋がるわよ。男性過敏症を解くこともしたくないのに、彼女の絶望感に追い打ちをかけるわけ?」
「…………でも、ナユタを利用するのは、気が進まなくて……だな」
この件になると、アベルの歯切れが悪くなる。協会がやろうとしている稚拙な作戦には、リュイもまた疑問を感じていた。ナユタは意外に鋭いし、愚鈍ではない。
(また暗示を使うのか? それとも銀髪の坊やが上手く収めるのか? 俺が心配しすぎだというのなら良いが……)
――もう二度と、後悔はしたくないのだ。
だから、どうしても、リュイは最悪を想定してしまうのだ。