第2章 ⑥
「何てことだっ!」
許せないとばかりに机を叩いて、しかし、アレクサンドラは、いじけていた。
この学校に入学したのは、法術師にとって憧れの存在であるアベル=バーランドに近づくためだった。
ヒースクラウト最強の魔術師アベルのことは、子供の頃から父に聞いて、憧れていた。いつか、自分もアベルと共に働くことを夢見ていたのだ。
だからこそ、彼が法術師の学校を開校すると聞いた時、アレクサンドせは真っ先に飛びついたのだ。
――たとえ、この学校が女装の怪しげな学校でも……だ。
「クソっ」
まず、ルクレチアの存在が苛立たしかった。
学年一の秀才であるアレクサンドラが容易に近づくことのできないアベルに、事もあろうか毒を吐き、朝から互角に戦っているのだ。
(アベル様にあんな口を利いて、毎日生き延びているなんて信じられない)
害虫駆除のつもりで、いつかルクレチアを成敗してやろうと思っていた。
――それなのに。ルクレチアは、よりにもよって、あんなに毛嫌いしていたアベルの弟を伴って登校して来たのだ。
しかも、入学以来、見たこともない笑みまで浮かべて……。
(ムカつく~!)
本来であれば、学級委員であるアレクサンドラが、アベルの弟の護り手になるべきだし、弟もアレクサンドラに頼んでくるのが筋なのだ。それを頼るどころか、殴ってくるなんて。
(ナユタと言ったか……。アイツ……)
アベルの弟らしいが、とてつもなく怪しかった。兄弟というのに、まるで似ていない。
あんな弱そうで役に立たないような弟に、アベルは恐ろしいほど過保護だった。
(……怒られた。アベル先生に)
最悪な場面を目撃されて、ルクレチアと同等の扱いを受けるなんて、屈辱的だった。
(ああ、何でもいいから、ルクレチアを、懲らしめてやりたい! 跪かせてやりたい!)
帰宅してからアレクサンドラは、寮の自室で悶々と考え込んでいた。いつの間にか、周囲が暗くなったことに気がついて、机から離れようとした時……、肩を叩かれた。
「わっ!!」
ハッとして後ろを見る。
――と、そこには同室のネアリリスが突っ立っていた。
病人のような青白い顔のほとんどは、長い前髪で隠されていて、髪の隙間から覗く灰色の瞳は何の感情も持っていないようだった。気配もないので、幽霊のようでもある。
「まったく、何度言ったら分かるの。音も立たずに背後に立たないで頂戴」
膨れ面で言う。言葉遣いには、すっかり染みついてしまった女らしさが溢れていた。
けれど、感情のままに口走ってから、アレクサンドラは思い出した。彼は仕方ないのだ。声が出せないのだから……。
今更謝罪することも出来ず、注意深く観察していると、彼は持っていた紙に走り書きで『ごめんなさい』と書き込んだ。
彼は声を「神」なるものに捧げている。出せないわけではないが、出すことは稀なのだと言う。
「ど、どうしたのかしら? ネアリリス。もう食事の時間?」
気が咎めて、少しだけ柔らかい口調で訊ねると、彼は質問の答えとは違うことを紙に書いて、アレクサンドラに手渡した。
『野外授業の機会を利用して、ルクレチアの過去を覗き見しませんか?』
「野外授業?」
そういえば、七日後に野外授業があると校長のグレイテルが言っていた。
しかし、実際は授業とは名ばかりで、法術師の体力を養うため、島で唯一のキアナ山に生徒全員で登るのだ。誰が一番に登頂するか、賭け始めている生徒もいるくらいだった。
「ルクレチアの過去って、確かにアイツが何者かは分からないけど」
『ルクレチアはおかしい。あのアベルと対等に戦える力。授業にほとんどでなくても、彼は実践的なことを、ほとんど会得している』
「確かに。授業に出ていないのに、それでこの学校にいられるっていうのも変よね?」
『私なら出来る。彼の弱みが握れるかもしれない』
「それは、とても楽しい企画だわね」
アレクサンドラは碧色の瞳を悪戯っぽく細めた。
「……で、ネアリリス。俺……、いや、わたくしはどうしたらいいのかしら?」
二人の筆談は、深夜にまで及んだ。
……そして、そのやりとりの一部始終を、眺めていた人間が一人。
天井裏から冷ややかな眼差しを送るのは、華奢な体を窮屈そうに、小さく丸めた茶髪の少年であった。