第2章 ⑤
――――そうして。あっという間に一日が過ぎた。
強引に引きずり込まれた授業だったが、意外と面白かった。
国語や数学などの教養に関しては、ナユタは地元の学校を卒業しているので、一度習ったことの復習だったし、最大の懸念だった法術についても、まだ応用まで進んでいないらしく、教科書の基本を教師が話すだけだったので、ナユタでも何となく理解ができた。
短気で危険なのは、ルクレチアとアレクサンドラの二人だけなのだと、気づいてしまえば、あとの生徒は、優雅で清楚な淑女しかいなかった。久々に大勢の人に囲まれ、満足してルクレチアと別れたナユタだったが、その時になって、やっと思い出したのだった。
(私、怒ってたんだよね。たしか……)
リュイの部屋の前に立って、呆然となった。アベルの部屋に行くなんて、絶対にできないが、リュイにも迷惑をかけたのだ。何食わぬ顔で同室におさまるのは失礼ではないのか?
(正直、ここから逃げ出して、実家に帰るという選択肢もありなんじゃ……)
アベルには命令されたが、別にナユタは拘束されているわけでもない。
(このまま実家に帰って、兄さんを困らせたら、すかっとするのかな?)
長い時間、仄かに暗い廊下で独り思案していると、突然ぎいっと手前の扉が開いた。
「ひっ!」
驚いて、仰け反ると、視界の下の方に見慣れた黒髪の少年がいた。
「何だ。リュイ君か……。びっくりした」
「びっくりしたのは、こっちの方だ。ずっとそこで突っ立てられたら、気持ち悪いだろう。大体、この島から出る船はもう終わってるんだ。いくらここが嫌でも、現実を受け入れろ」
「……あっ、そうだった」
ナユタは素直に感心した。それにしても、相変わらず年上を敬うことを知らない少年だ。
「でも、君、よく私の考えていることが分かったよね?」
「ずっと、そこに立ったままお前が考えることなんて、たかが知れてる。グレイテルと話はついているんだ。俺はお前と同室でも問題はない。いいから、とっとと入れ」
「……すごいね、君。子供なのに、法術師みたいだよ……」
悩んでいたことをすべて口に出されて、ナユタはあっけにとられていた。
部屋の中は真っ暗で、闇に消えて行く小さな姿を追って、ナユタも粛々と室内に入って行く。室内のランプを探しつつ、ナユタはまず小さく頭を下げた。
「有難う。リュイ君。同室で良いって言ってくれたんだ」
「別に。黙って、実家に帰るよりは、一般教養も含めて、きちんと学んだ方が良いんじゃないかって思ったんだ。お前、バカっぽいから……」
「……一応、優しい心遣いと受け取って、感謝しておくよ」
崩れそうな笑顔を懸命に維持していると、リュイの鋭い瞳がナユタをじっと見ていた。
「あっ、昨夜は本当にごめんね。私のせいで大騒ぎになっちゃって。眠れなかったかな?」
「いや、だから、怒ってないんだ。目つきの悪さは生まれつきで……」
「そう……なの」
「ただ、お前、無理してるんじゃないかって。だから、その、ああっ。まだろっこしい!」
「はあ?」
あまり意味は分からなかったが、どうやら、リュイはナユタを心配してくれたらしい。
「バーランド家って、一応、名門なんだってな。代々貴族の家柄で、お前はその養女なんだろ? 兄貴があれじゃ、お前も苦労もしてきたはずだ」
「まあ。兄さんはあんな人だから。色々ね。でも、私は自分で恵まれてる方だと思うんだ」
今回のことは、心底腹を立てている。だが、諦めている気持ちもあった。
あの屋敷に住んでいて、兄の目から逃れようとする方が無理なのだ。
「ふーん。納得済みか。でも、そういうのが危ないんじゃねえの? 不満があるなら、根に持って、発散した方がいいぞ。アベルの従順な人形になっているお前を見ると腹が立つ」
「根には持ちたくないけど、それなりに発散はしていると思うんだけどな」
「そうかな。……俺にはお前の強い意志ってものが伝わって来ないんだが……」
(……分かってるよ。私だって)
本当は、逃げている。でも、ナユタだって必死に足掻いているつもりだ。アベルの掌の上だけかもしれないが、それでも、自分でやれることはやっているつもりだった。
だから、ナユタはリュイに対して、ささやかな抵抗をしたくなった。
「ツキノワ……なんでしょ?」
「…………えっ?」
途端に、リュイが目を丸くした。
「――リュイ君。君は私と同じツキノワ人なんじゃない。違う?」
「………………」
リュイは、明らかに狼狽している。
初めてこの少年を言い負かしたようで、ナユタは少し得意げになった。
「ヒースクラウトではトゥーナって呼ばれてるけど、本当はツキノワ。初めて、君に会った時から、私と同じところの出身なんじゃないかって、思ってたんだ。まっ、広い国だろうし、さすがに知り合いとまではいかないとは思ってるけど」
「……そうか。お前も一応は、人並みの脳みそを持っているらしい」
相変わらず、言葉は生意気だが、リュイは満足そうだった。ツキノワ人というのは、正解だったらしい。やっぱり、リュイはアベルに似て温かい人なのだ。そして、サムエルに感じる思いにも似ている。まるで、家族のような……。
ふと、顔を上げると、リュイがナユタの肩越しに空を仰いでいた。
「……ずっとな、月を見てたんだ」
「……月?」
地平線に薄ら橙色を残して、暮れて行く空に真ん丸の月。
唐突な言葉に、ナユタは一瞬戸惑ったが、すぐにその理由が分かった。
「あっ、そうか。今夜は満月だったんだね。お月見してたの?」
「…………俺は、月がキライだ」
「……そう……なんだ」
……じゃあ、わざわざ見上げる必要もないだろうに。
そう続けようとしたところ、リュイが遮った。
「ナユタ。ツキノワのツキは月の意味なんだ。「月の輪」が正式名称なんだよ」
「そうなの?」
「結構有名だぞ。この程度のことも調べてなかったなんて、やっぱりお前はバカだ」
「バカバカって連呼しないでくれるかな。ヒースクラウトには、海を隔てた隣国のわりに、ツキノワの資料って少ないんだから」
「じゃあ、一つ賢くさせてやるよ。ツキノワではな、月の女神を崇拝するんだ。ちょっと前までは、女神の血を引く巫女一族の娘を女王となり、四代元素を専門にする術師が彼女を補佐して、国民を統治していた。そこがヒースクラウトとは大きな違いなんだろうな」
「女神が女王……?」
「迷信だよ。いるはずないだろ。女神なんて。だから俺は月がキライなんだ」
自嘲するようなリュイの口振りに、ナユタは困惑した。
リュイの横顔が大人びていて、まるで、疲労困憊している大人の男性のような気がした。
「ツキノワに女神はもういない。十五年前にヒースクラウトが軍事介入し、国家体制は大きく切り替わった。だけど、また荒れそうな気配はある。……どうせ、ヒースクラウトでは知られていないことなんだろう?」
「……うん。知らない」
「無理もない。そういったことは国家ぐるみで隠す国だからな。ここは……」
物憂げに呟いている少年に、ナユタは心から同情した。
ヒースクラウトの現状など、普通の子供の知るところではないはずだ。
彼は普通ではないのだ。――だから、ここにいるのだろう。
「……君がここにいるのは、再び争いが起こりそうだから?」
「一応、……そんなところだ」
十五年前、ツキノワの内乱の最中、アベルがナユタを引き取った。
(もしかして、私はその戦争のせいで男嫌いになったのかな?)
記憶がないから、何ともいえない。十五年前、ナユタはまだ二歳だった。
「実の両親のこと、まったく覚えていないのか?」
おもむろに、しかし、気遣うようにリュイが訊ねてきた。ナユタは、こくりとうなずく。
「ぜんぜん。さっぱりだよ。せめて、おぼろげに覚えているとか、夢で見るとか、そういうのがあれば良いんだけどね。まあ、別に、今更会いたいとも思わないし、いいんだけど」
「それじゃあ、なぜ? お前はツキノワのことを調べていたんだ?」
「それは……。私、どうしても治したい体質があって、そのために調べていたんだ。自分がどういう人間か分かれば、解決するような気がしてた。徒労に終わったみたいだけどね」
「………………そうか」
リュイは深々とうなずくと、月に背を向け、自分の寝台に腰をかけた。
ナユタは微苦笑すると、寝台の端に座るリュイの傍らに腰をかけた。
「今まで、大変だったね。でも、ここにいれば大丈夫。兄さんは変だけど、無敵だから」
「何だ。結局、アイツのことは信頼してるのか。つまらん」
「えっ?」
「変態兄貴のことだよ」
「…………うっ。まあ、一応……信頼……してる……かな?」
無心で口にしてから、やっぱり、ナユタは本気でアベルのことを怒っていない自分を感じていた。それは、先ほどのリュイの口ぶりでは、きっと余り良い傾向ではないのだろう。
「そんなに信用できる兄なら、お前を怒らせるようなことをわざわざするもんかね?」
「ん? …………私が怒る……こと?」
そこで、ようやくナユタは自分の感情以外の側面に思いが及んだ。
アベルなら、分かっていたはずだ。ナユタがサムエルのことに触れれば羞恥の余り、激昂することを……。それでも、あえて口にしたのは、何故なのか?
理由は一つしかない。……アベルが困った時の常套手段。
―――サムエルのこと以外に、もっと重大なことをナユタに隠すために違いない。