水
この章は終わりです。
表3
私の心は穏やかではありませんでした。不安ばかりが胸に積もるばかりでした。
私は奥歯を噛みしめました。悔しくてたまらなかったからです。待つことしかできない、何もできない自分が歯がゆいのです。
玄関の戸が開いた音を聞いたとき、私は跳ね上がる思いでした。居ても立っても居られませんでした。
「おかえりなさい」
私は三人にそう言いました。
「すまなかったな。加奈ちゃんも」
セイイチさんは加奈ちゃんに謝らせました。
「大事にはいたりませんでしたか?」
私がそう質問すると、一瞬だけ、空気が凍りました。しかし、すぐに加奈ちゃんが「一人にしてごめんね」と腕を後ろに隠し、体を揺らして、私に謝るのでした。
「それは……大丈夫」
「まあ寝させてもらうわ。ちょっと疲れた」
「あ、はい。お休みなさい」
セイイチさんは二階へ行ってしまいました。ハナちゃんもそれについていくのでした。
加奈ちゃんは、ここに残りました。ソファーに座りました。私は加奈ちゃんにもう一度たずねました。
「本当に、何も……なかったの?」
もしかしたら加奈ちゃんはハナちゃんの秘密に触れてしまわれたのかもしれません。そうなれば、口を封じなければならない。まずセイイチさんだったらそう考えるはずです。でも、そうでない、というのならば目撃されなかったまたはセイイチさんが何らかの理由でそうしなかった。これが考えられます。
セイイチさんは加奈ちゃんに何かしら思う節がありました。同情のようなもので、このように加奈ちゃんは生きているのでしょうか。
「ふうかは……死んでるの?」
加奈ちゃんが何の脈絡もなく、このような質問をしてきました。私は一種のパニック状態に陥りました。
「ど、どういう……?」
「あの人が、そう言っていた。私ね……秘密、聞いちゃった」
私は息を飲みました。
「そう……だったんだね」
私は何となくではありますが状況を飲み込めました。
「本当だよ。触ってみる?」
私は加奈ちゃんにそう言ってみました。加奈ちゃんは恐る恐る手を伸ばしました。私の腕にそっと触れました。
「……ホント、だ」
加奈ちゃんは私の手を握りしめました。残念なことに、私にはその感触が全くありませんでした。
「どうして死んだの?」
セイイチさんは細かいところまでは話してはいないようでした。
「何があったかを、説明してくれる?」
私は説明を求めました。セイイチさんがどこまでを話したのか、それを知りたかったのです。もしかすると、セイイチさんが話すべきではなかったことを私がつい話してしまう恐れがあったからです。私は加奈ちゃんの話を聞いて、それからセイイチさんが話した内容に正当性を作ります。
「実は……」
加奈ちゃんは事情を語り始めました。私は黙ってそれに耳を傾けていました。
私は以外に落ち着いていました。加奈ちゃんがセイイチさん達を尾行し、ハナちゃんの食事現場を目撃してしまった事。それから犯人グループの一人を殺害した事。それらを話してくださりました。ポツリ、ポツリと淡々と順序良く話してくれました。
加奈ちゃんはそれから、セイイチさんにハナちゃんの正体を話しました。それと、私の体の事も。ただ、セイイチさんが話したのは身体の事だけ、それだけだったようです。
「殺されるのって、嫌だった?」
加奈ちゃんは小さくなっていました。おどろおどろしく質問をしました。
「それは……嫌……だよ」
私はあの時の事を思い出してしまいました。愛した人に裏切られて、殺された。その時の気持ちは計り知れぬものでした。言葉には表せない、何とも言えぬ、絶望。
「腕も見てみる?」
私は、接合された個所を加奈ちゃんに見せた。私一人では袖をめくることはできなかったので、加奈ちゃんにめくってもらった。そうすると、その部分が露わになった。
「この腕は、私の物じゃないの。セイイチさんがプレゼントしてくれたものだよ。本物は知らない所にあるの」
「本当の自分の腕は欲しいの?」
「うん。出来たらね。でも、無理な話かもしれない」
「そんな事……ないと思う」
加奈ちゃんは目を伏せました。
「少し、私の話をしてもいいかな?」
加奈ちゃんは小さく頷きました。
「私はね、とある人に殺されたんだ。その人は私の想い人だった。そして、あの人も私を「好きだ」って言ってくれた。私は嬉しかったんだ。でも、裏切られた。本当はね、あの人は私の事が好きじゃなかったの。私の体しか見ていなかった。私は彼に偽りの愛を与えられていたんだ。その事を知った時、私は憎悪を抱いた。だって、初めて愛をくれた人だったから……。そんな人に尽くそう。そう思っていた。でも、思っていたのは私だけだったみたい」
私は加奈ちゃんに恥ずかしい思い出を語ります。
「加奈ちゃんは、ご両親の事が大好きなんだよね。加奈ちゃん自身も、ご両親から愛されていた。だから、その人たちを殺した犯人たちが憎かった」
「うん。そうだよ。だから……」加奈ちゃんはここで言葉を止めるのでした。
「結局、人から愛されても、愛されてなくても、人は人を殺してしまうんだよね。自分の感情を鎮める為に。それが殺される人にとっては、正直言って迷惑なこと。自分勝手。相手の目に映るその人は、豹変した化け物のようなもの。例えそれが見知らぬ人でも、憎い人でも、愛した人でさえも、そう捉えてしまう」
私は話しているとき、セイイチさんの顔を思い浮かべていました。あの人もまた、同類なのですから。
「わたしは、ただ……仇を打ちたかった。それだけなの……」
加奈ちゃんはまるで怯えた子犬のようでした。私が自分を非難している、そう感じての事でしょう。
「私は、ハナちゃんに私が愛した人を殺された時……嬉しかったんだ。冷めていたんだ。だからもう、愛などはとっくに消え失せていて、憎しみしか私にはなかった。私は加奈ちゃんが羨ましい」
「なんで?」
「私は、両親に愛されていなかった。私の両親は共働きで、いつも家にいなかった。夜遅くに帰ってくることが当たり前。それだけではなく、一週間帰ってこないことだってあった。だからいつも私は一人ぼっちだった。そして、乾いていた。飢えていたんだ。私には愛が分からなかった。両親から欲しかったんだ。だから、愛情を欲していたんだ。それで、それを私に与えてくれた人が私を殺したんだ」
「……」
「私は、好きな人、愛をささげられる人が欲しかった。そして、それが私にとっての理想の家族だった。私は死んで、それをようやく理解できた気がする」
「そうなんですか」
「私は、加奈ちゃんが羨ましいんだ。その年で、しかもちゃんと生きている間にその事を理解できたのだから。私はそんな加奈ちゃんが大好きだよ」
「あ、ありがとう……」
「加奈ちゃんがしたことは、正しくなどはない。でも、その気持ちは二度と忘れないでね。家族を、人を愛する気持ちを。そしてそれが人を傷つける刃となるかもしれないという事を」
「……うん。分かった」
加奈ちゃんは力強く頷くのだった。
私は加奈ちゃんに優しく微笑みかけました。加奈ちゃんもそれにつられて笑いました。
私は、加奈ちゃんに本当に伝える事が出来たのか、その不安が頭の片隅に固まって残っていました。
「ふうか。一つ、また聞いていい?」
「いいよ」
「今の家族は、本当に好きなの?」
「好きだよ」
私は真実を述べました。これは偽りではない本当の気持ちです。私は、セイイチさん、ハナちゃん。この二人に対するこの気持ちは混じりっ気のない、心の奥底から出てくる、湧いてくる想いなのです。私の肉親には抱くことが無かったこの感情。私はそれをあの二人に抱いているのです。
「血のつながりなんかなくても、家族にはなれるんだよ。同じよう、もしくはそれ以上に絆を深める事が出来るんだよ。好きだと胸を張って言えるようになるんだよ」
私は加奈ちゃんの傍で座っているゴロウを見ました。
「加奈ちゃんが、ゴロウと家族になれたのと、同じだよ」
「そうか。……そうだよね……。何か、すっきりした気がする」
加奈ちゃんはつきものが落ちたようなさわやかな笑顔でゴロウを抱きしめました。私はその様子を微笑ましく眺めていました。
間6
「短い間だったけど、ありがとう」
加奈ちゃんは笑顔で、深々と頭を下げた。オレ達は玄関先で彼女を見送るのだった。
「暇なとき、また遊びに来ていいよ」フウカがそういった。
「うん。また会いたいな。連絡ちょうだいね」
あれから一週間が過ぎようとしていた。あの事件はもう落ち着いていた。加奈ちゃんは叔父の家に引き取られることとなった。加奈ちゃんは、今日、そういった話をする為にここへやって来たのだった。
警察には加奈ちゃん一人で行かせた。オレはあえて彼女の服を洗濯せずに、放置していた。それは警察に転がり込むときに必要だったからだ。まあ、もっとましなやり方はあったのだが、オレがやった方法は、とにかく彼女は青年のグループに襲われた所を何とか逃げ出し、山中を二、三日さまよい、そしてようやく警察署へたどり着いた、というのを演出させたのだ。
まあ、オレ達は警察に知られたくない存在なので、こんなやり方を彼女にやらせてしまった。オレは勝手な都合で申し訳ないなと思った。でも、何事も問題は無くこのように日常を暮せているのだから、よしとしようかな。
加奈ちゃんのご両親は行方不明として扱われた。そしてその犯人グループも行方不明となっている。誰の犯行かまでは警察はかぎつける事が出来たのだが、逮捕には未だ至っていない。まあ当たり前だが。
オレは加奈ちゃんの明るい笑顔を見て、この子は何も心配はいらないんだなと一安心した。
「加奈ちゃん、これから多分、何度も躓きそうになるかもしれないけど、それでも、それを支えてくれる人がいる。それを忘れるなよ」
オレは加奈ちゃんにそう伝えた。
「そうだ!」
ハナがオレの便乗をする。顔一面に笑顔を咲かせながら飛び跳ねる。
加奈ちゃんはそんなハナを見て、くすりと笑う。そして「はい」としっかりと答えていた。ついでに、ゴロウも「わん」と返事をしていた。
加奈ちゃんは玄関のドアを開けた。暖かい風がこの家に入って来た。中の空気を循環させていた。オレは加奈ちゃんとゴロウの背中を見送った。それは眩しかった。彼女が振り返り、オレ達に笑いながら手を振った。
そして玄関のドアが閉ざされるのだった。
裏4
わたしは、あの人たちに出逢えてよかったと思う。わたしのお父さんとお母さんは殺されて死んでしまったけど、わたしは前へ向いて歩いていける気がした。
わたしにはゴロウがいる。残されたたった独りのかけがえのない家族が居る。
わたしの心の渇きは両親のおかげで潤った。でも、また枯れてしまった。その時に、あの人たちがいたおかげで、持ちなおすことが出来た。
わたしが他人だったゴロウと親密な関係を築けたように、また他人と、そういう間柄になれるのがわかった。あの人たちは血のつながりが一切ないにもかかわらず、何かしらの絆があった。だから、わたしも新しい親の元でそれが出来ると信じている。新しい場所へ行っても、友達が出来ると信じている。
希望が、見えた気がした。わたしの生きるべき道がハッキリとしていた。砂漠の中ではなく、小鳥がさえずり気持ちのいい風が吹く花畑で、わたしは前へ進んでいくのだ。
次のお話を現在執筆中です。
少し間があきます。