ルナのお話 罪
ルナのお話です。
後編「咎」へ続きます。
ルナのお話
1
私が未だに覚えている言葉が一つある。それが私を変えた言葉である。
忘れようと思ったとしても頭から離れない。しつこくこびりついている。私の記憶の中に根強く残っている。
ヒトは愚かだと思う。なぜなら、大事なことはすぐに忘れて、嫌な事はずっと憶えているからだ。
大切にしたい過去の記憶は、色あせていってしまう。大事に大事にと大切に保管しようとしても、写真と同じで色があせていく。でも、嫌な事は不思議とそうならない。デジタルカメラのデータとして変わることなく保管される。
笑えてくるわ。非常に。非情に。
記憶とは学ぶために必要となってくる。同じ過ちを犯さぬようにと、危機を回避できるようにと、そう言う理由から嫌な記憶を貯蔵するのだ。そうすることで、成長が出来る。
かしこくなろうという代価が、それなのだろう。理には適っている。でも、本当にそれでいいのだろうか……。
そういえば、私が料理を作り始めたきっかけは何だったかしら。
それは、あの時、食べた料理の味が忘れられないからだ。
雪に埋もれ、出口もなくただその場で震え、絶望し、やがて凍てついていくだけとなった心を簡単に融かしたあの『母』の料理を。周りの雪を全て融かし、冷え切った心を優しく温めてくれた、あの……。
なんだ。ちゃんと、良い記憶も残るんだ。鮮明に残っているんだ。少し、安心したわ。だけど、その幸せな記憶の裏には不幸な記憶が存在する。ただ、誤魔化しているだけ。別の情報を取り入れて、被せて、そうやって無理やりに盲目にする。そうすることで、嫌なことから逃げられる。昔から逃げられる。
確かに、その方が楽だ。嫌な事を忘れられるんだから。
しかし、それは本当にいい事なのかしら?
私は、あの人たちに私を救われた。こんな私を。じゃあ、私があの人たちにしてあげられることは?
もう、私にはそれが出来なくなってしまった。
なら、他人の為に私がするべきことは何かしら?
あの人たちにも、あの子たちにも……。私はどのように接すれば正しいのだろうか……。
私たち種族の寿命は他から見れば長いのであろう。しかし、体感する人生の時間というのはどれも同じである。例えば、鶴は千年、亀は万年という言葉がある。実際にそれぐらいは生きないが、それでも人間にとっては途方もない時間を生きると考えられる。人間にとっては長く生きていると感じるだけであり、亀や鶴にとっては人間が感じる一生の時間となんら変わりはない筈だ。
人間が生きる齢が八十年だとする。鶴が千年と感じる生きる時間と、亀が万年生きる時間も、また人間と等しくあるのだ。人間にとっての八十年が、彼らの千年、万年に過ぎないだけだ。犬や猫も二十年ばかしの寿命もそう。この子らにとっても、八十年の時を得ているにそう違いない。
だから、私も長くは生きているが、体感している時間は変わらない。だから、生きる楽しみや苦しみを背負う時間はみなと等しくあるのだ。
これは、昔の出来事だ。今からもう二百年ぐらい前か。三十そこらの齢だったが、私はまだ子供だった。
その時に、ある事件が起きた。私を襲った史上最低で最悪な事件。幼い私が初めてトラウマというものを植え付けられた事件。
あの日から今までを比べてみれば、よくここまで精神を持ちなおすことができたと思う。今でもあの言葉が頭の中を反芻している。あのうす気味悪い笑顔を今でも思いだす。そいつが夢に現れ眠れない夜が未だに続く。しかし、私たちの種族がわずかな睡眠だけで生きていける種族である。そのことに私はこれほどまでに感謝をしたことはない。
いや。それ以上に感謝をしておかなければならないことがある。
それは、私の周りにいた人々に対して、だ。
もし、ずっとあのままでいたのなら、私はこの世にいないかもしれない。死んでいたかもしれない(しかし、それが正しいかもしれない。私が生きるだけであいつが生きるのだから)。
だから、私は感謝している。本当に。
私がお店を開きたいという夢を持ったのは、その人たちへの恩返しのつもりだった。
しかし、その夢は粉々に砕かれた。無残にも。儚く散った。
私の夢は叶わずに儚くどこかへと消えていく。
そう。まるで蛍かのように。
蛍の儚い光は浮かんでは消えて浮かんでは消える。儚く灯る一縷の光。その光が己の命を焦がしていくことを知らずに、命を照らす。それが誠か偽りかは知らずに。延々と短き命を燃やし続ける。
ひょっとすると、これは私に対する罰なのかもしれない。
私は、罰を背負って生きているのかもしれない。
だから、答えのない問いにもがき続けなければならないのだ。
この長いようで短いような人生の時間の中で。
――
ここはどこだろう。
私は右も左も分からない不思議な空間にいた。あたりは真っ暗で、何も見えない。何か壁はないかと探るが、そんなものはどこにもなかった。私は慎重に足をずって進んでいく。突然何かにぶつからないように手を前に出しながら。
どのくらい歩いたかは分からない。ずいぶんと歩いたような気がする。しかし、身体に疲れた気配は感じなかった。
私はどこにいるんだろう。何故ここにいるのだろうか。そういった疑問が頭にくっついて離れない。
そう疑問を持ちながら歩いていた時だった。なにやらうめき声が聞こえた。私はそれに向かって歩いた。段々と音が近くなっていく。そして、私は足元に何かがあたったような気がした。私はしゃがむ。そしてそれを調べる。
温かくて、人のような感触だった。私は揺さぶってみる。「大丈夫ですか?」と声をかけながら。しかし、ただうめき声をあげるだけで、私の声に反応していない。
私は、どうするべきか迷った。とりあえず、揺らし続ける。そうすると、背後から肩を叩かれた。振り返るが誰もいない。いや、そもそも見えていないのだから確認が出来ないのは当たり前だ。
肩に人の手の感触がある。私は「どなたですか?」と尋ねる。しかし、反応がない。肩に手は乗っているのに、人の気配がしない。そして、声が聴こえた。どのような言葉を話しているかは分からない。ぼそぼそと低い声が延々と聴こえる。
私は恐ろしくなった。ぞっとした。この手は何だろうか。私を抑えるこの手は何だろうか。私は恐怖で一種の混乱状態に陥る。
私は、ひとまず目の前にいる人を起こそうとする。必死に。すると腕を掴まれた。私の前にいた人だ。それは強い力だった。私は「痛い!」と叫んだ。しかし、その手は力を緩めない。私は顔をゆがめた。このままでは骨を折られてしまいそうだった。私はその手を振りほどこうとする。しかし、不可能だった。
声が聴こえる。背後から。声が聴こえるのだ。しかし、その声は何を言っているのか分からない。上手く聞き取れない。
前の方からも声がした。私の手を掴んでいる人だ。その人は私にすがるように言っていた。
『殺してくれ』
この人の声だけは鮮明に聞くことが出来た。私は悲鳴をあげる。背筋がゾッとした。悪寒が走る。狂気を感じた。私は一刻でも早くこの場から立ち去りたかった。
『殺してくれ』『殺してくれ』
懇願するその声は延々と同じ言葉を流していた。
私は金縛りにあったかのように固まる。そうして、誰かに押し倒された。馬乗りにされる。私は首を絞められる。「助けて」と叫ぼうとするが声が出ない。
身動きが取れない。逃げられない。そんな状況。私は、「どうして?」と疑問を持つ。「何故私がこんな目に?」と。
すると、返事が来た。今まで散々聴こえなかった声だ。今度はその声が鮮明に聞こえた。
私は涙を流す。大量に。ボロボロと。
《どうしてって? 僕が生きるためだ》
笑いながら言っていた。口調も声の調子も明るかった。それなのにどこか不気味だった。心の底から本当に思っていることを他人に全て話すこの不気味さ。嘘偽りのない無垢さが私の畏怖を一層色濃くさせる。
《僕は生きたいんだ。君は僕の事を忘れないだろう。それだけで僕は生きていけるんだ。君の中で》
私は絶叫する。咆哮する。叫び散らす。白目をむいて。叫び続ける。
狂ったように。狂乱したように。自我を忘れて乱れ続ける。
叫んでも、叫んでも。ただ虚しさだけが残る。虚空。それが私。私は死んでいる。生きていない。死んでいる。心が死んでいる。いたたまれない。あるべきところになにもない。私は深海。暗くて暗くて深い深い海の底だ。そこに光は来ない。望んでも来ない。
信じたものの先に何かがあった。裏切られたその先にも何かがあったのだ。
同じだ。全ては同じだ。先にあるものは全て同じなのだ。同じ結末を辿るのだ。その先に何があるかは、もう決められてしまっているのだ。
そう。全ては……
「絶望」だ。
――
私はガバッと起き上った。
「はあ……はあ……」
私はひどい汗をかいていた。パジャマが汗でべっとりだった。布団もぐっしょりと濡れていた。
汗が頬をつたう。額に大量な汗があった。私はそれらを腕で拭う。
私は息を激しく乱していた。ひどく混乱していた。
「夢……か」
私は落ち着いて現状を見ようとする。そうすることで、落ち着きを取り戻すことが出来た。徐々に徐々に……。
「はあ……」
私は深いため息をついた。安堵し、胸をなでおろした。
ベッドから降りる。そして、台所に向かい水を飲む。喉がカラカラに乾いていた。私は水でその喉を潤す。
久々に、あの夢を見たのだった。しばらくは見ていなかったのに……。どういうわけか、珍しく悪夢に起こされた。
私はコップを置いた。両手をついて、頭を下げる。目をつぶり、あの夢を忘れ去ろうとしていた。
私はフッと笑う。これは嬉しい笑いでは決してない。馬鹿にした笑い、嘲笑だった。自然とそれがこぼれていた。
「よかったわね」
私は、呟く。独り言を。これは自分への言葉ではない。「あいつ」にたいしての言葉だった。
「あなたが望んだとおりにまだ生きているわ。……私の中でね」
私はコップを再び持つ。そして、流し台にそれを叩きつけた。
パリン! それは大きな音を立てて、破片となって飛んでいく。その破片が私の頬を通り過ぎて私を傷つけた。
2
昨日の出来事。たいしたことはない。ただ、バイト先からの電話だ。
『あ、ミツキ君? 今大丈夫かい?』
店長が、いつものような淡々とした感じで話す。彼は男性で、頭頂部が心配になる人。シフトへ出る時はかつらをかぶっているが、よく店内にそれを落とす。そして、お客さんと気まずい空気をよくだす。
「はい。大丈夫です」
『そうか。ところでさ、明日のシフトについてなんだけど、休んでいいよ』
「え? どうしてですか?」
『いやなに。いつも頑張ってくれているだろ? だからさ、日ごろの感謝を込めて、ね。たまにはこういうのもいいだろう?』
「しかし、私の代わりは……」
『もう、大丈夫。その辺りは。まあ、そんなの気にせずに、ゆっくりしなよ。毎日バイトばかりしていると、体を壊してしまうだろ』
「……わかりました。ありがとうございます」
『うん。まあ、そういうわけだから。ゆっくりしなよ』
「はい」
という出来事があった。正直、私にとって迷惑な気遣いだった。別にこの程度の活動なんか体に何も支障をきたさないというのに……。しかし、せっかくのご厚意。ありがたく頂戴するとしよう。
私は、ポッカリと空いてしまった時間をどのようにして埋め合わせしようか考える。
引っ越してきたばっかりだから、普通なら段ボールの中身を広げ、整理するところだろうけど、キャリーバック一つで事足りたし、仮に大量にあったとしても引っ越してきたその日に用事を全て終わらしていただろう。
部屋は質素なものだった。1LDKのお部屋。一人暮らしなのだから、このぐらいで十分である。家具はベッドと本棚とテーブルとクローゼットぐらいだ。キッチンには食器やら調理器具などが盛んなのだが、それ以外が過疎化していた。でも、これ以上家具やらを増やす必要もないし。だから放っておいても大丈夫か。
まあしかし。少し気がかりなのは、忘れ物をしてきてしまった事だ。でも、たいしたものではないし、無くても困らない。だから、彼らにあげよう。
私はさてと、と、腕を組んで考える。
今日は何をしようか。
とりあえず、街に出てみようかしら。本を探すのも悪くない。もしくは家で試作でも行おうかしら。
「……」
まあ、まずは腹ごしらえでもしようかしら。お腹が空いたし。
私は、昨日の残り物であるカレーを温める。
そして、それをお皿に盛り付け、テーブルに持っていき、食べ始める。
正直な話、まずまず、といったところ。うねるような美味さはなかった。それは私の料理の腕のほどを意味していた。
「あの日食べた味に到底敵わないわね」
私はため息をついた。
見上げた。天井が目に入る。
これはまた昔のお話。私の心が凍てついていた頃のお話。あの心を融かしてくれたのが、このカレーに似た料理だったのよね……。別の星の料理ではあるけど、そんなものは関係がない。あのヒトが作ってくれた、優しく、温もりのある、料理。心のほど。
私には、まだ、そんな料理は作れない。
やはり、心が……足りないからだろうか……。
これはあの史上最低で最悪な事件が終わってから、いくらか時間が流れた時のお話だ。あの頃の私は凍えていた。私が犯した罪にさいなまれていた。自責の念と後悔。私が私の為に得た命。苦悩しない時間など訪れるわけがなかった。安寧の時間など私には存在しえなかった。
そんな私だった。
私は、『家』にいた。そこでの私はまるで抜け殻のようだった。ヒトの形を模した人形。そう言えても不思議ではなかった。
毎日部屋の隅でうずくまり、事件を振り返り怯える。『兄弟』の言葉は一切聴こえない。耳を通り抜けて頭にとどまらない。誰の声も届かなかった。
『家族』は、こんな私の為に色々と努力をしてくれた。私の事情を知ってもなお、優しく接してくれた。でも、私はそんな気遣いに気づかずに、突き放していた。
もう、誰とも関わりたくなかった。
傷つくぐらいならば、と。
私のこの心の本質はもっと、根深く、異なる所にあったのだが、私は気づかぬふりをし、本質を歪曲し、別の本質にしたてあげようとしていた。そうすることで、心が少しだけ安らげるからだ。
私はたとえるならそう、地獄にいた。いや、もう地獄にはいないのだが、まだ自分がそこにいるという錯覚に陥っていた。まあ、強いて言うならば、体は地獄とは遠い場所にいるのだが、心が、地獄に取り残されたままだという話だ。
その地獄の業火は私の心臓を貫き、焼き焦がす。そしてその業火は全体に広がり苦痛をより長く、多く私に与えるのだ。
鎖と枷が私を押さえつけ縛り付ける。私は身動きを取ることさえも禁じられ、ただただその理不尽な罰に叫び声をあげることしかできない。
拷問が日常のようだった。
それを未だに感じていた日々だった。
だけど、それは錯覚。幻覚にしか過ぎない。その幻を覚ましてくれたのは、『母』の料理だった。
私は、いつもの様子だった。隅でうずくまり、誰の声に反応するわけではなく、ただただ放心していた。誰かの声は届かない。私の心も私自身では分からない。だけど、それをあっさりと変えてくれた。
味はさることながら、心がそれにはあった。私がどんな態度をとろうが、私がどんなことをしようが、どんなヒトであろうが、何も変わらずに、私に料理を出してくれた。そして、最高の料理を私に与えてくれた。
私の心を癒してくれた。凍った心を融かしてくれた。
私は心を閉ざしていた。もう誰とも関わらないつもりだった。だから、他人に対して冷たい態度を取っていた。いや、そもそも他人を、誰かを、この瞳に映したくなかった。だから話さなかった。
『母』はそんな私を温かく出迎え、慈愛に満ちた心で私と接してくれた。私がどのような態度を取ろうが関係なく。ただほほ笑んで、手を差し伸べてくれた。箱の世界に閉じこもった私を救いだした。手を差しだし、私がその手を受け取るまでずっとそこで待っていてくれた。
それで私は……ようやく普通に戻れた。ヒトを見られるようになった。関われることができるようになった。
空いた時間をどのようにして過ごすか。私は街に出かけてその時間を使おうと考えた。
そこへは自転車で二十分ぐらいの時間で行くことが出来る。だから、私は自転車で街へ向かった。自転車をデパートの無料の駐輪場に停めて、デパートの中へ入る。
ここは二年ぐらい前にオープンしたデパートらしい。一階が駅で、その上にお店があるようなところだ。時間はお昼を少し過ぎたところだ。お昼時という事もあり、人が多かった。しかし、平日であるという事で、そこまで、といったところだ。
しかし、不思議な事に平日なのに、学生服を着た子がいる。私はなぜだろうか、サボりなのだろうか、と考えたが、すぐにその理由を思いついた。多分、今日は定期試験なのだろう。大体は午前中に終わるので、いてもおかしくないのだろうな。
私は納得し、エスカレーターでレストランの階へ向かう。別にご飯を食べに来たわけではない。その階に書店があるという理由で。昼食は家で済ませたので、お腹は満たされている。
ここの本屋は広いので、欲しい本は大体何でもある。私は料理のコーナーへ一直線に向かった。それを手に取り、どんなものがあるかしばらく眺めていた。
私は時間を忘れて読みふけっていた。どのくらいに時間が経ったかは分からなかった。多分、一時間そこらであろう。
それぐらい時が経ってからだった。声をかけられたのは。
「あの……すみませんが、もしかしてあの時の人ですか?」
私はその声に反応をするのに五秒ぐらいかかった。集中していると周りの声がシャットダウンされるので、話しかけられたことにすら気づかない。今回、反応で来たのはある意味珍しくあった。
「……?」
私は眉を潜めた。私に声をかけてきた子は見知らぬ少年だったからだ。
恐らく、誠一郎と同い年か。誠一郎の制服と同じ制服であることから、誠一郎が通う学校の生徒であるというのは簡単によめた。
「ごめんなさい……どなたかしら?」
私は思いだそうとするのだがどうしても彼を思いだせなかった。さわやかで、親しみを持ちやすいような少年を。
「あ……えっと、俺は立石って言います。先月辺りにあなたがその、絡まれていた時に……」
「ああ!」私は彼の言葉を遮って声を出した。彼の事を思いだしたからだ。「あの時の子ね。思い出したわ。すごく正義感が強くて、勇気のある子ね」
「いやあ……そこまで……。元気そうで何よりです」
「立石君もね。あの時はありがとう」
「全然役に立っていませんでしたが。それより、日本語が上手ですね」
「必死に勉強したからね」
「なまりもなくて、完璧ですよ」
「ありがとう。今日は一人?」
「はい。この前にいた子……柴坂って言うんですが、その子も今日誘うとしたら逃げられまして」
「あらそう。その子にも私の代わりにお礼を言って」
「わかりました。いやあ、面白い偶然ですね。たまたま欲しい本があってここへ寄ったんですが、そこにあなたがいるとは……」
立石は後ろの頭を掻きながら笑っていた。
「そうね。ちなみに、私はミツキよ。よろしくね」
「はい。ミツキさん。あ、なんかお取込み中に声をかけてすみませんでした。俺はそろそろ行きますので……」
「ええ。会えてうれしかったわ。多分、試験よね? 頑張ってね」
「あ、はい。ありがとうございます。では……」
立石は一礼し、その場を去っていった。
私は、あの時の子と再会したのが可笑しかった。偶然は面白いな、と。
私はホッとする。この場に偶然に誠一郎がいなくてよかった、と。
私は誠一郎にどのような顔をして話せばいいのか分からない。向こうも同じだろう。気まずい空気にならなくてよかったと一安心。
あの子は、誠一郎の事は知らないのだろうか……。だとしたら……。ま、私には関係のない事かしら。
私はふう、と息を吐いて、読書に戻ろうとした。
「いやいや、ちょっとすみませんね」
また、誰かに声をかけられた。女性だった。
「誰ですか?」
私は尋ねる。
「いやはやいやはや。失敬。なになに。大した用事ではありませんよ」
ショートヘアのその女性は腰を丸めてだるそうに喋っていた。しわくちゃのスーツを着ていて、ぎこちない笑顔を私の方に向けていた。ヤル気のない感じのたれ目で、右側の頬だけをつりあげて、笑う感じを出していた。
彼女は若く、二十半ばの女性だ。大きなお世話だろうけど、男性に好かれなさそうな人だ。
「私は……生原。生原奈美菜です、です。ちょっちね、あのあの、さっきの少年君について聞きたいんだ」
「……」
さっきの少年。ということは立石の事だろう。彼にいったい何の用なのか。生原奈美菜と名乗るこの胡散臭い女を信用して話してもいいのだろうか。
「彼の事はたいして知らないわ。だって、会ったのがこれで二回目ですし、会ったといっても数分話した程度だわ」
「それでも、結構結構。……いや、よくない……? まあまあ、いいや。とりあえず、その立石君についてあなたが知っている事を教えてほしいですね」
「お役に立てないわ。私は何も知らないから。それにもしも知っていたとしても、見知らぬ人にそうやすやすと他人の情報を教えたりはしないわ」
「そっかそっか。それはそれは失敬失敬。私はこういうものです」
そう言って、生原奈美菜はふところから手帳を取り出した。
「あまり見せたくないのですがね。あまり。とりま、教えてほしいね」
彼女が見せたのは警察手帳だった。どうやら彼女は刑事のようだ。
よくこんなのがなれたわね……と思ったが、ヒトを見かけで判断してはいけないわね。
「そうだったの。でも、ごめんなさい。私は本当に知らないわ。ただ、N高校の生徒、ぐらいしか情報を提供できないわ」
「しかしね。しかしね。なんか、知り合いだった風でしたよね?」
「一か月以上前ね。ちょっと複数の男性に暴力を振るわれそうになった時に彼……。立石君が助けてくれたのよ」
「そですか。それはそれは大変でしたね。まあ、なに。情報はそれぐらい?」
「ええ。さっき偶然声をかけられただけだわ。それ以外は何も知らないわ。それで? 彼は何か問題を起こしたの?」
「いえいえ。彼はなーんも。でもね、でもね、一応なんだ。ホラホラ、火のない所に煙は立たぬ。というでしょ? そんな感じ」
「……? 私には良い子のように感じたけど」
「いやはやいやはや。ヒトは見かけで判断するな、っていうよね? まあまあ、噂は恐いからね」
「立石君はなにかやったわけではないのよね? ただ、そういった根も葉もないうわさを立てられていて、それを調査しているということでいいの?」
「まあまあ、似たような……ものかね。一つ聞きますがね、あなた……」
「ミツキよ」
「そうそう。ミツキさんは、家族の誰かが罪を犯したらその家族全員が罰を受けなければならないと思いますかね?」
「……なるほどね」要するに、立石君の家族の誰かに容疑がかかっていると。しかし、こんなにペラペラ話していいのかしら。「確かに、家族の誰かがたとえば殺人を犯したとして、その殺人犯の家族にまで世間の荒波が押し寄せてくるわ。迷惑な話でしょうね。長年ずっと共に生きてきたのだから、その罪人を育ててきたのと同じだわ。でも、手の届かない所でヒトは成長するわ。だから、そうなるに至るまでの経緯に家族が関わらない事がある。すべてがそいつの責任であり、罪であるわ」
「その経緯に家族が関わっていたら、罰は当然と?」
「まあ……そうね」
「そうかそうか。なるほどなるほど」
「あなたは?」
「私? まあまあ、面倒くさい」
「聞いておいて?」
「聞いたからってそれを聞き返されても答える義務はないしね」
「マナーとしてよ。勝手ね」
「ヒトは自分勝手な生き物です。本能です。だから、だから私は本能の赴くままに自分勝手であろうと考えて、考えているよ」
「変わった人ね」
「ヒトは誰しもその身勝手さで他人を振り回し、他人に振り回されているんよ。しかし、しかし。それもまた一興。まあまあ、私は他人に振り回されるのはいやだけど」
「それこそ、自分勝手ね」
「ええ、ええ。……とりま、大した情報もないので、帰る」
「ごめんなさいね。お役に立てなくて。ところで、尾行しているのでしょう? 見失わないかしら?」
「いえいえ。相棒がいますんで。そいつに任せていますよ。新人の男の子ですが、これが女の子っぽくて、可愛いんよ。まあまあ、そんな扱いしたら怒るけど」
「あらそう。新人の教育の方も大変ね。あんま、悪く扱わないようにね。あまりいい情報をあげる事が出来なかったけど、頑張ってね」
「はいはい。結構結構。お互いに」彼女は手を横に振る。そして大きくため息をついた。「まあ、まあ、じゃあ」そう言って去っていった。
「ホントに、変な人ね……」
私は、彼女の背中を見送りながら呟いた。この人はいったいどんな人なんだろうか、と、立石君の家族が何をしたのかを考えながら私は読書に戻った。
3
ある程度買い物を済ました私は家に帰ろうとしていた。私は荷物を提げながら歩いていた。
すると、一匹の犬が私に近づいてきた。舌を出して息を乱していた。その犬は私の前でおすわりをした。私はしゃがんでその犬の頭を撫でてあげた。犬は嬉しそうにそれを受け入れていた。尻尾を横に激しく振っていた。
どういうわけか、私になついているようだった。ただ人懐っこい性格の犬なのだろうか。リードがついていた。飼い犬のようだ。散歩中に逃げ出してしまったのだろう。周りには私しかおらず、飼い主らしき人物も見当たらない。
私はどうしたものかと考える。そうすると、犬はどこかへ走り去ってしまった。「あ、ちょっと」と、私は犬を追いかけようとするのだが、犬の足の速さには敵わない。私は「大丈夫かな?」と心配する。
でも、私は「まあいいかしら」と放置することにした。もう犬の影はどこにも見当たらないし。仕方のない事として諦めよう。
私は、家の方角へ歩き出した。
しかし、それにしてもあの犬はどうして私の元へ来たのだろうか。犬は鼻がいいときく。だから、飼い主と似たような匂いをかんじたのだろうか。
そういえば、ちょっと比べるのは失礼になるかもしれないけど、私には『妹』がいる。といっても、兄弟はたくさんいるから、『妹』いるのはなんら不思議じゃない。
『妹』はどういうわけか私によくなついていた。それこそ、さっきの犬のように。可愛らしくて、常に私の傍を離れなかった。頼ってくれていた。
いろんな遊びをした。ゲームで遊んだり、二人だけの秘密の暗号を作って会話したり。楽しかったわ。
あの子は、元気にやっているだろうか。
あの子とよく遊んでいたし、また遊びたいな。でも……。まあ、いいわね。いずれ会えればいいわ。そのいずれがいつ来るかは分からないけど。
『妹』だけではなく、あの人たち……『家族』に会いたいわ。ここしばらくずっと帰っていなかったし。今も帰れる見込みもないし。もし、機会があれば会いたいし、手紙でも送りたいわね。
『家族』には感謝しているから。だから、恩返しがしたいのよね。あの人たちのおかげで、今の私があるのだし。それに、世界は広いって教えてくれたのも『家族』である。
『兄』がいる。長男だ。『兄』は、趣味で宇宙を旅している。私が宇宙を旅し始めたのはこの人の影響でもあった。時々家に帰って来ては、おみやげ話をたくさん聞かせてくれた。私はそれを聞いて「ああ、行きたい」と思うようになった。
しかし、あの頃の私は、『家族』以外のヒトを信用していなかった。だから、世界があの家の中でいい。と思っていた。だけど、『兄』に、「世の中は広いんだ。そこにある世界は様々だ。文化もちがければ、住むヒトも違う。『家族』でさえ同じ環境で過ごしているのにもかかわらず思想や生き方が異なる。だから、それをまず知らなければ。外に、世界に、関わっていかなければ成長できないんだよ」
私はそう教えられた。そして、まずは自分の星を見て回った。私は全てのヒトを憎んでいた。関わったことも無いヒトにたいしても。でも、それは間違いだった。
あの頃の私は『家族』以外のヒトはすべて悪であると思っていた。だけれども、世界を回り、様々なヒトと出会い、そうではないという事に気がついた。全てが悪だと決めていた私がバカらしく思えた。
世の中には良いヒトもいれば、悪いヒトもいる。それが当たり前なんだ。
だけど、良いヒトにしか出会ったことがないから、世の中の全員が良いヒトであるとは限らないし、悪いヒトとしか出会ったことがないから世の中の全員が悪いヒトとも限らない。だから、あくまでも周りがそうであったというだけで、必ずしも全員がそうであるとは限らない。結局は自分の勝手な主観でしかないのだ。先入観でしかないのだ。
私はその事にようやく気がつけたのだ。
そうして、さらにもっと世界を見て回りたいと思った。宇宙を見てみたいと思った。色んな世界に触れあいたかった。
宇宙は広大だ。私はその中の米粒のように小さい星のさらに小さい存在でしかない。
広大さを感じ、恐さを感じる。でも、その恐さは心地の良いものであった。
だから私はこのようにして、旅を始めたのだ。二つの目的の為に。一つは世界に関わり成長していく事。もう一つは、私の殻を破ってくれて、新しく生まれ変わらせてくれた『家族』に恩返しが出来るようになりたい。この二つの目的の為に。
――私は、宇宙に飛び出したのだ。
正直な話、まだ、私の旅は終わっていない。まだ、目的を果たしていない。
私の名前が、宇宙に轟くように、あの人たちに私の名前と味が届くように。
それまで私の旅は続いていくのだ。ずっと……。
「あの、すみません」
今日で声をかけられたのはこれで三回目だった。あと五分ぐらいで家に着くという所で、見知らぬ女性に声をかけられたのだ。私は「どうしましたか?」と明るい表情をふりまき、それに対応した。
その女性は若く、二十代半ば。今日会ったあの奈美菜という刑事と同じぐらいの年齢にみえた。姉妹というわけではない。あの刑事とは似ても似つかぬ容姿だ。
「犬を探しているんですが、見ませんでした? ゴールデンレトリバーで、散歩している時に……」
彼女は用件を言う。そうして、犬の特徴をあげていく。私は「ああ」と納得した。
「多分私見たわ」
「本当ですか!」
「でも……二十分ぐらい前だから……」
「そうですか。でも、どのあたりで?」
「街を少し離れた場所だけど……」
私は場所を教えた。
「ありがとうございます。一応探していきます。実は昨日から探していて、まだ見つからないんです」
「あら。そうなの。ごめんなさい。やはり捕まえといた方が良かったわね」
「いえ。いいです。それより、日本語、お上手ですね。外国の方ですよね」犬の話から、世間話へと変わった。「どこのお国で?」
「父がスペイン生まれよ」もちろん。そういう設定だ。「日本語が上手なのは、子供の頃、ここで過ごしたことがあるからだと思うわ。それに、母が日本人だから」
「ああ。そうだったんですか。どうりで」
「それじゃあ。私はそろそろ行くわ。見つかるといいわね」
「あ、はい……。この近くにいることはわかったので。時間を取らせてすみません」
「いえいえ」
「あの、ところで、もし見つけたら、連絡をくれますか?」
「まあ……そうね」私はどうするか考えた。初対面の人に連絡を交換するのは気が引ける。まあ、しかし。またあの犬と会えるかもしれないし、私の落ち度もややあるからね。「ええ。いいわ」私は了承する。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げる。
「私、高峰綾子といいます。もし、見つけたらご連絡ください。あ、犬の名前はタロウといいます」
「そうだったわね。タロウね。憶えておくわ。なるべくお役に立てるようにはするわね」
「ありがとうございます」
私たちはそう言って、別れていった。
私は帰宅路を歩く。
今日はやけに人と会った。これは何かの縁なのだろうか……。
ま、どうでもいいわね。
私は鼻歌を歌いながら歩いていく。
はい。
まだ詳しくは書きません。後編は「咎」です。でも、ひょっとするとおまけとして中編が出るかも。
後編はかなり後です。十個以上先のお話になります。そこで詳細やらを書きます。
そんな感じです。
次は別の奴のお話になります。
多分、次は明日。




