唯
後編です。
零
夢を見ていた。大自然の森の中を誰かが駆けている夢だ。顔は分からなかった。とある女の子だ。背丈は似ている。もしかすると自分かもしれない。その夢の中の主人公は嬉しそうだった。両手を広げて、走り回っていた。広い世界へ飛び出したかのように。嬉々としていた。
そこで目が覚めた。
ここはどこだろう。暗い籠の中……。そうだ。ここは籠の中だ。
いいや……違う?
そうだ。これは籠なんかじゃない。もうこれは箱だ。箱の中にいるんだ。この空間の光は遮断されている。暗闇が自分を完全に包み込んでしまっている。暗闇に目が慣れているにもかかわらず自分の手は見えないままだ。
自分は今どこにいるのだろう。ずっと夢の世界で走り回っていられたらよかった。
うずくまる。うずくまるしかすべがない。
暗い。狭い。息苦しい。
誰か。誰でもいいから。お願い。お願いします。助けて。どうか助けてください。一生のお願いです。この箱の中から出してください。
外を見たい。空を見たい。あの朝日を見たい。夕陽を見たい。月を見たい。青空が見たい。茜空が見たい。夜空を見たい。だからお願いします。
でも、このお願いは叶うはずなどなかった。
独りぼっちのこの空間でまた目を閉じるのだ。
壱
「ただいま」
オレはハナの食事を手伝いに行っていた。久々なものだった。ここ最近二回しか行っていなかった。ルナさんの食事でどうにかなるかと思ったけど、やはり無理のようだった。食糧はいつものように食べても問題にはならないであろう人種。といきたかったのだが、今回の場合はそちら側の人が大人しいようで、仕方なくそこらの野良になった。ハナはやはりか不満だった。
夜遅くだとしても、フウカとコトリはいつものようにテレビを見ていた。そして、フウカはいつものように迎えてくれる。
「おかえり」
コトリはオレに対して何かしら冷ややかだ。他の三人に比べて厚い壁を感じる。だから、この声はコトリなどではなく、ルナだった。
「起きていたんだ」
「セイイチロウが借りてきてくれた本がとっても面白いから。ついつい読みふけってしまったわ。この下巻は上巻での丁寧な説明のおかげで、分かりやすく、いい塩梅になってきているわ」
「私も読ませていただきましたが、読み応えが大変ありましたよ」
「そうかい。それはよかった。リクエストがあればいくらでも借りるよ」
こうも褒められると気持ちが良いものだ。何か、気分があがって来た。
「ところで、こんな遅くまで何をやっていたのかしら? ハナは寝てなきゃいけない時間でしょ?」
「散歩だよ」
「フウカやコトリも連れていけばいいのに」
「いやあ、事情が多々あって……」
「あ、もしかしてそういう関係……」
「どういう関係ですか。想像しているのと違うと思いますよ」
「まあ、どうでもいいわ。ハナ、こっちに来て」
パンパンと手を叩いてハナを呼んだ。犬のような呼び方だった。それに応えてしまうハナもハナではあるのだが。
ハナはルナに抱き付き、胸に顔をうずめた。
「こらこら」ルナさんは笑っていたが、すぐに神妙な顔つきになった「……ハナ、お風呂でも入りに行かない?」
「なんで?」ハナが聞く。
「ルナさんがお風呂の栓を抜いてしまいましたよね?」
フウカがルナに言う。
「ああ。そうだったわ。じゃあ、一緒に寝ましょう」
「はーい!」
「どうしたの? いきなり」
「誠一郎は知っている? 寝る前に入るお風呂とシャワーとの違い」本当にどうしたんだろうか。
「なんでしょう。わからないや」
「あ、それ、テレビだ」コトリが言った。
「深くて良い睡眠に入れるらしいわよ」
ルナはウインクをする。ハナはルナに抱き付いたままだった。ルナはハナをそのままの状態で持ち上げ、「おやすみ」と言ってリビングから出ていくのだった。そして、階段をのぼる音がした。
「どうしたのでしょうか?」
「ツカれたんしょ? まいにちバイトだし」
「そうかもしれませんね」
「いや、その前に、さっきの答えは何だったんだ? 大体想像はつくけど……」
「お風呂ですよ。ただし、四〇度辺りで、三〇分以上は入ることが好ましいんですけどね。ちなみにシャワーは一〇分か一五分ぐらいだった気がします」
「風呂もシャワーもあまり大差ないじゃないか。とりあえず体を長く温めろって事だろ?」
「そういうことですよ」
「じゃあ、フウカが言ったようにシャワーを長く浴びて今日は寝るとするよ」
「明日はお風呂に入って違いを試してみてくださいね」
「そうしてみるよ」
オレは少し笑いながら、キッチンへ水を飲みに行った。その間にコトリがフウカに話しかけ、二人は雑談を交わし始めた。
オレはとある懸念を抱いていた。
「ルナって、勘が鋭いよな」
キッチンからオレは話を出した。二人の会話を遮る形になっただろう。
「もしかして、さっきのハナちゃんへの態度の事を言っていますか?」
「ああ」
ルナはオレ達に疑念を抱いているかもしれない。
「大丈夫ですよ。それに隠すことではないかもしれませんよ」
「というと?」
「ルナさんは宇宙人さんじゃないですか。それに様々な星をまわっているのですから、経験も知識も豊富なはずですよ。だから、ハナちゃんの手掛かりになるようなことをご存知かもしれませんよ」
「やめよう」
コトリがどういう訳か反対した。
「どうしてだ?」
「なにか……イヤなヨカンがする……」
「それはどういう事なの?」
フウカがコトリを覗き込む。
「カン。ただの。ベツにイってもいいんじゃない」
チャンネルを足でかえながら言った。
「……でも、コトリのその勘とやらを信じてみるか」
オレ達は一旦、この問題を保留にする。オレは二人に「じゃあ、また朝にな」と言ってリビングを去るのだった。
弐
「おみくじ、引きませんか?」
幽香ちゃんと神社に来ていた。あの山からの景色を見に。その帰りに、幽香ちゃんがこういう風に提案してきた。オレはせっかくなので、引くことにした。
お金を出し、運任せにそれを引いた。
「どうでした?」
「末吉だな。何ともまあ、微妙な……」
「あ、私は小吉です。勝ちました」
「えっと……順番とかよくわからないんだけど、そういうものか?」
「大吉、中吉、小吉、末吉、凶、大凶ていう具合ですね」
「意外に接戦だったな」
「はい。私の辛勝です」
「だけど、おみくじにそういう勝負事は関係ないんだけどな」
これは別に負け惜しみとかではなく、純粋な感想だ。
「どうやら、待ち人が来るみたいですね。誰でしょうか。失物はでてこないようです。あと、恋愛が良いそうです」
オレを見て嬉しそうにしながら言った。
「オレは旅行がよくないだと。あまり良いことは書かれてないな……。あ、お産は良いらしい」
「誠一郎さんは産めないでしょうに……」
「それもそうだ」
オレは面白くない冗談を言ってしまったかなと苦笑する。
「ところでさ、学校はどうなのさ?」
「学校ですか? 楽しくやってますよ。数週間前までは辛かったですけど。あ、学校は関係ないか」
「何があったの」
「あの……ち、痴漢……」恥ずかしそうに小声で言っていた。「あれ、よくあったんですよ。それで怖かったんです。でも、誠一郎さんが助けてくれたんで、本当に感謝してますよ」
「そういうのって、大人しい子が狙われやすいからね。誰にも言わずに自分の中でとどませるだろうって」
「だから何ですね。あの人ってどうなったんでしょうか……?」
「知らないよ。最悪クビだろうね」
「……」
「気に病むことはないさ。原因はどう考えても向こうだろう。それからどんな重い罰がくだろうと、自業自得さ」
「それはそうですね」
オレはおみくじを財布の中にしまった。何か御利益があるかもしれないのでそのまま保存しておくことにする。オレはポケットに財布をしまいながら「帰ろうか」と彼女に言った。彼女は頷く。神社を後にし、歩道を歩く。
「誠一郎さんは彼女とかいるんですか?」
「オレ? いないよ。そんなの」
「カッコイイのに。分からないものですね」
「そんな事はないよ。そういう幽香ちゃんはどうなのさ」
「私もいませんよ」
「ふーん」
「あ、どうでもよさそう。じゃあ、話題を変えますね。誠一郎さんは家族とは仲がいいんですか?」
「まあ、仲はいいと思うよ」オレは今の家族を想像して答えた。「幽香ちゃんは?」
「私は、妹からは嫌われていましたね。ケンカしてばかりでした。お父さんはいっつも私に怒っていましたよ。姉だからどうだとか、ね。先に生まれたからってどうして我慢しなくちゃいけないんでしょうね」
「そうだね」
オレはその気持ちが痛いほどよくわかる。小学生の途中の頃まではそれがあった。途中からは兄も弟も関係がなくなったが。
あの家庭の中では非凡であるか凡であるかが有意の基準だった。それだけで区別されていたのだ。だから、兄だからというのはあまり使われなかった。使われたのは「出来損ない」だな。
オレはここで一つ思い出したことがあった。つい先日に気になってしまった事だ。あの時の彼女はあのセリフにどういう意味を籠めたのだろうか。
「妹さんはいくつなんだ?」
「そうですね……三つ下でしたね」また過去形だ。
「そういえばさ、ファミレスで話した時に少し引っかかっていたんだけどさ……」オレはここで言葉を止めた。あの時にオレも「弟がいた」と過去形で答えていた。それをつっこまれたら言い訳が面倒くさい。でも、ただ単にオレの言い方に合わせただけかもしれない。
まあ、別にいいだろう。
「何で、過去形で言っているんだ? もしかして、もういないのか?」
「……」
幽香ちゃんは黙り込んだ。深い沈黙だ。触れてはいけない事だったのだろうか。空気が重くなるのを感じた。明るい空気から一変し、暗雲のように黒く、濁って漂っていた。
「そうですね。もう一年も経つんですね。あれから」彼女が話し始める。「あの子は可愛かった。私の傍にいました。ケンカはよくしましたが、それなりに仲が良かったです。今はどこで何をしているのでしょうか」
「ん? 生きているのか?」
「いいえ。死にましたよ。多分ですけど。生きているのかそうでないのか分からない状態です」
「もしかして、行方不明とか?」
「そうですね。箱の中に閉じ込められているんだと思います」
「箱の中?」
「誠一郎さんが仮に子供の誘拐犯だとします。誘拐した子をどこにかくしますか?」
「えっと……どっかの廃墟とか、自宅の一室とか……?」
「それは箱と言いませんか? 一つの空間に閉じ込めるんですよ。部屋であろうと何であろうとそれは閉ざされた箱にも等しい事です」
「そういう事ね。言いたいことは分かったよ。そうか。災難だな。しかし、死んでいると判断するのは尚早じゃないか? 生きているのを信じたりしないのか?」
「少し、ドライに考えていましたね。誠一郎さんが言うように、信じてみますよ」
「まあね。早く見つかるといいよね」
「はい。あ、誠一郎さん。私、ここまででいいです」
「どこかに寄るのか?」
「はい。ちょっと買いたいものがありまして。じゃあ。ちゃんとメールの返事してくださいね」
「できたらな。じゃあ。またな」
「はい!」
幽香ちゃんは点滅している青信号を走って渡った。道路を挟んだ向こう側で幽香ちゃんは手を振っていた。オレは小さく手を振り、彼女を見送った。
参
五日が過ぎた。休日だというにもかかわらず、ルナは休まず務めである。明日からまた学校だと憂鬱になるオレがなんだか小さいように思えた。
この五日の間に、ハナに食事を行わせた。お目当てのものは見つからなかったが、それでも十分であったのかもしれない。ハナはやや満足といった感じだったので。
とりあえずオレは休日を謳歌していた。
「コトリ、調子はどうなんだ?」
「べつにー」
素っ気ない返事だった。コトリは暇なときに作ったミニチュアのブランコで遊んでいた。
コトリの部屋はリビングにあった。窓の傍に堂々と飾られていた。ルナが暇つぶしに作ってしまったのだ。アマゾンで本棚を購入し、そこから改良を重ねていったのだ。どういう訳か階段まで作りあげ、楽に上り下りが出来るようにしていた。わざわざ専門店へ行き、小物まで買い揃えていた。もちろん壁紙もだ。照明まで買い付けて、唖然としてしまうほどの徹底ぶりだった。
一階は、中心にソファーが置かれ、端には収納家具が配置されていた。二階はキッチンなどといった生活感が溢れる置物が沢山だった。食卓やら椅子やら。食卓にはケーキがおかれていた。もちろん、ミニチュアだ。三階はコトリ本人の意思でピンク一色となっていた。三階だけが他の階と比べると異様さを物語っていた。寝室のようで、中心にベッド。端に着替えの服がちゃんと入っているクローゼット。小さな丸いテーブルの上に乗ったピンクと白の可愛らしいランプ。エトセトラ。過激で、フリルが多様に使われていた。
コトリの家の外には庭が作られていた。家から続いている石畳の道を進んでいく。その道に脇には花が添えられていて、その道を行く者をエスコートしているようだった。その先には憩いの場所があった。おしゃれなテーブルとイスがあり、そこで午後のひと時を過ごすのだ。その周りには生い茂る木々が立ち並んでいた。そう。まるでここは秘密の隠れ家のようだった。
その一つの木にブランコが作られていた。強く育ったその木は力持ちでコトリが安心して遊べるように体重を支え得てあげていた。他にはハンモックもあり、日の当たる自然の中で安心してシエスタのひと時を過ごせるのだ。
多分、コトリ目線ではそう見えているはずだ。
「それにしても、凝っているよな。全部作り物とは思えないよ」
「そうですよね。毎日バイトをして、朝食やお弁当、夕飯の作り置きまでして、夜は遅くまで勉強をしているにもかかわらず、暇つぶしとしてこれを作ってしまうのですから」
「ご飯の件はいいと断っているのに。体力がよく持つものだ。何かお礼をしてあげないとな」
「明日、朝食を作って差し上げたらいかがですか?」
「あの人、いつ起きているか分からないからな」
「大体、朝の五時ぐらいに起きてきますよ」
「早いな。ちゃんと睡眠取れているのかな?」
「みたいですよ。一応寝すぎているぐらいらしいです」
「まあ、地球の常識に当てはめるのはよくないんだろうな」
オレはため息をもらした。オレは何かしらルナに楽をさせたいと思うのだが、本人がな……。
オレはコトリを見る。コトリはオレに見られている事に気づくとそっぽを向いた。
ハナがコトリの頭をつつく。そして、指先で体を押し、ブランコの角度をあげていく。コトリは「やめろ」と訴えるのだが、ハナはそれを面白がってやめなかった。コトリはブランコから飛び降り、ハナの遊びから離脱した。
ハナはそんなコトリを鷲掴みにするとどこかに連れていってしまった。
「あいつ、コトリの事好きだよな」
「コトリちゃんはハナちゃんの事を嫌いだって言っていましたが」
「そりゃあそうだろ」
オレはコトリのブランコを揺らした。誰も乗っていないそれは一人で揺れているだけだった。
「しかし、コトリはオレに対して冷たくはないか? 避けられている感が否めないのだが」
「そうですか? 私はそう思いませんが……」
「そうか? じゃあ、ただの思い過ごしか? だがフウカやルナより冷たい感じがするが」
「ただ会話が足りないだけではないでしょうか? 私やルナさんは初期の頃はずっと家で過ごしていましたから。時間の問題ですよ。私なんて毎晩一緒にいますから」
コトリもフウカと同じように眠りにつけないようなので、寝静まった後も二人でテレビを見たりゲームをしたりしているのだ。
「やっぱそういう事なのかな?」
オレが納得しかけていると、携帯が鳴った。電話だ。オレは廊下に出て電話に出た。
相手は幽香ちゃんだった。
『あの……その……』
「どうしたんだ?」
『き……あ、明日、会えませんか? 相談したいことが……あるんです』
「相談事? 別にいいけど」
はたして何をだろうか。幽香ちゃんは少し怯えていた様子だった。最初に会ったときを思い出すが、何かあったのだろうか。いや、あったのだから相談を持ち掛けているのだろう。
オレは詳しい事を聞こうとしたが、切れてしまった。早く電話は終わった。
「何なんだろう」
オレは携帯をポケットにしまう。そしてリビングに戻ろうとした時、ハナが突如現れた。
「はい!」
二階から飛び降りてきたらしく、重かった。オレはハナに押しつぶされた。ハナはオレを椅子にして一息ついていた。
「セイイチ、遊ぼう!」
「ち、ちょっと待て……」痛みに悶えた。痛みが全身を駆け巡った。「ハナ、そういうのは二度とするな」オレはハナをどけさせると、頭を叩いた。
「うー」
ハナは目を強くつぶりコトリを盾にする。コトリは「やめろ」と暴れていた。
「飛び降りるのはいいが、人がいないときにしろ。分かったか」
「はい」
「いや、トびオりるのをトめろよ」
「まあ、何して遊ぶか。コトリは何がしたい?」
「ベツに。ベッドでヨコになりたい」
「そうかい」
「ところで、さっきの、ダレ?」
「え? ああ……知り合いから。明日少し遅くなるかもな」
「あっそ。オンナ?」
「いや……別にそんなんじゃないが」オレはとっさに嘘をついた。
「サイキン、レンラクおおいね。どうでもいいけど。とりあえず、ハナに、あのイエに、つれていくよう、いって」
「はいよ」
オレはハナをリビングに連れていった。ハナはコトリの髪の毛を引っ張って遊んでいた。オレは何とかハナからコトリを取り上げると、コトリをベッドの上に置いた。コトリは布団をかぶって、横になった。
オレはしばらく横になったコトリを眺めていた。
最初の時のように四つに分けます。一つ一つは短いです。
次は明日です。




