第九章:無慈悲なパレードと、黒衣の取引
静寂は、金属の弾ける音とともに終わりを告げた。
「拾え」
佐島の命令を受け、黒スーツの部下の一人が、コンクリートに転がった「偽の金型」に手を伸ばした。
彼がその真鍮の塊を無造作に掴み上げ、持ち手部分に力を込めた、まさにその瞬間だった。
――キィィンッ!!
ガラスが粉々に砕け散るような、甲高い異音が響いた。
サトルが昨夜、0.01ミリの精度で仕込んだ『職人の罠』。それは爆薬などではない。金属内部の応力を極限まで不均衡に削り出し、特定の箇所に圧力がかかった瞬間、自壊して弾け飛ぶ「強化ガラスの破裂」と同じ物理現象の応用だった。
「ぎゃあああっ!!」
金型は手榴弾のように破裂し、鋭利な真鍮の破片が散弾となって部下の顔面と両腕をズタズタに引き裂いた。
飛び散る鮮血。鼓膜を破る絶叫。
佐島が何事かと顔を覆って仰け反った直後、スクラップ工場の外周から、耳をつんざくような重機関銃の掃射音が轟いた。
「敵襲ゥッ!!」
誰かの叫び声は、飛来したロケットランチャーの爆発音によって完全に掻き消された。
火柱が上がり、佐島の部下たちが乗ってきたワンボックスカーが宙を舞う。崩れ落ちる鉄屑の山から雪崩れ込んできたのは、重武装した外国の工作員部隊と、狂犬のようにマチェーテを振り回すヤクザの混成部隊だった。
彼らにとって、佐島が公安の人間だろうが関係ない。ただ「金型」を奪うためだけの、理性を捨てた殺戮のパレードが始まったのだ。
「撃て! 撃ち殺せェッ!」
佐島がパニックに陥りながら絶叫する。黒スーツの部下たちも応戦するが、奇襲を受けた彼らは次々と肉塊に変えられていく。
四方八方から飛び交う銃弾。飛び散る脳漿と千切れた四肢。
倫理も論理も崩壊した戦場の中で、サトルはただ一直線に、泥水の中に倒れ込む結衣の元へと走った。
「結衣ッ!」
サトルは結衣の体に覆いかぶさり、背中の後ろ手に回された拘束バンドを、拾い上げた真鍮の破片で力任せに引きちぎった。
「サトル君……っ! ああっ!」
「頭を下げろ! 絶対に俺から離れるな!」
サトルは結衣の細い体を抱き抱え、巨大なプレスマシンの残骸の陰へと転がり込んだ。
直後、二人がいた場所を無数の銃弾が通り抜ける。サトルの肩を弾丸が掠め、作業着が赤く染まるが、痛みなどとうに感じなかった。
失われた左手の四本の指が、猛烈な熱を持って空間の「死角」を弾き出し続けている。どこに銃弾が飛び交い、どの鉄屑の裏が安全か。幻肢痛のレーダーが、結衣を守るための絶対的な防壁となっていた。
「ひぃっ……! 来るな、俺は国家公安だぞ! 貴様ら、ただで済むと――」
銃火の向こう側で、醜い命乞いをする声が響いた。
佐島だった。
エリートの鎧は完全に剥がれ落ち、高価なスーツを泥と部下の血で汚しながら、無様に這いつくばっている。外国の工作員が、虫けらを見るような目で佐島にアサルトライフルの銃口を向けた。
その時。
上空から、轟音を立てて二機の漆黒の大型ヘリコプターが飛来した。
ヘリからは、佐島の部下たちとは次元の違う、完全な漆黒のタクティカルギアに身を包んだ精鋭部隊が次々と降下してくる。彼らの腕には、所属を示すいかなるエンブレムも存在しない。
彼らは、ヤクザも、外国の工作員も、そして佐島の部下たちでさえも、区別することなく圧倒的な火力と無駄のない動きで「掃討」し始めた。
「た、助かった……! お前たち、俺だ! 佐島だ! よく来てくれた!」
佐島が歓喜の声を上げ、黒ずくめの部隊に向かって走り寄る。彼らを、自分の救援に来た「本物の国家権力」だと信じ込んで。
だが、部隊を率いる黒いコートの男は、すがりつこうとする佐島の顔を、感情のない瞳で見下ろした。
「貴様のような私怨で動く小物が、国家の『本命』を危険に晒した。……不愉快だ」
「え……?」
佐島が間抜けな声を漏らした瞬間、黒コートの男は躊躇うことなく、手にした拳銃の引き金を引いた。
パンッ、という乾いた音。
佐島の眉間に風穴が開き、そのエリート面は驚愕に染まったまま、泥水の中へと崩れ落ちた。妻を人質に取り、サトルを嘲笑っていた男の、あまりにも呆気なく、惨めな最期だった。
結衣はサトルの腕の中で小さく悲鳴を上げ、顔を伏せた。
だが、その直後、結衣の細い腕が、サトルの血まみれの背中に力強く回された。
「サトル君……サトル君……っ」
夫の無惨な死を目の当たりにしたはずの結衣の目から流れていたのは、悲しみの涙ではなかった。それは、長きにわたる恐怖と暴力からの解放、そして、自分のために地獄に飛び込んできた眼前の男に対する、強烈なまでの愛情と依存の涙だった。
「これで……やっと、私たち……。私、サトル君となら、どこへでも行く……っ」
結衣は泥だらけの顔で、サトルの胸に頬をすり寄せた。三十代の人妻の、剥き出しの執着。かつてサトルが何よりも渇望したはずのその温もりは、今の彼にとって、どこか重く、息苦しいものに感じられた。
――俺の帰る場所は、本当にここなのか?
サトルの脳裏に、夜明けの路地裏で純真なキスをくれた、あの擦れた女の顔が過る。
『帰ってきて。私、おじさんのこと待ってるから』
結衣という過去と、あやという現在。凄惨な戦場の中で、サトルは突然、出口のない三角関係の泥沼に足を踏み入れたことに気づき、奥歯を噛み締めた。
五分。
たった五分で、スクラップ工場の狂乱は完全に鎮圧された。
ヤクザも工作員もすべて物言わぬ死体となり、硝煙と血の臭いだけが朝の空気を汚染している。
死体の海を越え、黒コートの男が、ゆっくりとサトルたちの隠れるプレスマシンへと歩み寄ってきた。男の部下たちは、あちこちで呻き声を上げる怪我人など一切無視し、ただ機械のように周囲の警戒に当たっている。
「……見事な手際だったな、サトル君。いや、狂った歯車と言うべきか」
黒コートの男は、サトルに銃を向けるでもなく、ただ静かに見下ろして言った。
「俺を、殺す気か」
サトルは結衣を腕の中に抱き込んだまま、血まみれの右手でモンキーレンチを握り直す。
だが、男は小さく首を振った。
「我々の目的は、君の命ではない。君が持っている『本物の金型』だ。佐島のような馬鹿は、あれを次世代の生体認証キーか何かだと思い込んでいたようだが……我々『特務機関』は、あれの本当の価値を知っている」
男の目が、蛇のように細められた。
「あれは、この時代の科学力では決して作れないものだ。量子の揺らぎを固定化し、空間の位相を安定させるための……そうだな、分かりやすく言えば『次元を超えるためのパーツ』の一部だ」
サトルの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
次元を超える? なんだそれは。弟の吉成は、一体どんな化け物じみたシノギに巻き込まれていたというのか。
「あのパーツは、完璧すぎる機械の精度では機能しない。君のような、血の通った職人の『有機的な誤差』がなければ、次元の摩擦に耐えられないのだ。だからこそ、君の手元に渡った」
男はそこで言葉を区切り、サトルに右手を差し出した。
「取引をしよう、サトル君」
「……取引、だと?」
「そうだ。君がどこかに隠した『本物』を我々に渡せば、君の後ろで震えている結衣さんの安全は、国家の最上位権限をもって永久に保障する。佐島の残した負の遺産もすべて消し去ろう」
男は、まるで悪魔のように魅力的な言葉を続けた。
「さらに、君自身の戸籍も新しく用意する。そして……君が逃亡の途中で拾った、あの路地裏の『野良猫』のような女。彼女と共に、一生遊んで暮らせるだけの資金と、絶対的な安全を提供しよう。我々としても、君という類稀な技術を持つ職人を殺すのは、あまりにも惜しいのだ」
サトルの脳内で、激しい葛藤が火花を散らした。
結衣の安全。これまでの人生の帳消し。そして、あやとの未来。
すべてを剥奪され、泥水を啜ってきたサトルにとって、それは奇跡のような、あまりにも好条件すぎる取引だった。
「サトル君……」
結衣が、すがるような濡れた瞳でサトルを見上げる。泥に汚れ、血の滲んだその顔は、かつてサトルが何よりも美しいと信じていた初恋の面影を、残酷なほど生々しく残していた。彼女の目は『私を選んで。これで私たち、やり直せる』と雄弁に語りかけ、サトルの腕に縋り付いてくる。
結衣をこのまま突き放すことなどできない。だが、あやを見捨てることも絶対にできない。
過去への贖罪と、未来への愛着。
その両方が、今、サトルの引き裂かれそうな心の中で軋みを上げていた。
「……分かった」
長い沈黙の末、サトルはモンキーレンチを捨て、深く息を吐き出した。
「取引に応じる。結衣には指一本触れさせるな。そして……俺と、あやの安全も約束しろ」
「賢明な判断だ」
黒コートの男の唇の端が、わずかに吊り上がった。
終わった。血みどろの逃亡劇は、ついに終わるのだ。
サトルは結衣を立たせ、その背中を優しく押してやった。結衣は泣き崩れながら、サトルの厚い胸板に顔を埋め、その服の裾を強く、決して離さないとばかりに握りしめた。
あとは、あの足立区の印刷工場へ帰り、本物の金型をこの男たちに渡し、これからの人生の「選択」をするだけだ。結衣の手を取るのか、それとも、あやの元へ帰るのか。
サトルの胸には、すべてをやり遂げた男の深い安堵感と、二つの重たい愛情に対する、出口のない戸惑いだけが静かに横たわっていた。
朝の冷たい海風が、スクラップ工場の血の匂いをゆっくりと吹き飛ばしていく。
帰ろう。あの、甘いバニラの匂いが待つ場所へ。




