第八章:純白のバニラと、鉄屑の玉座
東の空が、白々とした死肉のような色に染まり始めていた。
路地裏の冷たい空気が、熱を持ったサトルの肺を容赦なく刺す。手の中の携帯電話は、すでにただの黒いプラスチックの塊に過ぎなかったが、佐島の粘りつくような声と、結衣の短い悲鳴が、鼓膜の奥にべったりと張り付いて離れなかった。
『お前が一番大切にしていた「壊れ物」、預かってるぜ』
国家公安のダークサイド執行者。それが佐島の表の顔、いや、彼が必死に纏い続けている「エリートの鎧」だった。
警察官を目指し、共に柔道の畳に汗をこすりつけていた十代の頃。サトルが親父の借金で夢を絶たれ、這いつくばるようにして町工場へ就職した一方で、佐島は順風満帆にキャリアを積み上げ、そしてサトルの初恋の相手であった結衣を妻に娶った。
佐島は勝者であり、サトルは完全な敗者だった。はずだった。
――だというのに、なぜあいつは結衣を人質に取る?
サトルは、血の滲む包帯越しに左手を強く握りしめた。幻の四本の指が、疼くような痛みとともに、過去の記憶の扉をこじ開けていく。
あの雨の夜、サトルが結衣のマンションに上がり込み、あわや一線を超えかけたあの夜。あれは決して、ただの気まぐれな再会ではなかった。
半年前から、結衣は時折、サトルの前に姿を現すようになっていた。場末の喫茶店や、公園のベンチ。彼女の細い腕には、いつも不自然な痣があった。ファンデーションで隠しきれない頬の腫れ。佐島による、陰湿で日常的なドメスティック・バイオレンスだった。
『彼、職場でストレスが溜まってるみたいで……私が至らないから……』
無理に笑おうとする結衣の涙を、サトルはただ黙ってハンカチで拭うことしかできなかった。他人の妻だ。しかも、自分が手に入れられなかった光の世界の住人。底辺の鉄屑男が、手を出せるはずもなかった。
だが、結衣にとって、佐島という冷徹な国家の猟犬の横にいるよりも、油に塗れながらも不器用に、ただ真っ直ぐに自分を心配してくれるサトルの存在だけが、唯一の心の逃げ場になっていたのだ。
あの雨の夜、結衣が「彼、今日は当直で帰らないから」と言ってサトルを部屋に招き入れたのは、哀れみなどではなかった。限界まで張り詰めた糸が切れ、自ら進んでサトルという泥沼に身を投げ出そうとした、女の悲痛なSOSであり、明確な誘いだった。
サトルは、佐島の幻影と己の罪悪感に負け、逃げ出した。最後まで一線を超えることはできなかった。
しかし、公安のエリートである佐島が、妻の不審な外出や、自宅での逢瀬に気づかないはずがなかった。佐島は一部始終を知っていたのだ。
国家の暗部を牛耳っている気でいる佐島。だがその本性は、妻の心が底辺の「指なし男」に向いているという事実を受け入れられず、暴力でしか妻を支配できない、惨めで矮小な男だった。
佐島は今、国家機密である金型奪還の任務に、己のドロドロとした私怨と嫉妬を混同している。そんな三流の個人的な復讐心で動く小物に、さらに上の巨大な黒幕たちがいつまでも付き合うはずがない。佐島はすでに、自分が「世界の巨大な闇」からすれば使い捨ての駒に過ぎないことに、微塵も気づいていないのだ。
「……おじさん。顔、怖いよ」
不意に、隣から声がした。
タバコを揉み消したあやが、心配そうにサトルの顔を覗き込んでいた。その瞳には、昨夜の情事の甘い余韻と、これから死地へ向かおうとする男への、隠しきれない縋るような光が揺れていた。
サトルは深く息を吐き、肩から提げていた二つの鞄のうち、ずっしりと重い本物の「金型」が入った鞄を、あやの胸に押し付けた。
「……えっ? ちょっと、何これ」
「お前が持っていけ」
サトルは、もう一つの軽い鞄――たった数時間前に自分が削り出した、一見して本物と寸分違わぬ「偽の金型」が入った鞄を握り直した。
「これを売り払って、三千万作れ。施設にいる妹を迎えに行って、二人でまともな人生をやり直せ」
「はぁ!? バカ言わないでよ! これがあいつらの狙いなんでしょ!? 本物置いてったら、あんた手ぶらで殺されに行くようなもんじゃない!」
あやが声を荒げ、鞄を押し返そうとする。しかし、サトルの分厚い手が、それを優しく、しかし絶対的な力で制した。
「俺は、俺の過去にケリをつけてくるだけだ」
サトルは、夜明けの光に照らされたあやの顔を見た。擦れていて、強欲で、口が悪くて。それでも、昨夜、自分のすべての絶望と怒りをその小さな体で受け止め、共に泣くように喘いでくれた女。
「あや。お前の言う通り、俺はどうしようもないバカだ。結衣のことも救えなかった。……でもな、お前が妹と笑って暮らせる未来だけは、俺のこの手で、確実に作ってやりたいんだよ」
サトルの真っ直ぐすぎる言葉に、あやは言葉を失った。
数え切れないほどの男を騙し、路地裏で擦り切れるように生きてきた彼女の胸の奥で、今まで感じたことのない、ひどく不器用で熱い感情が爆発した。打算も、計算も、底辺で生き抜くための冷たい鎧も、目の前の血まみれの男が放つ純粋な熱量の前に、あっけなくドロドロに溶かされていく。
今まで、自分のために命を懸けてくれる男なんて、一人もいなかった。
あやは、鞄を胸に抱きしめたまま、背伸びをしてサトルの首に腕を回した。
昨夜の、獣のように貪り合うようなキスではない。
唇と唇が、ただ静かに、優しく触れ合うだけの、まるで中学生の初恋のような、不器用で純真なキスだった。サトルの強張った唇に、あやの柔らかな体温と、甘いバニラの匂いが染み込んでいく。
「……バカ。三千万じゃ足りないって言ったでしょ」
唇を離し、あやは涙を堪えるように微笑んだ。
「帰ってきて。私、おじさんのこと待ってるから」
その一言が、サトルの胸の奥の、最も柔らかい部分を正確に撃ち抜いた。
もう、後戻りはできない。そして、絶対に死ぬわけにはいかなくなった。
「ああ。必ず帰る」
サトルは短く答え、あやに背を向けて歩き出した。
朝日が、血と泥に汚れた男の背中を長く路地に投げ出している。あやは、その背中が見えなくなるまで、鞄を抱きしめたまま、ただ静かに立ち尽くしていた。
***
東京湾岸エリア、第4スクラップ工場。
そこは、海風に晒されて赤茶色に錆びついた鉄屑が、ビルのように高く積み上げられた、巨大な金属の墓場だった。
重機が残した無限のキャタピラ痕。潰された廃車の山。鉄の粉が舞うその光景は、三十年間、鉄を削り続けてきたサトルにとって、因縁とも言える奇妙な親和性を感じさせる「玉座」だった。
広大な敷地の中央、スクラップの山の前に、数台の黒いワンボックスカーが停まっていた。
ずらりと並んだ、黒スーツに自動小銃を構えた無機質な男たち。公安の裏部隊だが、彼らはただ命令に従っているだけで、このスクラップ工場の外側に、自分たちを遥かに凌駕する真の怪物たち(他国の工作員やマフィアの本体)が密かに包囲網を敷き始めていることなど、知る由もなかった。
その部隊の中心に、一人の男が立っていた。
完璧に仕立てられたスリーピースのスーツ。一滴の泥も跳ねていない革靴。佐島だ。
そして佐島の足元には、両手を後ろ手に縛られ、コンクリートの地面に座り込まされた結衣の姿があった。結衣の美しい顔はひどく腫れ上がり、口の端からは一筋の血が流れている。
「遅いぞ、サトル」
佐島が、手にした拳銃の銃身で結衣の頭を小突くようにしながら、薄ら笑いを浮かべた。
「待ちくたびれて、この雌豚の顔の形を変えてやるところだった」
「……やめろ、佐島!!」
サトルは偽の金型が入った鞄を掲げ、怒号を響かせた。
「金型はここにある! 結衣を離せ!」
「相変わらず、底辺のネズミは声だけはデカいな」
佐島は余裕の笑みを崩さず、顎で部下たちに合図を送る。数人の男たちが銃を構えたままサトルを半円状に包囲した。
「サトル君……ダメ、来ないで……逃げて……っ」
結衣が涙声で叫ぶ。その声を聞いた瞬間、佐島の顔からスッと笑みが消え、醜悪な嫉妬と憎悪の仮面が剥き出しになった。
「黙れッ!!」
ドゴォッ、という鈍い音。佐島が容赦なく革靴で結衣の腹を蹴り上げた。
「ぐぅっ……!」
結衣がくの字に折れ曲がり、泥水の上に倒れ込む。
「てめぇ……佐島ァッ!!」
サトルが殺意を剥き出しにして踏み出そうとするが、足元に威嚇射撃の弾丸が撃ち込まれ、足を止める。
「動くなよ、指なし男」
佐島は両手を広げ、狂ったように笑い出した。彼は完全に、己の支配欲と復讐劇に陶酔しきっていた。
「あはははっ! 傑作だ! いいかサトル、俺はお前が憎かった。警察の試験にも落ちて、親の借金まみれで、指まで機械に食われたクズの分際で……俺の妻の心を、いつまでも縛り付けやがって!」
佐島の目は血走っていた。国家機密など、もはや彼の頭にはない。ただ、サトルの絶望する顔が見たい。それだけの、あまりにも小さく、醜い自己満足の世界。
「お前はここで、俺に這いつくばって命乞いをするんだ。そして、この女が俺の部下たちに犯され、肉塊に変わっていくのを、特等席で見せてやる!」
狂喜に満ちた佐島の高笑いが、スクラップ工場に響き渡る。
だが、サトルは不思議なほど冷静だった。
怒りよりも先に、職人としての冷徹な感覚が脳を支配する。失われた左手の四本の指が、かつてないほど強烈に、熱く脈打っていた。
幻肢痛が、周囲のスクラップの配置、風の向き、包囲する男たちの銃口の角度、そして、自分が手に持っている「偽の金型」の重量を、完璧な数値として弾き出している。
サトルは佐島の滑稽な演説を遮るように、低く、地を這うような声で告げた。
「這いつくばるのは、お前の方だ、佐島」
サトルは手にしていた鞄のジッパーを開け、中の「金型」を乱暴にコンクリートの地面へと放り投げた。
ガツンッ!! という重たい金属音が、静まり返った工場に響き渡る。
「拾えよ、エリート。それがお前らの欲しかったもんだろうが」
サトルの挑発に、佐島の顔が怒りで真っ赤に染まる。
「生意気な口を叩くな……殺せ!! そのゴミの手足を撃ち抜いて、ダルマにしてしまえ!!」
佐島が狂ったように絶叫した。
銃口が一斉にサトルへ向けられる。佐島は完全に勝利を確信していた。
彼も、彼の部下たちも、まだ誰も気づいていない。地面に転がった金型の中に、サトルが0.01ミリの精度で仕組んだ悪魔のような『罠』が眠っていることにも。
そして、このスクラップ工場の暗闇の奥底から、彼らのような小悪党を一瞬で飲み込む「本物の化け物たち」の足音が、静かに、確実に迫ってきていることにも。




