第七章:静寂の研磨と、バニラの熱情
足立区の裏通りに佇む印刷工場は、深夜の静寂に包まれていた。輪転機の轟音は止み、インクと有機溶剤のツンとする臭いが、夜の湿気の中で澱んでいる。
工場の主である松崎は、「若いモン同士、ゆっくり休めや。俺はパチンコで時間潰してくる」と気を利かせ、シャッターの鍵をサトルに預けて出て行った。薄暗い仮眠室に残されたのは、パイプベッドが二つと、作業用の小さな卓上旋盤だけだった。
「……マジで、それ一晩で作る気?」
あやは、コンビニで買った缶ビールを片手に、パイプ椅子に座って男の背中を眺めていた。
サトルは三時間以上、一言も発さずに作業台に向かっていた。松崎の工具箱から拝借したマイクロメーター、ノギス、ハイトゲージ。それらを駆使し、弟から送られてきた「本物の金型」の寸法を、狂気じみた集中力で測定し続けている。
時折、ノートに鉛筆で複雑な図面を殴り書きする音が、静けさの中で不気味なほど大きく響いた。
「……こいつは、ただの精密機械じゃない」
サトルが独り言のように呟いた。左目のルーペを外し、充血した目をこする。
「ミクロン単位の精度が出ているくせに、わざと『歪み』が残されている箇所がある。機械加工のミスじゃない。意図的な、有機的な『揺らぎ』だ。まるで、呼吸をしているみたいに」
サトルが動いた。工場の隅に転がっていた、廃棄予定の真鍮のブロックを拾い上げる。
「始めるぞ」
卓上旋盤のスイッチが入る。ウィィィン、とモーターが唸りを上げ、バイト(刃物)が高速回転する金属に触れる。キィィィン! という甲高い切削音とともに、金色の切り屑が火花のように舞い散った。
あやは缶ビールを持ったまま、息を呑んだ。
サトルの左手には、親指しかない。だが、その欠損した手が、まるで五本の指が揃っているかのように、滑らかに旋盤のハンドルを操作していた。失われた指先の「幻肢痛」が、金属の硬度や振動を感知するセンサーと化しているのだ。
油と汗にまみれ、ただ一点の狂いも許さぬ眼差しで鉄と向き合うその横顔。昼間の、泥水を啜って逃げ惑う情けない中年男の顔は、そこにはなかった。
崇高で、恐ろしいほどに美しい「職人」の顔。
あやの胸の奥で、ドクン、と熱いものが跳ねた。
これまで、数え切れないほどの男たちを金づるとして見下し、路地裏で擦り切れるように生きてきた彼女の冷めた心を、目の前の男が発する純粋な熱量が容赦なく溶かしていく。
この不器用で真っ直ぐな男に、抱かれたい。
昨夜の暴力的で一方的な蹂躙ではなく、今度は私の方から、この男のすべてを狂わせてみたい。
深夜二時過ぎ。サトルが荒い息を吐き、旋盤のスイッチを切った。
作業台の上には、本物と寸分違わぬ、しかし決定的な「罠」が仕掛けられた「偽の金型」が完成していた。
「……できた」
サトルが汗を拭おうと顔を上げた瞬間、ふわりと甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
「お疲れ様、おじさん」
いつの間にか、あやが背後に立っていた。安いドレスの肩紐がずり落ち、白い肩が露わになっている。彼女から立ち昇る強烈なバニラの香りが、鉄と油の臭いを中和し、サトルの疲労した脳を甘く痺れさせた。
あやはサトルの前に回り込むと、ためらいなく彼の首に腕を回し、その唇を塞いだ。
昨夜とは違う。あやの方から求める、湿り気を帯びた深い口づけ。彼女の舌がサトルの口内に侵入し、絡みつく。
「あや、お前……」
戸惑うサトルを、あやは妖艶に潤んだ瞳で見つめ返した。
「凄かったわよ、あんたのその目。……ねえ、続き、しよっか」
あやはサトルの手を引き、仮眠室の狭いパイプベッドへと押し倒した。
鉄の匂いが染み付いた作業着を、あやの細い指がもどかしそうに、しかしどこか焦らすように脱がせていく。現れたサトルの肉体は、長年の重労働で培われた分厚い筋肉の鎧だった。
「おじさん……こういうの、慣れてないでしょ」
あやは悪戯っぽく笑うと、サトルの股間へと顔を沈めた。
「なっ……! おい、何っ……」
女性経験に乏しいサトルが制止する間もなく、あやの柔らかな唇が、猛り狂うサトルの分身を熱く、すっぽりと咥え込んだ。
「あっ……! う……ぁっ……」
サトルの口から、情けないほどの甘い声が漏れた。
あやの奉仕は、昨夜の乱暴な行為への意趣返しのように、どこまでも小悪魔的で、そして芸術的だった。彼女の滑らかな舌が、最も敏感な部分を執拗に舐め回し、熱を持った口腔の粘膜が、サトルの理性を根こそぎ吸い上げていく。
ズチュ、チュル、という卑猥な水音が、静かな工場に響き渡る。あやは時折、上目遣いでサトルの苦悶に満ちた表情を確かめながら、さらに深く、喉の奥までその熱い塊を受け入れた。
「んっ……じゅぷ……どう? おじさん……気持ちいい?」
唇を離し、唾液で糸を引きながらあやが囁く。その甘いバニラの吐息が、サトルの下腹部を直接撫で回すようだった。
圧倒的な快感と、下から見上げられる背徳感。サトルはシーツを強く握りしめ、全身の筋肉を硬直させた。これ以上は、頭がおかしくなる。
サトルの中の獣が、完全に鎖を引きちぎった。
「……もう、いいっ!」
サトルはあやの肩を掴むと、天地を引っ繰り返すように彼女をベッドに組み伏せた。
「きゃっ……! ちょっと、がっつかないでよ……んっ!」
あやの抗議を、猛烈なキスで塞ぐ。そして、焦らされ、極限まで昂ぶった己のすべてを、あやの最も深い奥底へと一気に突き入れた。
「ああっ! ……凄いっ、奥、当たってる……!」
あやの体は驚くほど熱く、サトルを歓迎するようにきつく締め付けた。
彼女はサトルを揶揄うつもりだった。だが、この不器用な男が放つ純粋なエネルギーと、圧倒的な肉体の質量は、あやの計算や余裕を瞬時に吹き飛ばした。
サトルの絶倫ぶりは、狂気じみていた。深く、激しく打ち付けられるたび、あやの口からはもはや言葉にならない、甘く蕩けた嬌声だけが溢れ出す。
バニラの匂いと、汗の匂いが混ざり合い、濃密な官能の嵐となって二人を包み込んだ。何度達したか分からない。あやの意識は白い光の中に溶け、ただただ、この真っ直ぐな男の熱い塊と体温だけを、命の底から貪り求めていた。
***
事後の甘い微睡みは、唐突に破られた。
ガシャンッ!! という金属音が、工場の入り口付近で響いた。
サトルは弾かれたように跳ね起きた。隣で息を弾ませていたあやも、瞬時に現実に引き戻され、ベッドの下から自分の服を引きずり出した。
「……来たわね、ハイエナども」
「誰だ、ヤクザか? それとも公安か?」
サトルは作業着を引っ掛け、完成したばかりの「偽の金型」と「本物」を二つの鞄に分けて放り込んだ。
ズズズ……と重いシャッターが無理やりこじ開けられ、複数の男たちの影が工場内になだれ込んでくる。
黒い戦闘服に身を包み、サプレッサー付きの自動小銃を構えたプロ集団。昨夜ホテルを襲撃した、外国の工作員たちだ。
彼らは無言のまま、正確なフォーメーションで仮眠室への包囲網を狭めてくる。
「逃げるわよ、裏口から!」
あやがサトルの手を引く。二人は輪転機の影を縫うようにして、工場の奥にある非常扉へと走った。
だが、扉を開けた瞬間、そこにも銃口が待ち構えていた。
「……クソッ」
あやが舌打ちする。前後を完全に塞がれた。
「ターゲット確認。金型を確保し、両名とも排除せよ」
リーダーらしき男が無線で冷徹に告げる。五つの銃口が、サトルとあやに向けられた。
逃げ場はない。サトルはあやを背に庇い、作業台から掴んできたモンキーレンチを構えた。こんなもので勝てる相手ではない。だが、さっきまで自分の腕の中で泣くように喘いでいたこの女だけは、何に代えても守り抜く。
「撃て」
リーダーの命令が下った、その瞬間だった。
――ヒュンッ。
空気を切り裂くような、不可解で奇妙な音が響いた。
次の瞬間、信じられない光景が広がった。
先頭で銃を構えていた男二人が、まるで「見えない巨大なトラックにはねられた」かのように、真横に十メートル近く吹き飛んだのだ。彼らの体は工場の資材置き場に激突し、鉄骨の山が崩れ落ちる轟音が響き渡った。
「なっ……!? 何が起きた!?」
残った工作員たちが動揺し、銃口が泳ぐ。
サトルにも何が起きたのか全く理解できなかった。ガス爆発か? いや、火の気はない。まるで神の気まぐれか、見えざる奇跡が彼らを救ったとしか思えなかった。
背後にいるあやの表情が、ほんの一瞬だけ、鋭く冷ややかなものに変わったことにサトルは気づかなかった。
「今よ! ボーッとしてないで走れ!!」
あやの怒号に我に返り、サトルは混乱する工作員たちの間を縫って非常口へと突進した。
「待て!」
背後で銃声が響くが、弾丸は彼らの足元のコンクリートを削るだけだった。
二人は転がるようにして、夜明け前の路地裏へと脱出した。冷たい空気が、熱を持った肺を刺す。
不可解な奇跡によって、九死に一生を得た。だが、サトルには安堵する暇などなかった。
ブブブ、ブブブ。
作業着のポケットで、松崎から借りていた携帯電話が震えた。非通知設定の着信。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。サトルは震える手で通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『よう、サトル。久しぶりだな』
電話の向こうから聞こえてきたのは、十年以上聞いていなかった、しかし片時も忘れたことのない、あの冷酷で、粘りつくような男の声だった。
佐島だ。
『逃げ回るネズミごっこは楽しかったか? お前のせいで、東京中が大騒ぎだ。そろそろ年貢の納め時だろう』
「……佐島、貴様、何が目的だ。金型か?」
サトルの問いに、佐島は低く笑った。
『金型? ああ、それも必要だが、俺が欲しいのはお前自身の破滅だよ。……なぁ、サトル。お前が一番大切にしていた「壊れ物」、預かってるぜ』
直後、電話の向こうで、短い、しかし耳を劈くような女の悲鳴が響いた。
『いやっ、やめて……! サトル君、来ちゃダメ……!』
結衣の声だった。
サトルの全身の血が沸騰し、そして凍りついた。
『場所は湾岸の第4スクラップ工場だ。一時間以内に本物の金型を持って一人で来い。警察や他の連中を連れてきたら、この女の綺麗な顔がどうなるか、分かるな?』
プツン、と通話が切れた。
サトルは携帯電話を握りしめたまま、夜空を見上げた。東の空が白み始めている。
隣では、あやが何も言わずにタバコに火をつけていた。バニラの匂いと、紫煙が混じり合う。
「……行くのね?」
あやの問いに、サトルは無言で頷いた。
左手の幻肢痛が、今までで最も強く、最も熱く脈打っていた。
逃亡劇は終わった。ここからは、狂犬たちの待つ決戦の地へ向かうしかない。




