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幻指  作者: 光闇居士


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第六章:反転の火起こし・職人と戦士の融合

追っ手を振り切り、盗んだワンボックスカーを乗り捨てた二人が辿り着いたのは、足立区の裏通りにある古びた印刷工場だった。

 油と鉄の匂いが染み付いたサトルの町工場とは違う。そこは、ツンと鼻を突く有機溶剤と、重たいインクの匂いが澱む空間だった。経営者の松崎は、かつてサトルの親父に借金の肩代わりをしてもらった恩がある男だ。血まみれのサトルと、派手なドレスのあやを見ても余計な詮索はせず、シャッターを下ろして輪転機の奥の仮眠室を貸してくれた。


「痛っ……! ちょっと、消毒液しみるんだけど!」

「我慢しろ。化膿したら腕ごと切り落とすことになるぞ」


 剥き出しのコンクリート床の上。サトルはあやの擦りむいた膝に、松崎から借りた救急箱の消毒液を乱暴にすり込んでいた。

 あやは「痛い、痛い」と大げさに騒ぎながらも、その手は器用に包帯を巻き、サトルの左手の無惨な縫合跡を的確に固定し直していく。昨夜の狂気じみた交わりと、今朝の命懸けのカーチェイス。極限状態を共有した二人の間には、すでに取り繕うような壁はなくなっていた。


「……で? 五百万の借金抱えたまま、この後どうすんのよ、おじさん」

 あやが包帯の端をキュッと結び、タバコに火をつけながら憎まれ口を叩く。紫煙と共に、あの甘いバニラの匂いがインクの臭いと混ざり合う。


「……お前こそ、なんであんな路地裏で体なんか売ってたんだ」

 サトルがぽつりとこぼした問いに、あやはタバコの煙をふう、と天井に向けて吐き出した。

 いつもなら「金のためよ」と鼻で笑うところだろう。だが、輪転機の微かな駆動音だけが響く薄暗い工場の中で、あやの纏う空気が、ふと柔らかく、ひどく脆いものに変わった。


「……親がね、飛んだのよ。私が高校の時」

 あやは自分の膝を抱え込み、ぽつりぽつりと語り始めた。

「親父がヤバい筋から何千万も借金して、お袋と夜逃げ。残されたのは、私と、まだ幼稚園だった妹だけ。親戚も誰も引き取ってくれなくてさ。結局、妹は児童養護施設。私は高校中退して、一番手っ取り早く稼げる仕事……まぁ、あんな路地裏に立つしかなかったってわけ」


 サトルの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

 まるで、自分の過去の「最悪な分岐点」を見せられているようだった。サトルもまた、親父の借金で警察官の夢を絶たれ、絶望の中で鉄を削ってきた。あやも同じだ。この底知れぬ俗物に見える女もまた、どうしようもない大人の都合で、泥水の中を這いつくばらされてきたのだ。


「目標は三千万。それだけあれば、借金の残りチャラにして、妹を施設から引き取って、二人でまともなアパートで暮らせるの。……だから、慰謝料五百万、きっちり払ってもらうからね」


 あやは最後におどけるように笑ってみせた。だが、その瞳の奥にある(ように見えた)深い哀しみと執念が、サトルの胸の奥、かつて結衣にも向けられなかった最も柔らかい部分を、鋭くえぐり取った。

 サトルは無言で、ちゃぶ台の上に置かれた「金型」に視線を移した。


 警察の不自然な包囲網の突破。ヤクザと外国人スパイの狂気。

 間違いない。警察の裏で糸を引いているのは、公安の佐島だ。あいつは国家権力を使って俺を泳がせ、この金型に群がる裏社会の連中を一網打尽にするつもりだ。そして最後には、俺の口も封じるだろう。

 佐島は光の道を歩み、結衣を手に入れ、俺のすべてを奪っていった。

 だったら――。


 サトルは立ち上がり、印刷工場の工具箱からマイクロメーター(精密測定器)とルーペを取り出した。

 蛍光灯の下で、金型を徹底的に調べ始める。

 三十年間、指先の感覚だけで0.01ミリの鉄の誤差を読み取ってきた男の目が、徐々に獲物を狙う猟犬のように鋭く尖っていく。


「……おじさん、何してんの?」

「こいつの構造を解析する」

 ルーペを覗き込みながら、サトルは低く押し殺した声で答えた。

「これはただの金属の塊じゃない。おそらく、次世代の生体認証を突破するための物理キーか、あるいはとんでもない純度のドラッグを精製するためのコア部品だ。日本の最新鋭機でも削り出せない精度だが……『職人の目』なら、こいつの急所ウィークポイントが分かる」


 サトルの言葉に、あやが怪訝な顔をする。

「急所って……どうすんのよ。まさか、あんたコレの偽物ダミーを作ろうってんじゃないでしょうね?」

「偽物を作って逃げるだけじゃない。こいつの構造を完全に把握して……この金型を狙ってる連中すべてを、佐島も含めて、俺が逆に『ゆすって』やるんだ」


 サトルはルーペを置き、真っ直ぐにあやの目を見た。

 失われた左手の幻肢痛が、今はっきりと「闘争」の熱を帯びていた。ただ逃げ惑う哀れな中年男の顔は、そこにはもうなかった。


「あや。お前が妹を引き取るための三千万、いや、海外へ高飛びして、一生遊んで暮らせるだけの『億』の金を……俺がこの手で作ってやる」


 印刷工場の淀んだ空気の中で、サトルの放った言葉は、狂気じみたほどの純粋な熱量を持っていた。

 あやは目を見開いた。いつもなら「バカじゃないの」と一蹴するはずの彼女が、その時ばかりは息を呑み、血と油に塗れた不器用な職人の顔を、まじまじと見つめ返していた。

 その瞳の奥に揺れたのが、真実の驚きだったのか、それとも「計算通りにミッションが進行している」という冷徹なスパイとしての歓喜だったのか、サトルには知る由もなかった。


「……バカ。死ぬわよ、あんた」

 あやは顔を伏せ、ぽつりと呟いた。しかし、その声は微かに震えていた。

 甘いバニラの匂いが、サトルの決意を優しく、そして残酷に包み込んでいく。

 反逆の狼煙が上がった。ここから先は、国家もヤクザもスパイも関係ない。左手の指を失った一人の男が、底辺の女の未来を買うために、大東京の暗部を相手に仕掛ける、一世一代の大勝負だ。

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