第五章:新宿市街地戦・カーチェイス
朝の新宿のど真ん中。赤色灯の眩いフラッシュと、けたたましいサイレンが四方を包み込んでいた。
サトルは拾い上げた鉄パイプを固く握り締め、背後にあやを庇いながら、立ち塞がる三台の白黒パトカーと、銃を構える制服警官たちを血走った目で睨みつけた。
「来るなら来い……っ! 道を開けろ!!」
野獣のような咆哮。サトルは威嚇するように、警官たちの目の前でパトカーのフロントガラスに鉄パイプを思い切り叩きつけた。ガシャン、と派手な音を立てて網目状の亀裂が走る。
一斉射撃を受ける覚悟だった。だが、異常なことが起きた。
フロントガラスを割られたにも関わらず、警官たちは誰一人として引き金を引かず、それどころか、無線機から漏れる短い指示を聞いた直後、スッと左右に割れて「道」を開けたのだ。
まるで、猛獣を檻からわざと逃がすような、不自然極まりない後退。
「……? なんだ……?」
サトルが拍子抜けして立ち尽くしていると、背中のシャツをあやに強く引っ張られた。
「バカ! ボーッとしてないで走るわよ!」
あやに急かされるまま、二人はぽっかりと空いた警察の包囲網の穴を抜け、歌舞伎町の外れにある薄暗い高架下へと逃げ込んだ。
肩で息をするサトルに対し、あやは乱れたドレスを整えながら、心底呆れたようにため息をついた。
「あんた、まさか自分の迫力でサツがビビって道を開けたとか思ってないわよね?」
「……どういう意味だ」
「絵に描いたような『泳がせ』じゃない。あんなの、私みたいなパンピーの女でも分かるわよ。警察の上の人間か何かが、あんたをエサにして、別のデカい組織を誘き出そうとしてんの。あんた、完全に釣りの『ミミズ』扱いされてんのよ」
あやの鼻で笑うような指摘に、サトルの脳裏に、あの冷酷な顔がフラッシュバックした。
――佐島だ。公安のダークサイド執行者であるあいつが、裏で手を引いているに違いない。俺を逃がし、この「金型」を狙う他の連中を一網打尽にするつもりなのだ。
「ふざけやがって……っ!」
サトルがコンクリートの壁を殴りつけようとした、その瞬間。
失われたはずの左手の四本の指に、焼け焦げるような「幻肢痛」が走った。
ビリビリと神経を逆撫でする痛みが、明確な「死のベクトル」をサトルの脳髄に直接叩き込む。警察は手を出さないかもしれない。だが、裏社会の狂犬たちは違う。
「危ないっ!!」
サトルは咄嗟にあやの細い腰を抱き寄せ、高架下の太い柱の陰へと跳んだ。
直後、二人が立っていた場所を、黒塗りのワンボックスカーが猛スピードで突っ込み、轟音と共にコンクリート壁に激突した。
ひしゃげたドアを蹴り破り、中から現れたのは、全身に和彫りを入れたヤクザたちと、昨夜の残党であるマフィアの混成部隊だった。彼らの目には、警察の思惑など微塵もない。あるのは純粋な殺意と、金型に対する異常な執着だけ。
「殺せ!! 指なしのオッサンごとミンチにしろ!!」
ドスとマチェーテが、朝の光を鈍く反射する。
サトルはあやを突き飛ばして逃がすと、真っ向から狂犬たちへと突っ込んだ。
銃はない。指も足りない。だが、サトルの肉体には、極限状態で研ぎ澄まされた「幻肢痛レーダー」があった。
――左後ろ、下段からドス。
幻の小指が痒みを発する。サトルは振り返りもせず上体を沈め、すれ違いざまにヤクザの膝の皿を鉄パイプで粉砕した。
――右斜め上、マチェーテの振り下ろし。
幻の人差し指が熱を帯びる。半歩ズレて刃を躱し、相手の顎を右の掌底でかち上げる。ゴキリと頸椎が鳴る音。
まるで背中に目がついているかのような、いや、空間そのものを金型の設計図のように「触覚」で把握しているかのような超人的な回避と反撃。長年の職人仕事で培われたミリ単位の空間認識能力が、命のやり取りの中で完全に覚醒していた。
「あいつ……バケモノかよ……っ!」
怯んだ隙を突き、サトルは男たちが乗ってきたワンボックスカー(エンジンがかかりっぱなしだった)の運転席に滑り込んだ。助手席のドアを蹴り開ける。
「乗れ!!」
「ちょっと、私運転免許ないんだけど!」
「俺が運転する! いいから乗れ、死ぬぞ!!」
文句を垂れながらも、あやは驚異的な身のこなしで助手席に飛び乗った。その手にはしっかりと、サトルの上着に包まれた「金型」が抱えられている。
サトルはアクセルを床まで踏み抜いた。タイヤが白煙を上げ、ワンボックスカーは弾かれたように新宿の幹線道路へと飛び出した。
しかし、休む間もなく、後方から二台の黒いセダンが猛追してくる。
「追ってきたわよ! ちょっと、もっとスピード出せないの!? もたもたしてると後ろから撃たれるわよ!」
「うるさい! 俺はペーパードライバーなんだよ!」
「はぁ!? あんた、それでも男!? 警察志望だったんでしょ、カーチェイスのひとつもできないわけ!? あーもう、最悪! ゴムなしで中出しされた挙句、ヤクザに蜂の巣にされて死ぬとか、私の人生マジで終わってる!」
助手席でギャーギャーとわめき散らすあや。その憎まれ口は、極限状態の恐怖を裏返しにしたような、生命力に溢れた不協和音だった。
だが、その声が、サトルの理不尽なまでの「善性」を刺激した。
この最低で強欲な売女を、絶対に死なせるわけにはいかない。昨夜、結衣で果たせなかった男としての責任。それを、この不格好な逃避行で果たすしかないのだ。
「しっかり捕まってろ……舌噛むぞ!!」
サトルは、血まみれの右手と、「存在しない左手」でハンドルを握った。
物理的にハンドルに触れているのは右手だけだ。だが、サトルの脳内では、失われた四本の指が完璧なグリップ力でステアリングを制御していた。車のタイヤの挙動、路面の摩擦、追っ手の車のバンパーの距離。すべてが「手に取るように」分かる。
サトルは赤信号の交差点へ、減速することなく時速一〇〇キロで突入した。
「きゃあああああっ!! バカバカバカ!!」
あやの絶叫が車内に響く。
交差するトラックの壁。サトルは幻の左手でサイドブレーキを引き、右腕の筋力を限界まで収縮させてハンドルを急回転させた。
重いワンボックスカーが、物理法則を無視したような異常な角度でスピンターンをキメる。トラックの鼻先を数ミリの隙間で躱し、凄まじいタイヤの焦げ臭さと共に、細い裏路地へと車体をねじ込んだ。
追ってきた一台のセダンは曲がりきれず、交差点の信号機に激突して炎上。もう一台はトラックの側面に突っ込み、完全に鉄屑と化した。
けたたましいクラクションとスキール音が遠ざかっていく。
ルームミラーには、黒煙を上げる追っ手の残骸だけが映っていた。
サトルは荒い息を吐きながら、震える右足をアクセルから離した。バクバクと心臓が肋骨を突き破りそうだった。
「……ざけんな……」
助手席から、ひどく掠れた声が聞こえた。
見ると、あやはシートベルトにきつく縛り付けられたまま、涙目でサトルを睨みつけていた。金型だけは、絶対に離すまいと胸に強く抱え込んでいる。
「ふ、ふざけんな……おじさん、マジでイカレてる……。寿命が十年縮んだわよ……」
文句を言いながらも、その声には確かな安堵と、底辺を生き抜く女特有の逞しい笑い声が微かに混じっていた。
サトルは思わず、血まみれの顔を歪めて、ふっ、と自嘲気味に笑った。
「……三百万、これで少しはチャラにしてくれ」
「バカ言わないで。今の最悪なドライブで、慰謝料五百万に跳ね上がったから」
あやから立ち昇る甘いバニラの香りが、焦げたゴムの臭いを中和していく。
新宿の狂った朝が終わろうとしていた。だが、佐島が仕掛けた巨大な罠の包囲網は、まだ彼らを逃がしてはいなかった。




