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幻指  作者: 光闇居士


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第四章:堕ちた正義と裏路地の共犯者

紫色のネオンが消え、ラブホテルの小窓から白々しい新宿の朝光が差し込んでいた。

 サトルは、ひどい頭痛と共に目を覚ました。

 鼻をつく血の悪臭と、それを中和するように漂う甘いバニラの残り香。ゆっくりと体を起こしたサトルの目に飛び込んできたのは、シーツに散らばった自分の血痕と、あられもない姿で眠るあやの白い裸体だった。そして、あやの太ももの内側に生々しく残る、自分が乱暴に吐き出した白濁の跡。


 ――俺は、何てことを……!


 昨夜の記憶がフラッシュバックし、サトルの胃袋が激しく痙攣した。

 追っ手から逃れるためのパニック状態だったとはいえ、力ずくでこの小柄な女を組み伏せ、あろうことか避妊具もつけずに、己の鬱憤と絶望のすべてをぶち撒けてしまった。

 かつて警察官を目指し、法と正義を守るために柔道の受け身を繰り返していた真面目な青年。それがどうだ。今はただの、人殺しで、強姦魔に成り下がってしまった。佐島を憎む資格など、どこにもない。俺はただの獣だ。


 猛烈な罪悪感と自己嫌悪が、サトルの胸を押し潰した。

 彼は震える右手で自分のズボンを探り、よれよれの財布を取り出した。中に入っていたのは、なけなしの生活保護費の残りである一万札が二枚と、千円札が数枚。サトルはその全財産を抜き出し、あやの枕元にそっと置いた。これですむ問題ではないが、せめてもの贖罪だった。

 そして「金型」を上着に包み、音を立てないように部屋を出ようとした、その時だった。


「……ちょっとおじさん、何それ」


 背後から、ひどく冷めきった、底意地の悪い声が響いた。

 振り返ると、あやがシーツを胸に引き寄せながら上半身を起こしていた。昨夜の淫靡な喘ぎ声など嘘のように、その瞳には金銭を値踏みする娼婦の冷酷な光が宿っている。

 あやは細い指で二万数千円をつまみ上げると、フッ、と鼻で笑った。


「あのさ、バカにしてる? 血まみれの指名手配犯を匿って、しかもゴムなしで中出しまでされて、二万ちょっと? アフターピル代にもならないんだけど」


「……すまない。本当に、本当に申し訳ない。金はそれしかないんだ。俺が全部悪かった。だから、もう忘れて……」

 サトルが土下座せんばかりの勢いで頭を下げると、あやの目はさらに吊り上がった。


「はぁ? 忘れて? ふざけんな! ゴムなしの強要は立派な犯罪! しかもあんた、絶対人殺して逃げてきたでしょ! 今すぐ警察呼んで、レイプと殺人未遂でぶち込んでやろうか! 慰謝料と口止め料で、あと最低でも三百万は用意しなさいよ! 臓器売ってでも払え!」


 あやは凄まじい剣幕で捲し立てた。同情の余地もない、底辺で生きる売女の、剥き出しの強欲とゆすりだった。サトルは圧倒され、壁際まで後ずさる。自分の犯した罪の重さと、この小娘の逞しすぎる恐喝の板挟みになり、どうしていいかわからず頭を抱えた。


「払えないなら、その小包(金型)置いてきな! それ、高く売れるんでしょ!?」

「だ、ダメだ! これだけは……!」


 あやがベッドから身を乗り出し、金型を奪い取ろうとサトルに掴みかかった、まさにその瞬間だった。


 ――シュガッ!!

 くぐもった破裂音と共に、ホテルの分厚い防音ドアの鍵穴付近が、内側に向かって吹き飛んだ。

 サプレッサー(消音器)を装着したアサルトライフルの銃撃。

 続いて、ドアが蹴り破られ、黒のタクティカルギアに身を包んだ大柄な男たちが、無言で部屋になだれ込んでくる。昨夜のアジア系マフィアとは違う。軍隊のような統率力。どこかの国の特殊工作員スパイか、あるいは裏の暗殺集団か。


「ひっ……!?」

 あやが短い悲鳴を上げ、シーツを握りしめてすくみ上がる(ように見えた)。

 銃口が、無慈悲にベッドの上のあやへ向けられる。目撃者は消す。彼らの冷徹なルールだ。


 ――『あと最低でも三百万は用意しなさいよ!』


 数秒前まで自分をゆすり、罵倒していた最低の売女。自業自得だ、見捨てて逃げればいい。

 だが、サトルの失われた左手の四本の指が、猛烈な「幻肢痛」を発して空間の死角を告げた瞬間、彼の肉体は理屈よりも先に動いていた。

 サトルは弾かれたように飛び出し、あやの細い体を抱き抱えながら、ベッドごと床へ転がり込んだ。直後、あやのいた空間を無数の銃弾が引き裂き、羽毛布団が爆発したように舞い散る。


「きゃあああっ!?」

「しがみついてろ!!」


 サトルは丸腰であやを庇いながら、右手でサイドテーブルの上のガラス製灰皿を掴み、先頭の男の顔面に向けて全力で投擲した。鈍い音と共に男が仰け反る隙を突き、あやの服をひったくるように抱えて、非常階段側の窓ガラスをパイプ椅子で叩き割った。

 朝の冷たい空気が流れ込む。サトルはあやの腰を抱きかかえたまま、二階の窓からゴミ捨て場のポリバケツの山へと躊躇なく身を投げた。


「痛っ……! ちょっと、何すんのよ死ぬ気!?」

 ゴミの山に埋もれながら悪態をつくあやに、サトルは自分の着ていた上着をバサリと被せた。

「服を着ろ! 死にたくなければ走れ!!」


 サトルはあやの手首を強く掴み、朝日に照らされた歌舞伎町の裏通りへと駆け出した。

 だが、絶望はそこからだった。

 路地を抜けた大通り。朝帰りのホストやカラスが漁るゴミ袋の向こう側に、異常な光景が広がっていた。


 通りを塞ぐように停まった、数台の黒いワンボックスカー。そこから降りてくる、スーツ姿の屈強な男たち。耳にはイヤホン。佐島の率いる「国家の公安裏部隊」だ。

 さらに反対側からは、昨夜アパートを襲撃した「アジア系マフィア」の残党が、山刀を新聞紙に包んで走ってくる。

 それだけではない。背後のホテルからは先ほどの「外国人スパイ」らしき部隊が、そして遠くの交差点からは、騒ぎを聞きつけた「正規の警察(白黒パトカー)」のサイレンが急接近してくる。


 白道と黒道。国家権力と裏社会。

 たった一つの「金型」と、それを持った指のない中年男を巡って、日本中の、いやアジア中の暴力機関が、この新宿の一角に集結しつつあった。


「嘘でしょ……あんた、どんだけ恨まれてんのよ!?」

 あやが引きつった顔で叫ぶ。

「知るか!! 俺だって何も分からねえんだよ!!」


 サトルは絶叫し、迫り来る黒服の公安部隊に向かって、落ちていた鉄パイプを拾い上げて突進した。

 本来なら、ただの町工場のオッサンだ。だが、今の彼は違う。幻の左手が、敵の殺気と死角を正確に読み取る。そして何より彼の背中には、自分を三百万でゆすろうとした、どうしようもなく身勝手で、しかしたった今、自分が抱いたばかりの「守るべき女」がいた。

 サトルの狂気に満ちた暴力と、不器用すぎる「善性(正義)」が、大新宿のど真ん中で大爆発を起こす。

 理不尽と暴力が渦巻く、白黒入り乱れる狂った逃避行が、ついに幕を開けた。

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