第三章:新宿のバニラと生存の交わり
非常階段から転がり込んだ先は、けばけばしい紫色のネオンが点滅する、場末のラブホテルの一室だった。
オートロックの重い扉が閉まった瞬間、世界から一切の音が消えた。耳鳴りだけが、サトルの頭蓋骨の内側でガンガンと鐘を打ち鳴らしている。
肺が千切れそうなほど息を荒げながら、サトルは血と泥に塗れた左手を壁につき、ズルズルと床に座り込んだ。右手には、死守した「金型」が硬く握りしめられている。自分がたった今、人間の首に鉄のタガネを突き立てて殺してきたという事実が、遅れて胃袋をせり上がってきた。
「……で、いくらだ」
嘔吐を飲み込み、サトルは掠れた声で目の前の女――あやを睨みつけた。
あやは血だらけの男と密室に押し込まれたというのに、怯える風でもなく、濡れた黒髪を鬱陶しそうにかき上げながらベッドの端に腰を下ろした。
「いくら出せるのよ、おじさん。こっちは商売あがったりなんだけど」
その擦れた、どこか見下すような響きが、サトルの内側で燻っていた「何か」の導火線に完全に火をつけた。
――ふざけるな。
親父の借金も、倒産した工場も、俺から警察官の夢を奪った佐島も、結衣のあの哀れむような目も、そして俺の左手を食いちぎったプレス機も。この世界は、いつも俺を上から見下ろして、嘲笑っている。
サトルは獣のような唸り声を上げると、床から跳ね起き、あやの細い体をキングサイズのベッドへと力任せに押し倒した。
「ちょっと、何す――んっ!」
抗議の声を、血と雨水に塗れた唇で乱暴に塞ぐ。それはキスというより、飢えた野犬の捕食だった。サトルの不器用で暴力的な舌が、あやの歯列をこじ開け、熱を帯びた口腔内を蹂躙する。鉄の錆びた味に、あやの持つ甘い唾液が絡みつく。
あやは一瞬身を強張らせたが、すぐに抗うのをやめた。それどころか、サトルの背中に回された細い腕が、彼の濡れたシャツをギュッと掴み、息苦しそうな鼻声を漏らし始めた。
「立て。……跪け」
唇を離し、サトルは自分でも驚くほど低く、残酷な声で命じた。
あやの安いドレスを、布が裂けるのも構わずに引き剥がす。現れた白い肌。サトルに女の扱いの経験など、ほとんどない。だからこそ、彼の行動には一切の抑制がなかった。四十五年間で溜め込んだすべての屈辱、無力感、恐怖を、ただ目の前の女の体に叩きつけようとしていた。
ベッドの上に跪かされたあやは、文句を言う代わりに、妖しく潤んだ瞳でサトルを見上げた。そして、サトルの粗野な指が己の顔に押し当ててきた男の猛りを、ゆっくりと、その柔らかな唇で迎え入れた。
「……ぁ……んっ……」
あやの口内は、驚くほど熱く、滑らかだった。サトルの不器用で暴力的な押し付けを、熱を帯びた粘膜と舌のうねりで完璧に包み込む。ズチュ、ズチュと卑猥な水音が部屋に響くたび、あやの喉の奥から漏れる淫靡な吐息が、サトルの下腹部を焼くような興奮へと導いていく。
「あああっ……!」
もう、限界だった。サトルはあやの肩を乱暴に掴み、仰向けに組み伏せた。
結衣には決して向けられなかった猛烈な欲望と、世界への怨嗟。それを剥き出しのまま、あやの柔らかな秘所へ突き入れようとした、その瞬間だった。
「あ……ちょっと待って。直はダメ……っ、何か、被せて……」
あやの細い手が、咄嗟にサトルの分厚い胸板を押し返そうとする。
売女としての、あるいは自己防衛としての当然の懇願。しかし、血と狂気に支配されたサトルの耳には、その言葉は意味を成さなかった。
ゴムなど持っているはずがない。仮にあったとしても、今のサトルには、たとえ薄い膜一枚であっても、自分とこの世界(目の前の女)を隔てる障壁など許せなかった。俺の痛みを、俺の絶望を、お前の肌で直接受け止めろ。
「……うるさいっ」
低く唸り、サトルはあやの細い手首を血塗れの右手で強引に押さえつけた。あやの怯えたような息を無視し、一切の容赦なく、己の剥き出しの猛りを、彼女の最奥まで一気に突き入れた。
「ああっ!? んっ、うああっ……!」
倫理観を切り裂くような、有無を言わさぬ暴挙。
裂けるような痛みに顔をしかめるかと思いきや、あやの口から飛び出したのは、粘り気を帯びた甘い嬌声だった。
生身で侵入される恐怖や嫌悪を飛び越え、あやの柔肉は、サトルの無骨で激しい分身を、驚くほどの熱と湿度でびっしりと吸いつくように包み込んだ。サトルがどれほど乱暴に腰を打ち付けても、彼女の体は水のように形を変え、そのすべての暴力を「極上の快楽」として受容してのける。
汗に塗れた肌と肌が激しくぶつかり合う。サトルは形振り構わず、正常位から背後へと体勢を変え、ただひたすらに己の怒りを叩きつけた。
「んぁあっ! いい、おじさん、中っ……直で、擦れて……ああっ!」
サトルの理性が、完全に飛んだ。
生身の粘膜が直接擦れ合う圧倒的な熱量。耳元で喘ぐあやの淫靡な声。シーツを掴み、弓なりに反るしなやかな体。サトルは、彼女を「とんでもない経験を積んだプロの売女」だと思い込んでいた。だが、ゴムもつけない底辺の男の狂気に満ちた暴力的なセックスを、ここまで完璧に、男の自尊心を満たしながら受け止めきれる女がいるだろうか。
――バニラの匂いが、濃くなる。
激しい摩擦熱と共に、あやの体から立ち昇るその甘い香りが、異常なほどの重みを持ってサトルの肺を満たしていった。それは脳のシナプスを直接撫で回し、理性を麻痺させる魔法のようだった。
闘争と狂気に支配されていたサトルの細胞が、バニラの匂いに包まれるにつれ、不思議な安らぎへと溶かされていく。
「……ぁ……あ……っ!!」
獣のような咆哮と共に、サトルはあやの最も深い場所へ、己のすべての感情と絶望、そして純粋な命の種を、一滴残らず直接ぶち撒けた。
痙攣する背中。滝のように流れる汗。
すべてを出し尽くしたサトルは、あやの汗ばんだ胸の上にどさりと崩れ落ちた。
ほんの数分前まで、血走った目で人を殺し、狂ったように女を犯していた男。避妊具さえ拒絶し、暴力的に欲望を押し付けた男。
それがどうだ。バニラの濃密な霧に肺を満たされた途端、サトルの全身から凄まじい勢いで力が抜け落ちていった。
サトルは、あやの柔らかな胸に顔を埋めたまま、スウ、スウ、とまるで無邪気な少年のように、穏やかで規則正しい寝息を立て始めた。あやの持つ「バニラの匂い」がもたらす、奇妙なほどの安堵感と催眠の底へ、あっけなく沈み込んでしまったのだ。
薄暗い部屋の中。
激しい情事の余韻で、あやもまた荒い息を吐いていた。汗ばんだ黒髪がシーツに散らばっている。
「……はぁ、はぁ……ほんと、無茶苦茶するんだから……中出しなんて……」
文句を言いながらも、あやは疲れ果てたように腕を回し、自分の胸で眠る血まみれの中年男の背中を、ポンポンとあやすように優しく抱きしめた。
目を閉じる直前。
あやの瞳がほんの一瞬だけ、寝こけるサトルの寝顔と、彼が床に落とした「金型」を、静かに、そして底知れぬ深さを持った眼差しで見つめた。
それは売女のものでも、恋する女のものでもない、全く別の何かを思わせる冷涼な一瞥。
しかしその光もすぐに瞼の裏へと隠され、あやもまた、甘いバニラの残り香の中、サトルの体温に包まれるようにして深い眠りへと落ちていった。




