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幻指  作者: 光闇居士


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第二章:鉄の匂いとどん底の襲撃

雨と泥に塗れた体をひきずり、サトルは自分のねぐらであるボロアパートへと辿り着いた。

 結衣の温もりが残る右手を、無意識のうちに何度もズボンで擦る。だが、あの石鹸の匂いと柔らかな感触は、こびりついて離れない。いや、違う。自分自身の醜悪な欲望が、皮膚の下で腐臭を放っているのだ。

 軋む鉄階段を上り、錆びついたドアノブを回す。四畳半の部屋は、冷蔵庫の低い唸り音だけが響く、棺桶のような空間だった。


 電気をつける気にもなれず、濡れた服のまま畳に倒れ込もうとした時、ちゃぶ台の上に置かれた小さな段ボール箱が視界に入った。

 消印は三日前。差出人の欄には、殴り書きのような字で「吉成」とだけあった。

 ――吉成。十年前に家を飛び出し、裏社会のシノギに手を出したと噂で聞いたきりの、愚かな実の弟だ。


 不審に思いながらガムテープを引き剥がす。中には、油紙に厳重に包まれたズッシリと重い金属の塊と、血の滲んだメモが入っていた。

『兄貴、ごめん。これしか頼れねえ。俺の命だ。絶対に渡すな』

 油紙を開く。現れたのは、精緻を極めた真鍮色の「金型モールド」だった。

 三十年間、鉄を削り続けてきたサトルの職人としての目が、一瞬でその異常性に気づく。複雑な溝、肉眼では捉えきれないほどの微細なヘアライン加工。今の日本の最新鋭のNC旋盤ですら、これほどの精度は出せない。なんだ、これは。吉成は一体、何に関わったというのか。


 その時だった。

 ――ドガンッ!!

 爆発音にも似た轟音と共に、薄いベニヤのドアが枠ごと吹き飛んだ。

 サトルが息を呑む暇もなく、泥靴を踏み鳴らして三人の男が雪崩れ込んでくる。黒いレインコート。無機質な瞳。手には、鈍く光るマチェーテ(山刀)と、サプレッサーの付いた黒い拳銃。

 アジア系の外国人だ。彼らは一切の言葉を発さず、ただ虫を潰すような目でサトルを見下ろした。


「な、なんだお前ら……!」

 後ずさろうとしたサトルの左手を、先頭の男の安全靴が情赦なく踏み砕いた。

「ぎゃあああっ!!」

 縫合したばかりの肉が裂け、鮮血が畳にぶち撒かれる。激痛が脳髄を焼き切る。男はサトルに銃口を向け、もう一人の男がちゃぶ台の上の「金型」に手を伸ばした。


 その瞬間、サトルの中で何かが決定的に「切れた」。


 どうして、俺なんだ。

 親父が死んで夢を諦め、真面目に鉄の粉を吸い込んで生きてきた。会社は潰れ、指は機械に食われ、母親は俺の顔すら忘れた。たった一つの救いだった結衣の温もりすら、自分自身の惨めさで手放した。

 これ以上、俺から何を奪うというのか。命か? ふざけるな。

 この理不尽極まりない無条理が、サトルの奥底に封印されていた「爆薬」に火をつけた。


 失われたはずの左手の四本の指が、猛烈な熱を持って空間の「死角」を察知した。幻肢痛が、敵の殺気を読み取るレーダーへと変貌する。

 サトルは踏みつけられた左手を強引に引き抜きながら、右手をちゃぶ台の下へ滑り込ませた。そこに転がっていたのは、工場から持ち帰っていた超硬合金製のタガネ(金属を削るための鑿)だ。

 銃口が火を噴くより一瞬早く、サトルはかつて警察学校で叩き込まれた逮捕術の踏み込みで、男の懐へ潜り込んだ。分厚い胸板の筋肉が躍動する。


「あああああっ!!」


 咆哮と共に、サトルの右手が閃く。鋭利なタガネが、レインコートの男の顎の下、頸動脈を正確に、金型を穿つような完璧な角度で貫いた。

 ブチャッ、と生温かい血の雨が四畳半に降り注ぐ。男が痙攣して崩れ落ちるのと同時に、サトルはその巨体を盾にし、二人目の男の膝裏にタガネを深々と突き立てた。骨が砕ける音。悲鳴。

 理屈ではない。これは、どん底に落とされた男の、世界に対する純粋な「殺意」だ。

 サトルは金型をひったくるように抱え込み、血の海と化したアパートから、窓ガラスを突き破って路地へと飛び降りた。


 ――走れ。走れ。走れ。

 冷たい雨の中を、血と泥に塗れた中年男が疾走する。背後から追っ手の怒号と、サイレンの音が近づいてくる。

 肺が破けそうだった。左手からは絶えず血が滴り落ちている。ネオンの光が滲む新宿・歌舞伎町の奥深く、ゴミ箱と室外機がひしめき合う、光の届かない路地裏へとサトルは転がり込んだ。


 その時。

「……痛っ。ちょっと、何すんのよ」

 暗闇の中で、誰かに激突した。

 細く、しかし弾力のある体。女だ。壁に押し付けられた女の口から、火のついたタバコが地面に落ち、ジュッと音を立てて消えた。

 追っ手の足音が、路地の入り口まで迫っている。サトルはパニックに陥り、咄嗟に血まみれの右手で女の口を塞ぎ、壁に強く押し付けた。


「声、出すな……っ」

 荒い息を吐きながら睨みつける。ネオンの逆光に照らされ、女の顔が浮かび上がった。

 黒い長髪。安いけばけばしいドレス。中肉中背だが、妙に整った顔立ちをした二十代の女だった。パパ活の客待ちか、街の底辺で生きる売女。

 だが、サトルを驚かせたのは彼女の「瞳」だった。血まみれの凶暴な男に押し付けられながら、女――あやの瞳には、一切の恐怖がなかった。ただ、酷く冷めた目で、サトルの顔と、彼が抱える「金型」を値踏みするように見つめていたのだ。


 そして、サトルの脳髄を別の意味で麻痺させるものが襲ってきた。

 匂いだ。

 あやの体から、むせ返るような「バニラ」の甘い香りが立ち昇っていた。血と鉄の悪臭に染まったサトルの肺に、その極端に人工的で甘美な匂いが侵入してくる。結衣の石鹸の匂いとは対極にある、安っぽく、底知れぬ猥雑さを孕んだ匂い。


 路地の入り口を、追っ手の黒い影が横切ろうとしている。

 見つかれば終わる。

 あやは塞がれた口の端をわずかに歪めると、突然、サトルの腰のベルトを強く掴み、己の体をサトルに密着させてきた。

 バニラの匂いが爆発する。柔らかな胸が、サトルの分厚い胸板に押し付けられる。あやはサトルの背後にあった、ホテル街の裏口にあたる従業員用の鉄扉を蹴り開け、血まみれの男ごと、甘い闇の中へ引きずり込んだ。


「……ツイてないわね、おじさん」


 扉が閉まる直前、耳元で囁かれたあやの掠れた声は、ひどく冷たく、そして熱を帯びていた。

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