表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻指  作者: 光闇居士


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

第十章:喪失のバニラと、泥濘のハッピーエンド

挿絵(By みてみん)

終わったはずの物語。手に入れたはずのハッピーエンド。

 だが、サトルという「マスターピース」の、時空を超えた本当の闘いが、今まさに始まろうとしていた。

 部屋の隅から、気のせいか、あの甘ったるいバニラの匂いが漂ってきたような気がした。


【しおの】

東京湾岸の潮風を背に受け、黒塗りの車列は足立区の裏通りへと滑り込んだ。

 車内は重苦しい沈黙に支配されていた。サトルの隣には、泥だらけの結衣が身を寄せ、疲労困憊して眠りに落ちている。彼女の細い指が、サトルの作業着の袖を赤子のように強く握りしめていた。

 助手席には、特務機関を率いる黒コートの男が座り、冷徹な目でフロントガラスの先を見つめている。彼らの目的はただ一つ。サトルが「野良猫の女」に預けたという、次元を超えるためのマスターピース――本物の金型を回収することだった。


「……着いたぞ」


 車が停まり、サトルは結衣の肩を優しく揺すって起こした。

 松崎の印刷工場。シャッターは、数時間前にサトルとあやが飛び出した時のまま、半開きになっていた。

 あやがいる。そう思ってシャッターの下をくぐり抜けたサトルの足が、工場の床を踏みしめた瞬間、ピタリと止まった。


 ――異常だ。


 三十年間、鉄を削ることで培ってきたサトルの五感が、空間の異様な歪みを察知した。

 インクと有機溶剤の臭いが消え失せている。代わりに充満しているのは、鼻腔を焼くような強烈な硝煙の臭いと、むせ返るような鉄錆――大量の血の匂いだった。

 特務機関の男たちが、無言で拳銃を構えながら工場内へと展開していく。サトルは結衣を背に庇いながら、ゆっくりと仮眠室の方へ歩みを進めた。


「なんだ、これは……」


 サトルの口から、呆然とした声が漏れた。

 輪転機はひしゃげ、コンクリートの壁には無数の弾痕が穿たれていた。巨大な刃物で一刀両断されたかのように、太い鉄骨が斜めに切断されて崩れ落ちている。

 ほんの数時間前まで、自分とあやが身を潜めていた場所で、想像を絶する規模の「戦闘」が行われたことは明白だった。火器の痕跡だけではない。人間の理解を超えた、物理法則を無視したような破壊の爪痕が、そこかしこに刻み込まれている。


 しかし、最も異様だったのは「死体」が一つもないことだった。

 あれだけの血痕が床にぶち撒かれ、肉片らしきものが壁にこびりついているというのに、死体はおろか、負傷者の一人すら残されていない。まるで、この空間で死んだ者たち全員が、文字通り「次元の彼方へ消し飛ばされた」かのように。


「あや……! あや、どこだッ!」

 サトルはパニックに陥り、仮眠室へと飛び込んだ。

 そこで彼が見たのは、無残に引き裂かれ、血の海の中にぽつんと残された「あやの安物のドレス」だった。

「……ッ!!」


 サトルは膝から崩れ落ち、血に塗れたその布切れを拾い上げた。ひどく冷たかった。だが、布の繊維の奥からは、あの強烈で甘いバニラの匂いが、呪いのように立ち昇ってくる。

「おい、生存者がいるぞ」

 特務機関の部下が、工場の奥の段ボールの山から一人の男を引きずり出してきた。工場の主、松崎だった。彼は無傷のまま、いびきをかいて眠りこけていた。

「松崎! おい、何があった! あやはどうした!」

 サトルが胸ぐらを掴んで揺さぶると、松崎は寝ぼけ眼をこすりながら、間抜けな声を出した。

「……あ? サトルか……? なんだ、パチンコから帰ってきたら、急にすげぇ甘え匂いがしてよ……頭がクラクラして、気づいたら寝ちまってて……」


 黒コートの男が、舌打ちをした。

「……やられたな。野良猫だと思っていた女が、まさか我々の監視網すら欺く『本物の化け物』だったとは」

 男は周囲の破壊痕を見渡し、忌々しそうに吐き捨てた。

「金型は、あの女が持ち去った。おそらく、この惨状もあの女が一人で、あるいは彼女の属する『未知の組織』が引き起こしたものだ。我々は、とんでもない思い違いをしていたらしい」

 黒コートの男の言葉は、サトルの耳には届いていなかった。


『帰ってきて。私、おじさんのこと待ってるから』

 朝焼けの路地裏で、自分に背伸びをしてキスをしてきた、あの純真な顔。

 あやは、死んだのか。それとも、すべては俺を騙すための芝居で、最初から金型を持って消えるつもりだったのか。

 血まみれのドレスを握りしめるサトルの左手――失われた四本の指が、行き場のない激しい幻肢痛を訴えていた。


「……サトル君」

 特務機関の男が、感情を消した声でサトルを呼んだ。

「金型を失った以上、我々の取引は半分失敗だ。だが……」

 男は、サトルの分厚い手と、その欠損した指を見つめた。

「あのパーツをこの時代で削り出せる『有機的な揺らぎ』を持つ職人は、もはや君しかいない。君の存在そのものが、我々国家にとって最大の重要機密マスターピースとなった」

 男は顎をしゃくり、部下たちに銃を下ろさせた。

「今日は引こう。君たちを拘束するような真似はしない。好きに生きるといい。だが、我々の『目』は常に君の背後にある。いずれまた、君のその手が必要になる時が必ず来る」


 それは、実質的な放免だった。

 巨大な国家権力が、ただの鉄屑男の「職人としての価値」にひれ伏し、自由を確約したのだ。

 黒塗りの車列が去り、印刷工場には、サトルと結衣、そしてバニラの残り香だけが取り残された。


「……サトル君」

 結衣が、背後からそっとサトルの背中に抱きついてきた。

 彼女の柔らかな胸の感触が、強張ったサトルの筋肉に伝わる。結衣の目からは、とめどなく涙が溢れていた。

「終わったのね……全部。もう、佐島に怯えることもない。私たち、やっと……」

 結衣の腕が、サトルの腰を強く、きつく締め付ける。その震える温もりに触れた瞬間、サトルの中で張り詰めていた狂気の糸が、ぷつりと切れた。

 終わったのだ。これでいい。俺は、ずっとこの女を守りたかったのだから。

 サトルは血まみれのドレスを床に落とし、振り返って結衣の体を強く抱きしめ返した。石鹸の優しい匂いが、バニラの強烈な幻影を少しだけ遠ざけてくれた。


***


 一週間後。

 サトルと結衣は、特務機関が手配した都内の静かなマンションの一室にいた。

 佐島の死は「任務中の不慮の事故」として処理され、結衣は莫大な見舞金とともに自由の身となった。サトルにも、一生遊んで暮らせるだけの金が振り込まれた口座と、新しい戸籍が与えられた。

 すべてを手に入れた。思い描いた以上の、完璧なハッピーエンドだった。


 深夜の寝室。

 厚い遮光カーテンが引かれた静寂の中で、サトルと結衣の肌が、汗ばみながら重なり合っていた。

「ああっ……サトル君……」

 結衣の甘く、艶やかな声が部屋に響く。

 それは、あやとの極限状態で貪り合った、あの暴力的なまでの交わりとは全く違うものだった。

 結衣の愛撫は、どこまでも献身的で、優しかった。長年の地獄から自分を救い出してくれた英雄に対する、絶対的な服従と、母性にも似た深い慈愛。四十代の成熟した人妻の、雪のように白く柔らかな肉体が、サトルの傷だらけの体を包み込んでいる。


 サトルの無骨な右手が、結衣の滑らかな背中の曲線を撫でる。

 結衣はサトルの欠損した左手――あの醜い肉塊の縫合跡を、微塵も嫌悪することなく、まるで聖遺物にでも触れるかのように両手で包み込み、そっと唇を押し当てた。

「愛してる……サトル君。ずっと、ずっと昔から……」

 結衣の口から紡がれる言葉は、サトルが四十五年間、喉から手が出るほど欲しかった言葉だった。

 サトルは結衣を仰向けに組み伏せ、その愛おしい体に、己のすべてをゆっくりと沈めていく。結衣は苦しげに顔を歪めながらも、サトルの背中に爪を立て、己の最奥で彼を熱く、力強く迎え入れた。


「んっ……あぁ……っ、いいよ、サトル君……全部、私の中に……」

 二人の体が、波を打つように重なり、離れ、また強く結びつく。

 結衣の濡れた粘膜がサトルをきつく締め付け、そのたびに、これまでの人生の絶望と疲労が、彼女の胎内へと溶け出していくような錯覚に陥った。

 これが、愛だ。俺が求めていた、本物の温もりだ。

 サトルは結衣の首筋に顔を埋め、彼女の石鹸の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、これまでにないほどの深く、静かな絶頂を彼女の奥底に注ぎ込んだ。

「あああっ……!」

 結衣の体が弓なりに反り、サトルを抱きしめたまま、歓喜の涙を流して崩れ落ちた。


 激しい情事の後。

 結衣はサトルの分厚い腕を枕にし、安心しきった赤子のような寝顔で、穏やかな寝息を立てていた。

 サトルは、天井の木目をぼんやりと見つめていた。

 手に入れた。すべてを。

 だが――腑に落ちない。

 胸の奥の、一番暗くて深い場所に、絶対に埋まらない巨大な空洞が口を開けている。

 結衣を抱いている最中も、サトルの脳裏から「あや」の姿が消えることはなかった。結衣の柔らかな熱を味わいながらも、失われた左手の幻肢痛は、あの路地裏の女の、少し擦れた肌の感触と、むせ返るようなバニラの匂いを、狂おしいほどに探し求めていたのだ。


 あやは、死んだのか。それとも、どこかの空の下で、あの小悪魔のような顔で笑っているのか。

 特務機関ですら正体を掴めなかったあの女は、一体何者だったのか。

 恋もまともに知らなかった実直な職人の心は、結衣という絶対的な「安息」を手に入れてなお、あの血と泥に塗れた数日間の「狂気」に、魂の半分を奪われたままだった。


 サトルは、結衣を起こさないようにそっと目を閉じた。

 疲労と、満たされたはずの肉体の重みが、彼を深い眠りの底へと引きずり込んでいく。


 ――そして、夢を見た。


 そこは、見渡す限りの無機質な、冷たい金属の壁に囲まれた空間だった。

 見たこともないような幾何学模様の光が明滅する、巨大な円柱の部屋。

 その中央に、女が繋がれていた。

 両手首を青白い光のリングで拘束され、宙に吊るされている。

 いつも纏っていた安物のドレスは引き裂かれ、傷だらけになった白い肌が露わになっていた。

 黒い長髪が、力なく垂れ下がっている。


『……あや!』


 夢の中で、サトルは叫ぼうとしたが、声が出なかった。体も動かない。

 うなだれていたあやが、ゆっくりと顔を上げた。

 あの、人を小馬鹿にしたような、擦れた強気な顔はない。

 その頬には一筋の涙が伝い、怯えきった、ただの脆い少女の顔があった。


 あやの唇が、震えながら動く。

 声は聞こえない。だが、サトルの五感は、彼女の口の動きを正確に読み取っていた。


『――おじさん……助けて……』


 直後、サトルの左手に、プレス機で指を潰された時よりも遥かに強烈な、地獄の業火で焼かれるような「幻肢痛」が爆発した。


「ッ!!」

 サトルは、声にならない悲鳴を上げてベッドから跳ね起きた。

 全身が滝のような冷や汗で濡れていた。隣では、結衣が何も知らずに静かな寝息を立てている。

 サトルは荒い呼吸を繰り返しながら、自分の左手――親指だけが残された肉塊を見つめた。

 ズキズキと、痛む。

 その痛みは、決して過去の幻などではない。

 遥か遠く、この次元の向こう側から、あの女が自分を呼んでいる。その確信だけが、サトルの細胞一つ一つに突き刺さっていた。


 サトルはベッドの端に座り込み、両手で顔を覆った。

 窓の外では、東京の夜が白み始めている。

 終わったはずの物語。手に入れたはずのハッピーエンド。

 だが、サトルという「マスターピース」の、時空を超えた本当の闘いが、今まさに始まろうとしていた。

 部屋の隅から、気のせいか、あの甘ったるいバニラの匂いが漂ってきたような気がした。


(第一作『幻指』・完)

https://linkco.re/8qTseBQG


理不尽に指を奪われ、どん底を這う真面目な金型職人。彼が手にした「謎の金型」が、国家、警察、裏社会を巻き込む血みどろの逃走劇の幕を開ける!

重厚なハードロックサウンドに、主人公・サトルの魂の慟哭を乗せた主題歌『鉄屑とバニラ』。その武骨な咆哮の隙間に忍び込むのは、彼と命を共にするパパ活女子・あやの甘く艶やかなウィスパーボイス。

暴力とエロス、絶望と救済。極限状態の男と女が織りなす「匂い立つような」ノワールの世界へ、あなたを溺れさせる。


https://linkco.re/9RUyztRc


--------------------------------------------

鉄屑とバニラ _(Scrap & Vanilla)


歌詞:

プレス機が食いちぎった 俺の四十五年

残されたのは 鈍い幻肢痛いたみと錆びた鉄の匂い

光の道は閉ざされ 泥水啜って生きてきた

理不尽な雨が この無様な背中を打ち据える


「……可哀想なおじさん。全部、忘れさせてあげる」


吠えろ! 奪われた左手の代わりに!

正義ウソで塗り固められた この狂った街のド真ん中で!

血に塗れた金型モールド 命に代えても離さない

底辺の怒りを 獣の牙に変えて突き立てろ!


パトカーのサイレン 迫るヤクザの足音

誰も彼もが 俺を虫ケラのように踏み躙る

失うものなど もう何一つ残っちゃいない

ならこの命、悪魔のトラップに放り込んでやる


「……いいよ、もっと奥まで。私の匂いで、眠りなさい……」


天使の顔をした過去(結衣)からは逃げ出した

だが、このバニラの匂いだけは、なぜか俺の肺を掴んで離さない

この女が破滅への罠だとしても

俺は喜んで、その泥沼に溺れてやる


吠えろ! 幻の指が痛みで叫ぶ!

国家ヤツらの首輪を引きちぎり 暴走する鉄屑になれ!

守るべきものは たった一つの甘い体温

世界のすべてを敵に回し 今、真夜中を撃ち抜け!


終わらない逃亡……血と鉄の果てへ……

「……おやすみ、サトル」


【光闇居士】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ