第一章:未遂の情事と幻の警察章
存在しないはずの左手の中指が、ひどく痒かった。
骨の髄から湧き上がるような、じっとりとした痒みだ。右手で掻きむしろうにも、そこには分厚いガーゼと、歪に縫い合わされた肉の塊しかない。親指だけが滑稽に残されたその肉塊を、冷たい雨が容赦なく叩きつけている。
四十五年間の人生が、あの鈍い金属音とともに終わったのだという実感が、泥水に塗れたスニーカーの重みとなって両足にまとわりついていた。
――ガツン、という鼓膜を破るようなプレス機の落下音。
飛び散った赤い飛沫。油と鉄の匂いに混じる、自分の骨が砕ける生温かい臭気。倒産を三日後に控えた町工場で、経営者の夜逃げを知らされた直後の、ほんの数秒の油断だった。三十年近く連れ添ってきた機械は、主人の絶望など知る由もなく、寸分の狂いもない一〇〇トンの圧力でサトルの左手四指を正確に、完全に「成型」した。
雨足が強くなる。視界が白く濁る中、サトルは目的もなくアスファルトを引きずっていた。
どこへ行くというのか。帰る場所などない。取り壊しの決まった社宅の四畳半。施設に入れた母の、すっかり空っぽになってしまった焦点の合わない瞳。親父が死んで残した借金。すべてが雨に溶けてしまえばいいと願いながら、足は無意識のうちに、見慣れた住宅街へと向かっていた。
一筋の光を求める、羽の折れた蛾のように。
「……サトル君?」
ふいに、雨音を切り裂いて、柔らかく、ひどく懐かしい声が鼓膜を打った。
顔を上げる。水銀灯の青白い光の下、ビニール傘を傾けた女が立っていた。結衣だった。
スーパーのレジ袋を提げた彼女は、全身ずぶ濡れで亡霊のように立ち尽くすサトルを見て、息を呑んだ。結衣の輪郭だけが、この薄汚れた世界で切り取られたように発光して見えた。子供の頃から変わらない、少し困ったような、それでもすべてを受け入れてくれるような細い眉。
「どうしたの、その手……それに、そんなに濡れて」
結衣が駆け寄ってくる。ビニール傘がサトルの頭上を覆う。雨が遮られた途端、結衣からふわりと匂いが立ち上った。
微かな石鹸の香りと、雨の湿気に乗って届く、熟れた果実のような女の体臭。
サトルの奥歯がガチガチと鳴った。寒さからではない。彼女の存在そのものが、サトルの惨めさを容赦なく抉り出してきたからだ。
――『お前じゃ無理だ、サトル。親父さんの借金、誰が返すんだ? 警察官なんて夢見てる場合じゃないだろ』
いつかの情景が、フラッシュバックする。
警察学校の真新しい制服を着た男の、見下すような冷たい眼差し。佐島だ。サトルと同じ夢を語り合い、柔道の乱取りで共に汗を流した親友。だが、佐島は光の差すエリート街道を歩み、サトルは油まみれの作業着を着て、薄暗い工場で鉄を削る人生を選ばざるを得なかった。
そして佐島は、サトルの唯一の希望だった結衣すらも、その制服の権威とともに奪い去っていったのだ。
「いいから、中に入って。彼、今日は当直で帰らないから」
抵抗する気力もなかった。結衣に腕を引かれるまま、サトルは彼女のマンションに足を踏み入れた。
佐島の気配が染み付いた玄関。きれいに磨かれたフローリング。そのすべてがサトルを拒絶しているように思えたが、結衣の差し出すバスタオルの温もりが、サトルの強張った体を少しずつ溶かしていった。
「酷い……こんなになるまで、どうして」
リビングのソファに座らされ、結衣がサトルの左手を取り上げた。
血と泥に汚れ、包帯の隙間から赤黒い肉が覗く醜悪な塊。サトルは慌てて手を引こうとしたが、結衣の白く細い指が、それを優しく包み込んだ。
彼女の手は、驚くほど熱かった。
命の熱だ。死んだ鉄ばかりを触ってきたサトルの手に、結衣の掌から脈打つような血の温もりが流れ込んでくる。結衣は嫌悪の色一つ見せず、サトルの足元に跪き、濡れた前髪をタオルで拭い始めた。
顔が近い。
結衣の吐息が、サトルの首筋にかかる。開いた胸元から覗く、白い肌の起伏。細い首筋から漂う、甘く、それでいて生活の匂いが染み付いた体臭。それはサトルの頭の芯を痺れさせるような、強烈な毒だった。
気がつけば、サトルは残された右腕で、結衣の細い肩を引き寄せていた。
「あっ……」
結衣が小さく声を漏らす。抵抗はなかった。むしろ、彼女の体は崩れるようにサトルの胸に寄りかかってきた。
結衣の体は柔らかかった。長年、硬い鉄の金型ばかりを抱いてきたサトルにとって、その柔らかさは狂おしいほどに圧倒的だった。結衣の腕が、サトルの背中に回る。彼女もまた、孤独だったのだ。佐島という国家の猟犬の妻として、冷え切った家庭の中で、この女も何かを渇望していた。
唇が重なる。
結衣の口内は熱く、涙のようなしょっぱい味がした。サトルの不器用な舌が結衣のそれを探り当てると、彼女は小さな嗚咽を漏らしながら、さらに強くサトルの体を抱きしめてきた。
失われた左手の指先が、猛烈な熱を持って疼き始めた。ないはずの指が、結衣の背中の滑らかな曲線を撫で回している。幻肢痛が、極限の快感に変換されていく。右手が彼女のブラウスのボタンを引きちぎるように外し、柔らかな胸の膨らみに触れた瞬間――。
――カチャリ。
金属の冷たい音が、脳内に響いた。
手錠の音だ。いや、違う。拳銃のスライドを引く音だ。
眼前に、結衣の白い肌に重なるように、佐島の顔が浮かび上がった。
冷酷に歪んだ唇。公安という国家の暗部に身を置き、合法的に人を踏みにじることを覚えた男の、見下すような視線。
『お前みたいな負け犬が、俺の女に触れるのか?』
佐島の声が、幻聴となってサトルの耳元で囁いた。
その瞬間、サトルの左手に、プレス機に押し潰された時と全く同じ、骨が粉砕されるような激痛が走った。
「ぎっ……!!」
うめき声を上げ、サトルは弾かれたように結衣の体を突き飛ばした。
ソファに倒れ込んだ結衣が、はだけた胸元のまま、怯えたような、傷ついたような瞳でサトルを見上げる。
「サトル君……?」
「ちが、違う……俺は……」
呼吸ができない。胃袋の底から、酸鼻を極めるようなヘドロのような感情が込み上げてくる。
罪悪感。劣等感。どうしようもない己の惨めさ。
俺は、こんな醜い体で、親友の妻であり、天使のようなこの女を、自分の淀んだ泥沼に引きずり込もうとしたのか。手に入らなかった警察官の制服への恨みを、彼女の体を犯すことで晴らそうとしたのか。
ガタガタと全身が震え出した。失われた左手が、火を吹くように痛む。
サトルは結衣の顔をまともに見ることができなかった。自分が吐き出した醜悪な欲望に耐えきれず、彼は嘔吐を堪えながら、転がるようにして玄関へと向かった。
「待って、サトル君! 雨が……!」
背後から結衣の悲痛な声が響く。だが、サトルは振り返らなかった。振り返れば、自分が人間の形を保てなくなるような気がした。
ドアを乱暴に開け放ち、再び土砂降りの雨の中へと飛び出す。
冷たい雨が、熱を持った体を容赦なく打ち据える。結衣の柔らかい感触と、石鹸の匂いだけが、まだ右手に、そして失われた左手にべったりとこびりついていた。
サトルは泥水溜まりに膝をつき、腹の底から獣のような咆哮を上げた。
雨音だけが、すべてを失った中年男の慟哭を、冷たく掻き消していた。




